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                                          熊猫


  それはいつもどおりの朝から始まった。

  「ねぇ、また出たんだって。幽霊」

  フレア・フィフスは唐突に足を止めた。16歳という中途半端な年齢特有の、
  まだ未発達な体つきの少女である。

  なんの飾りけもない、ただ長い黒髪を伸ばし、きっちり制服を着ている。
  掃いている飴色のローファーは、毎日磨いてないとこの艶は保てまい。

  まぁつまり、多少の真面目さはあるものの、
  彼女はごく普通の生徒と言えた。

  押しているワゴンには、返却された本が山積みになっている。
  もちろん相当な重量だが、キャスターがついているため、
  動かす事に関しては造作もない。
  そこからもとの場所に本を戻しているわけだが。

  「音楽室の?やだぁ、アレって幽霊なの?」

  そのセリフは、向こう側の本棚で発されたものらしかった。

  最初、この図書室での私語を図書委員として注意しようか、
  という考えがよぎったが、今ここにいるのは彼女と声の主、
  そして聞き手だけである。
  フレアも本を読んでいるわけでもなし、迷惑をこうむる者がいない
  というのに、わざわざ注意するのはさすがに気が引けた。

  「幽霊なのって…この世にあんなに顔色悪い人、いる?」
  「えー。そういう種族なんじゃないの?もともとそういう肌とか」

  最初は小声だったのが、今は普通のトーンになっている。

  「なんの種族よ。『顔色悪い族』?」

  きゃははは、と声があがって――フレアがさすがに咎めようと思ったとき、
  声は急速に遠ざかっていった。
  どうやら、ただ単にひまを潰しに来ただけらしい。
  二人の女生徒の背中を見送りながら、手に持ったままだった
  分厚い画集の重さに気づく。

  フレアは微苦笑をもらして、背表紙に記載されている番号を確認すると、
  本と本の間にそれを押し込んだ。

  「先輩」

  振り向くと、さきほどの女生徒たちとすれちがうようにして、
  一人の男子生徒が図書室に足を踏み入れてきていた。
  フレアの知っている顔である。彼もまた、自分と同じ図書委員だった。

  「おはよう、シアン」

  シアン――そう呼ばれた男子生徒は、貸し出しカウンターに
  持っていた本を数冊まとめて置いてから、ふいに眉をひそめた。

  「…授業、行かないんですか?鐘鳴りましたよ?」

  壁にかかっている時計を指差す。
  彼の言うとおり、本来ならば朝の授業がとっくに始まっている
  時間である。
  他の生徒ならば『サボった』の一言で納得できるが、真面目一本の
  フレアがそれをすることはありえないと、顔が言っている。
  彼女はため息をついて本を脇に抱え、声をひそめて答えた。

  「あぁ――その、1、2時間目は休講になったんだ」
  「休講?いきなりですか?」
  「実は…化学の実験をやるはずだったのが、先生が教室を爆破してしまったんだ」
  「あー。エンジュ先生ですね」

  天気の話をするかのように、さらりと彼はうなずいた。
  もっとも、そういうことは別段珍しいことでもなかった。
  教師、生徒ともに突出した能力を持つ者が多いこの学園では、という意味だが。
  しかしいくら頻繁に起きるといっても、こんな突拍子もない事態を、
  彼のように平気な顔で流せるような性格を、フレアは持ち合わせていなかった。

  「それで休講ですか」
  「うん。…でもシアンこそ、こんな時間にどうしたんだ?」
  「中等部は今日と明日は休みですよ。テスト休みです」
  「あぁ、そうなのか」

  フレアが納得するとシアンも本を戻すのを手伝い、すぐにワゴンは空になった。

  「今日はずっとここに?」
  「えぇ。どうせ今日の当番――ジーンはまたサボるでしょうし」

  ほとんど図書室に顔を出さない図書委員の名前を聞いて、フレアは
  声を出さずに苦笑した。
  シアンはカウンターの向こうにまわって、さっき置いた本をずずず、と
  自分の前まで寄せてくると、安っぽい椅子に腰を下ろした。
  どうやら本気でここにずっといるつもりらしい。

  フレアも自分の鞄をさぐった――が、求める手ごたえがない。

  「あれ?」

  シアンも読んでいた本のページの間に指を挟んで、顔をあげる。

  「どうしました?」
  「本がない…どこに忘れてきたんだろう」
  「『アステリスク』ですか?」

  星標(アステリスク)とは、本の題名である。
  シアンがその存在を知っているのは、
  彼自身フレアにその本を薦めたからにほかならない。

  「寮じゃないんですか?」
  「えーと…」

  思い出そうと、なんとなく天井を見上げる。薄汚れた天井だ。
  視界の端には朝日と、中庭が見える大きな窓がある。
  外はいい天気で、花壇には赤いチューリップが――

  赤――

  「音楽室だ!昨日、休み時間にあそこで読んだ」

  ふいに妖艶な教師――とはいっても声楽部の顧問なので
  正確には違うが、いつも赤い服を纏っているので強烈な印象を放つ
  女教師を思い出し、フレアは目を見開いた。

  「取ってくる。…シアン、すまないけれどここを頼む」
  「それはいいですけど――音楽室って幽霊出るって
   噂じゃないですか。俺も行きましょうか?」

  立ち上がりかける後輩を、フレアは手で制した。
  そのまま笑顔で言ってやる。

  「幽霊なんて、いるわけないだろう?」

  彼女は心の底から、そう思っていた。


  何にせよ、それはいつもどおりの朝から始まったのだ。





                                 葉月瞬


   それは、いつも通りの朝から始まった。
   魔法学部の制服である渋皮色のローブを纏った赤い髪の女子大生はいつも通り、学生寮
  を出ると真っ直ぐに大学部のキャンパスへと向かった。赤い髪だからとか、それだけの理
  由ではないけれど、彼女は大学部内もしくはテラロマ学園内において有名であった。それ
  は彼女の性格からくるものであった。
   彼女――オプナ・ハートフォートは事、魔術研究となると食事すらも忘れるほど熱中し
  てしまうのだった。その事から学園内の生徒からは“変人”扱いをされているのだが、本人
  は一向に気にする素振りを見せないのだった。魔術の研究と称しては、いつもトラブルを
  撒き散らす。それが彼女、オプナ・ハートフォートだった。

  「今日は何を研究しようかな♪」

   足取りも軽やかに、実践魔術研究ゼミの研究室に足を運ぶオプナ。今日の講義は午後か
  らなので午前中は自由時間なのだ。

  ――見て、オプナよ。
  ――今日も何だか楽しそうね。

   ヒソヒソヒソ。
   周囲の噂話などまるで耳に入っていないが如く、オプナは目的地に向けて真っ直ぐ歩く。
  いつもの事なのだ。いつも通り過ぎて、気にする事も無い。

  (フフッ。そうだ。今日はアレを試そう)

   アレ――この間図書館で読んだ魔法百科事典に載っていた変身薬。どのような物体もあ
  りとあらゆるものに変えてしまえるという魔法の水薬。飲んでも良いし、掛けるだけでも
  効果が現れるという。今日はそれを作ってみよう。オプナは心が弾んでいくのを覚えた。



   正面玄関を通り抜けると、左右に伸びる通廊にぶつかる。正面には上に上る階段と、階段
  下の物置がある。テラロマ学園大学舎は大きく分けて三つの建物からなる。正面玄関のあ
  る建物が中央棟。左右に繋がるようにして建てられているのが、講堂棟である。
   中央棟には職員室をはじめ、各ゼミの研究室が連なっている。講堂棟にはそれぞれ別名
  が付いていて、右が一般教養学部、左が魔法学部である。一般教養学部は主に力自慢の人
  間が集う場所で、魔法学部は頭でっかちの人間が集っている、との風評がある。
   オプナは迷わず中央棟の階段を上っていった。
   目指す研究室は三階にあった。急いでいる時は飛翔の魔法で飛んで行って「学内で魔法
  を使うな」と怒られたりもするのだが、今日は気分もいいしそれ程急いでいないので歩い
  て上る。
   実践魔術研究ゼミナールの看板が掛けられた扉のノブに手を掛けて、オプナは一瞬面食
  らった。
   鍵が掛けられていないのだ。物理的な鍵はもとより、魔法的な鍵も掛けられていない。
   物騒だな、とオプナは思いながら室内に滑り込む。

  「教授……?」

   一応声を掛けてみる。掛けてみるが、一言も返事が返ってこない。それもそのはず、室内
  には誰も居なかった。この部屋の主、教授ですら。

  「あら? おかしいわね。いつもは居る筈なんだけど……ま、いっか」

   オプナはあっけらかんとして、荷物を机の上に放り出すと早速調合のための材料集めに
  奔走した。
   実践魔術ゼミの研究室には、実際なんでも揃っていた。
   ヤモリの粉末も桃色きのこの粉末もドロドロに溶かしたスライムもあった。
   この三つを手順に従って混合していき、しかる後に呪文を三回唱えて魔力を与えるだけ
  である。それだけで変化の水薬は出来るのだ。
   オプナは早速やってみた。



  「で〜きた。……後はイメージを浮かべながらこれを飲むだけね」

   目を瞑ると光の洪水が消えうせ、暗くて深い水底にいるように感じられる。そこは静か
  で、何処までも深かった。後はイメージを、自分の望む姿を思い浮かべるだけだ。何にな
  ろうか。
   ふと扉が開く音を耳が捉える。
   誰か来たのかと、思いながらもそのまま瞑想し続けるオプナ。誰が部屋に入って来たの
  かは解らない。だが、足音がオプナの前まで来て止まったことで、オプナの目の前におい
  てあるビーカーに入った液体に注意を向けているであろう事は推察できた。

  「ん? ジュースとは気が利くな、オプナ。ちょうど喉が渇いていたんだ」

   そう言ってその人物――声音から察するに教授――は、赤紫色をして気泡が浮かんでい
  るいかにも怪しい飲料物を事も無げに飲み干した。嚥下する音が室内に響く。

  (ジュース?)

   次の瞬間オプナは目を見開いて、目を疑った。そして幾度か目を瞬いた。
   室内には桃色の煙が充満していた。行く当ても無く渦を巻いている。そしてその渦の中
  心に、小さい影が一つあった。三角形が上に向かって突き出ている。恐らく耳だろう。その
  下には毛が長く丸い顔が続き、髭を真横に伸ばしている。その頭部を毛むくじゃらの体が
  支えていた。四足で鎮座しているそれは――。

  「――猫?」

   そう、しかもよりにもよってふわんふわんの容姿が売りの、ペルシャ猫であった。
   むさくるしい教授がよりにもよってペルシャ猫になるなんて。オプナは思わずふき出し
  てしまった。ふき出してしまってから、ふと何かに気付き猫をまじまじと観察する。
   一見すると普通の猫のようである。

  「だけど、普通じゃないのよね」

   その猫はオプナが作った薬によって変化した教授なのだ。
   しかも、薬によって変化した、という事は普通じゃない能力を持っているかもしれない
  のだ。

  「……興味深いわね。注意して観察しないと……」

   オプナが猫――教授を観察している間も渦を巻いていた桃色の煙は、次第に晴れていっ
  た。
   煙が晴れて初めて解った事だが、その猫の体毛は銀色をしていた。しかも、かなりの剛
  毛である事がわかった。

  (……あれじゃ、撫でても余り手触り良さそうじゃないわね)

   そう思いながらも好奇心が疼き、一歩一歩少しずつ近付いていくオプナ。両手を前に突
  き出し、前屈みの姿勢で猫を捕獲する構えだ。
   こういった、生物を対象にした観察の第一歩は、先ず捕獲から始まる。オプナはそう信
  じて疑っていない。何かの本で読んだ気もする。その第一歩を早速実践しようと猫に詰め
  寄るオプナ。
   しかし、その時!
   不意に数本の銀色に光る針のようなものが、オプナめがけて飛んで来た。オプナは慌て
  て避ける。銀の針はオプナの頬を掠め後方に飛んでいった。危うく顔面に突き刺さるとこ
  ろだった。

  「あっぶなっ!?」

   そしてオプナは見た。
   先程の銀の針を飛ばした生物を。
   飛んで来た方向から見ても、猫がこちらに向かって警戒して身構えてる様を見ても、どこ
  からどう見ても猫が針を飛ばしたとしか思えないのだ。

  (…………猫が、針を飛ばす?)

   普通ならば考えられない。
   が、その猫は普通ではないのだ。

  (ひょっとしてこいつ……ハリネズミと猫の融合体なの?)

   猫は一声唸ると、硝子を突き破って外へと飛び出して行った。
   向かう先は、高等部の音楽室――。





                               小林悠輝


   それは、おおむねいつも通りの朝から始まった。
   学園高等部。音楽室の怪談は、ひどく不機嫌な様子で、床にモップをかけていた。

   歳は十六か十七か、ようするに高等部にいておかしくない程度。学園の生徒たちが着て
  いるものとは違う、グレイッシュグリーンのブレザーが、ピアノの上に投げ捨てられてい
  る。

   茶髪、黒瞳は珍しくない特徴で、病的なまでに蒼白な肌は、病気よりも更にヤバい理由
  のためだ。目立つところがない――とは言えないが、だからといって目立つということも、
  決してない。卒業生が校内をうろついているのと同じくらい中途半端な印象の学生。

  「なんで僕がこんなことを……」

   いつもは眠っている午前中に叩き起こされて、何かと思えばたまには掃除でもしろと言
  われた。音楽室に住んでいる以上、音楽教諭には逆らえない。だからといって別の場所へ
  引っ越すのも面倒だ。掃除とどちらが面倒か――まぁ、同じくらいだ。学園内部は危険が
  多い。教師も生徒も職員も、やたらデンジャラスなのが揃っているから。

   不平不満をぶつぶつぶつぶつ呟きながら、水を切りきれていないモップで乱暴に床をこ
  する。たまにチラチラとピアノの上を見るのは、ブレザーの横にちょこんと座っているウ
  サギのヌイグルミを気にしてだ。

   誰もいない音楽室。並んだ椅子と机。風を入れるために開いた窓、揺れるカーテン。
   平和で静かな室内に、ぶつぶつと愚痴だけが流れる。

   やがてモップがけを終えると、適当にゆすいだそれを掃除用具入れに放り込み、ピアノ
  の前に置かれた、明らかにそれ用ではない椅子に腰掛けて、蓋をされたままのピアノに肘
  を置いて頬杖をついた。注意して見ないと掃除前とどう変わったのかわからない音楽室を
  仏頂面で眺め、用事も終わったしどうしようか、と思索する。

   学生たちは授業中でからかう相手はいないし、だからといってどこかの授業に紛れ込も
  うなんて全く思わない程度に勉強嫌いだ。用務員とはケンカ中だし、大学部まで遊びに行っ
  ても知り合いはいない。

   ようするに、やることがない。

  「……」

   ヌイグルミを引き寄せて抱えながら、掃除の途中で見つけた本を手に取る。古ぼけてや
  わらかく色あせた本で、背表紙に図書室のシールが張られていた。

   誰かの忘れ物、なのだろう。机の中に置き去りにされていた教科書やペンケースと同じ
  く。
   何気なくその本を開いてパラパラとページをめくっていると――ふと人の気配を感じた。
  入り口はピアノの影になっていて見えないが、「先生?」という小さな声で少女と知れた。

   客が来たのなら無視するわけにはいかない。

  「留守だよ」

   言いながら立ち上がると、こちらを発見したらしい女生徒が、軽く目を見開いている。
   教師以外の誰かがいるとは思わなかったのだろう。

   まっすぐに流れる黒い髪だとか、小柄な体躯だとか、可愛らしいのに、少し近づきがた
  い印象。用事を訊くだけなのにどう話すべきかと悩んでいると、少女の方から口を開いた。

  「忘れ物を探しに来た…んです」

   語尾をどうするかで逡巡したらしい。その様子に苦笑。
   ここの生徒に話しかけると、いつも対応に困られるのだ。慣れた連中は別として。

  「教科書とかだったら、ピアノの上」

   少女は首を横に振った。

  「図書室の本なんですけど」

   思わず手元に目を落とす。きっとこれだ。ただ星標とだけ刻まれた題字が、なんとなく、
  少女のイメージと重なるから。初対面の相手に対する印象なんて、まったく当てにならな
  いが。

  「コレだよね」

   ヌイグルミは抱えたまま近づいて、差し出す。少女は「ありがとう」と言って受け取っ
  た。それから彼女は何気なく視線を上げ。

   その動きが、止まった。

  「どうしたの?」

  「いや……」

   訝しげに――音楽室の怪談は、少女の視線を追って振り向いた。
   三階の窓。見下ろす校庭で体育の授業が行われている。

   久しぶりに見る午前の日差しは、心なしか、午後のそれよりも透明に感じられる。何も
  変わったところはない。いや、この学園で多少の違和感を問題にするのは間違っているか。

  「猫が」

  「え?」

   いても不思議ではない。たまに迷い込んでくるのか、それとも誰かが飼っているのか、
  たまに見かける。

  「三毛のやつ?」

  「銀色の猫が…外にいたような。たぶん気のせい……だと、思う」

   外に? と言いながら窓の向こうを見る。窓の向こうは空――というほど高くはないが、
  猫が気軽に登ってくるほど低くもない。
   でも、外に、足場になるようなでっぱりがあったな。

   たまに危険物(たとえば数年前から放置され続けているペットボトルだとか)が置いて
  あったりするから、あまり見ないようにしているが、昔は、よく移動に使った。
   あの頃は若かったなぁ。今ならそんな馬鹿なことしない。警備員に撃ち落されてしまう。
   どうでもいいことを思いながら、窓枠に寄りかかって外を覗く。

   そこに猫がいた。

   可愛らしい、銀色の仔猫だ。動物特有の、不気味なまでに無垢な目が見上げてきている。
   硬そうな毛が日を浴びてギラギラと光っ……え?

  「……」

   ヤバそうだなと思った。おかしなものに関わると、ロクなことにならない。
   大学部から逃げてきた実験動物のせいでひどい目に遭ったのは最近のことだ。

   ガラガラと窓を閉め、勢いよくカーテンを閉める。
   そしてやたら爽やかな笑顔で少女を振り返る。

  「何もいなかったよ! ギンギラギンの猫とかいなかった!」

  「そ、そう…」

   こちらの様子に何かを感じたのか、複雑な表情で少女はうなずいた。
   よしこれで今日もいつも通りの一日だ、と、思った瞬間。

   真後ろで窓が割れ、重力に逆らう銀色の雨が天井に突き刺さった。





                                 熊猫


  陽光に舞うガラスの破片は美しくさえあったが、ひきつった笑顔の男子生徒の背後で、
  銀の針は凶悪に音楽室の一室を破壊していた。

  フレアは小さく悲鳴を上げてとっさに両手で頭をかばったが、すぐに
  事態を把握しようと顔をあげた。

  「天気――そう天気がいいからさ!窓ぐらい割れるよね!」

  多少裏返った声でまくしたてながら、あくまでも男子生徒は後ろを
  振り向こうとしない。
  フレアはなぜか濡れている床へ、滑らないように足を踏み出した。

  「今のは!?」
  「今のって何!?」

  猛烈に冷や汗を流している彼は、必死で何かを守ろうとしているように見えた。
  きっと平和な日常だとか、そういうものを。

  「何って――」

  ふと柔らかいものを感じて足元を見ると、一匹の猫がちょうどフレアの
  くるぶしに身体を擦り寄せながら、通り過ぎていた。どうやらいつの間にか
  死角を通って、音楽室に入ってきていたらしい。

  「痛っ!」

  突然、鋭い痛みが足に走って、フレアは思わず足を押さえてしゃがみこんだ。
  猫は声にびっくりしたのか、こちらを振り返って足を止める。
  男子生徒は大丈夫?と、本とうさぎの縫いぐるみを手に提げて、早足で寄ってきた。

  「……えっと」

  とりあえずうさぎの件には触れないで、足にあてた手のひらをかえすと、
  小さい血の染みが点を作っていた。

  「針が刺さったけど…大した事はない」
  「そう。けど一応消毒したほうがいいかもよ?なんかコイツ、どう見ても普通じゃないし」

  さりげなく離れながら、彼が言ってくる。どうやら現実逃避は諦めたらしい。
  フレアの答えを促すように、彼が顔をあげたのを見て――フレアは
  痛みも忘れ、弾かれたように立ち上がった。

  「その傷!今ので?」

  まるでただれたような傷跡が、彼の顔に浮きだしている。
  だが今の針でできたにしては、あまりにも醜い傷だ。

  「あ…いや、これは違うよ。なんか、最初からっていうか」

  男子生徒は傷を見下ろすように目を伏せて、黒革で覆った手で傷に触れた。

  「最初から?」
  「大丈夫だから。古傷だよ」

  彼の笑顔は、『この話は終わりだ』という合図に他ならないようだった。
  と、

  「ちょっと!」

  ガラスの割れた音を聞き付けたのか、一人の女が燃えるような赤毛を翻して飛び込んできた。
  渋い色味の陰気なローブは、魔法学科に在籍している証だ。
  その女は、音楽室に入るなり叫んだ。

  「今、ここに教授来なかった!?」
  「え?」

  フレアとしては、窓が割れた事を咎めに来たのかと思ったのだが。

  「いや…僕達以外、誰も来なかったけど」
  「針がある!やっぱり来たんじゃない!」
  「…普通、教授は針を飛ばさないと思うけど」


  「あの、もしかして銀色の猫の事を言っているなら、ここに――」

  と、フレアは言いながら視線を落として、絶句した。

  銀色の猫が、身体を引き絞るようにして身構えている。
  そしてこちらの視線に気づいたかのようなタイミングで。



  ばっ!



  猫の背中で無数の針が逆立った。





                                葉月瞬


  「教授! 落ち着いて下さいっ! 私が判らないのですかっ!?」
  「普通判らないと思うけど」

   音楽室の霊現象のさり気ない突込みには意を介さず、オプナは教授――銀色の体毛の猫
  を宥め様と手段を考えていた。

  「この猫の事を知っているのか!?」
  「ってか、あんた誰?」

   黒髪紅眼の少女の質疑と、茶髪の霊現象の誰何の声をことごとく無視して、オプナは銀
  猫を観察する事に没頭し始めた。

  (ん? 幽霊?)

   と、観察する事を一時的に中断し、今度は茶髪の霊現象に注目する。
   少し古ぼけてはいるがまだまだ着れる程度には整っている一昔前の高等部の制服を、さり
  気なく着こなしている。向こう側が透けて見えるのは磁場が不安定だからだろうか。人魂
  と呼ばれる魂の欠片を伴っていないのは、普通の幽霊ではない事を物語っている。肌の色
  が青白いのは、幽霊だからだろうか。それとも別の不死生物だからだろうか。左目の下に
  ある火傷の様な皮膚の爛れや、首筋の刃物傷が目立つ。と、そこまで観察してみて漸く右
  手の皮手袋が目に付いた。そこだけどうしても異彩を放っていた。

  (……この人、ひょっとしてただの幽霊じゃ……ない? ……興味深いわね)

   オプナの興味の目が光った。
   と、突然幽霊が肌身離さず持っているウサギのぬいぐるみが目に入った。体長30cmで
  ピンク色の可愛らしいウサギのぬいぐるみだ。それはどう見たって幽霊少年には似つかわ
  しくない代物だった。思わず反問するオプナ。

  「……それは何?」

   半目でオプナはそのウサギのぬいぐるみを指差した。

  「僕の大事なぬいぐるみ。……って、指差さないでくれる? 失礼じゃないか。自己紹介
  も未だなのに」

   オプナは、幽霊少年に指摘されて初めて気付いたかのように、自己紹介を始めた。

  「あ、ごめんなさい。私はオプナ。見ての通り、魔法学科の三年生よ」
  「失礼だけど何歳?」
  「24歳」
  「ふぅん。その年齢で大学三年生って事は……現役合格したとしても四回は留年してるん
  だね」
  「失礼ね! 謹慎処分がちょっと多かっただけよ!」
  「あのぅ、わ、私は、フレアだ。よろしく頼む」

   向きになって訂正しようと食い下がるオプナの後ろから、会話に置いてかれそうになっ
  て不安になったのか黒髪の少女が引っ込み思案気味に会話に参加しようと試みる。試みは
  成功したようで、二人ともフレアと名乗った黒髪の少女の方を見遣る。そして会話は一時
  中断された。そうして何かに気付いたように少年幽霊は一つ掌を打ち鳴らすと、ウサギの
  ぬいぐるみの腕を振り振り自己紹介を始めた。

  「僕の名前は、ライ。音楽室の怪奇現象の一端を担ってる」





   自己紹介を難なく済ませて暫くして、ふとオプナは何かが足りない事に気付いた。
   銀色の猫がいないことに。

  「あら? 教授は?」
  「だから、教授って何なのさ。アレはただの銀猫でしょ」

   目だけで銀猫を探して首を傾げるオプナに、ライが疑問を口に上らせる。すると、人差
  し指を立てて説明顔になるオプナ。三人はいつの間にか、椅子を円を描くように配置して
  腰掛けていた。

  「そう。アレはただの銀色の猫に見えるけど、でも違うの。あれは、教授が化けたものな
  のよ」
  「教授ってどこの教授?」

   ライが半目で疑わしそうにオプナに借問する。答えはオプナの服装と今までの言動から
  解っている事だが、試しに質問を投げかけた、といったところだ。その言葉の裏には、から
  かいの意が込められていた。

  「み、見て解らない? 私と同じ、魔法学科の教授よ」
  「あ、あのう、そこまで私達に話すという事は、私達に何かして欲しいのか?」
  「そう。それよ。貴方達に協力して欲しいの。教授を捕まえるのを――」



         *□■*



   それは、依頼だった。
   オプナにとって初めての依頼。
   いつもなら、誰彼構わず巻き込んでばかりだった彼女。それが、初めて人に対して頼み
  事をしたのだ。正直勇気が必要だっただろう。だが、彼女はそのような事億尾にも出さず
  にさり気なく言った。出来うる限りの普通の顔で。

  「お願いよ。私と一緒に、教授――銀猫を捕まえて欲しいの。そして、出来れば元に戻し
  て欲しい」
  「それは、つまり、頼みごとって事?」
  「解った。私に出来る事なら何でもする」

   二者二様の反応だった。

  「で? どうすれば元に戻せるんだ?」

   フレアのもっともな借問に、オプナは一つ頷いて答えた。

  「それは勿論、変身を解く薬を作ってそれを飲ませるか、振り掛けるかすれば元に戻せる
  わ。その筈よ」
  「当然、その薬の作り方は……」
  「知らないわ」

   フレアの望みをオプナはいともあっさりと断ち切った。薬の作り方を知らない、という
  事は当然薬自体も持っていないという事だ。

  「それじゃ、どうやって元に戻すのさ」

   ライはもっともな疑問を口ずさんだ。それに答えてオプナははにかんだ。

  「それが……もう一度図書室で件の薬について書かれてある本を読み直す必要があるの。
  それに、戻す薬の作り方も書いてある筈だから」

   最後の方は笑みを浮かべながら言った。その笑顔の向こうには、確たる自信があった。

  「でも、僕達が協力するとして、何かメリットがあるの?」

   半目で突っ込みを入れるライ。確かに尤もな意見である。人間であれば誰しも労働に見
  合うだけの対価を求めるものである。真の親切心などありはしない。等価交換こそがこの
  世の理なのだ。オプナがそれをわきまえていない筈がなかった。
   オプナは指摘された事に、引き攣るような笑みを湛えながら答えた。

  「解ってるわよ。何も、無償で手伝ってもらおうとは考えていないわ。勿論、等価交換は
  わきまえてるつもりよ」
  「ホントにそう考えてた?」

   ライは白々しいとでも言いた気な視線を、オプナに投げ掛ける。
   オプナは笑顔でそれを受け流した。

  「で? 何が欲しいわけ?」

   依頼している割には、偉そうである。
   そんなオプナの態度に憤慨する事もなく、ライは淡々とのたまった。

  「聖水と十字架。それと、ガーリックエキスがあれば良いや」
  「な、何に使うの、それ。……ま、まぁ、出来得る限り用意するわ」

   次にオプナはフレアの方を振り向いて、らいに向けたのと同じ事を聞いた。そうしたら、
  フレアは恐縮してしまって、何も望みが無い様な事を言った。

  「わ、私は、いい。あくまでも手伝うだけだから」

   屈託のない笑顔を見ていると、これほど希少価値の高い少女もいたものかとオプナは思
  う。無償で依頼を遂行するなど、親切の塊のような少女だ。この少女を見ていると昔の自
  分を思い出す、事は無いが、ふと不安に苛まされる事がある。これほど純粋で無垢な存在
  であるこの少女は、一体この世界で生き抜いていけるのかと。ともすると脆く崩れやすい
  硝子のような存在なのではないかと。硝子のように繊細で、儚く、だからこそ美しい。オプ
  ナは、知らず知らずのうちにフレアに憧れにも似た気持ちを抱いていたのだった。

  「そ、そろそろ行こうか。図書室なら私が案内できると思う」

   オプナに見詰められてどぎまぎしながら、フレアは席を立った。「ライはどうする?」
  と、ライの方を見遣るフレア。紅い双眸に見入られ、ライはやれやれという風に肩を竦め
  て見せるとフレアと同じように席を立った。ウサギのぬいぐるみを左腕にしっかりと抱き
  留めて。

  「ちょっと待って。そのぬいぐるみも持っていくの?」
  「勿論持って行くさ。僕の大事なぬいぐるみだもん」

   オプナの抗議の声もどこ吹く風、ライは平然とウサギのぬいぐるみを抱きしめて音楽室
  の扉へと向かう。と、足を止めてオプナの方へ振り向いて言った。

  「オプナさんは行かないの?」
  「あ、わた、私も行くわよ。勿論」

   オプナは慌てて席を立った。



         *□■*



   図書室には誰も居なかった。
   これから授業が始まるという事もあったが、それにしても静か過ぎる。

  「いつもこんな感じ?」

   ライはフレアに疑問をぶつけた。

  「い、いや、いつもは司書の先生が――」

   フレアが言い終わるか終わらない内に、硝子が割れるような澄んだ破壊音が聞こえて来
  た。それと同時に耳をつんざく様な悲鳴も。

  「何!?」

   誰とも無しにそう言うと、悲鳴と破壊音が聞こえて来た場所へと急行する。そこに居た
  のは腰を抜かした司書の先生と、一匹の猫だった。





                                小林悠輝


  床に散らばった本。そのうち何冊かはページが折れてしまっている。
  腰を抜かした司書。顔見知りではあるが、直接話したことは少ない。
  倒れた本棚には無数の銀針が突き刺さっている。

  フレアは「先生!?」と言いながら司書に駆け寄った。
  ぎらぎら輝く毛並みの猫が、威嚇の声を上げて毛を逆立てている。

  さてどうしようとライは思って、とりあえずオプナの表情を盗み見た。
  さっさと捕まえろという無言の圧力をかけてきていた。

  「困ったなぁ」

  「何がよ」

  猫が逃げてしまわないように、できるだけ刺激しないようにと気をつけて、
  ヌイグルミの頭を見下ろしながらライは、抑えた声で答えた。

  「ここは僕の縄張りじゃないから」

  「は?」

  「騒ぐと怒られるの」

  とはいえ、猫を捕まえるのを手伝うことを約束してしまった。
  だから何もしないわけにはいかない。

  ライはため息をついて、危険物を捕獲する覚悟を決めた。
  が、猫はそのときには身を翻して逃げようとしていた。

  「待てっ」

  追いかけるが追いつけるものでもない。相手は小動物だ。
  伸ばした手の間をすり抜けて、猫はするりと本棚の陰に消えた。

  慌てて追いかける。どこにもいない――奥の方でガラスが割れる音。
  目をやると、銀色のシルエットが窓から飛び出していったところだった。

  「何してるのよ! 逃げちゃったじゃない」

  「……準備しないと無理」

  オプナの文句に、憮然として返事をしながら右手を見下ろした。
  猫の体に少しだけ触れた手袋の掌の部分がズタズタに裂けてしまっている。
  毛並みを逆撫でしていないのに。釈然としないが……魔法とはそういうものだろう。

  左腕で抱えていたヌイグルミを両腕で抱えなおしてため息。

  フレアは司書を落ち着かせて近くの椅子に座らせてから、
  倒れた本棚の下に落ちていた本を拾って、表紙を手で軽くはたいた。

  「先生に知らせないと」

  猫のことではなくて、図書室が荒らされたことについてだろう。
  呼ぶなら教師よりも用務員だと思ったが、あの男はあまり好きではない。

  そういえば音楽室をそのままにして来てしまった。
  音楽教諭があれを見つけたら……ライはため息をついた。
  それからふと気がついて、オプナに訊いてみる。

  「猫のこと、先生とかに言って、手伝ってもらおうよ」

  「ダメよ」

  「なんで?」

  「他の人が捕まえたら、すぐ人間に戻しちゃうじゃない。
   そしたら、せっかくの研究のチャンスを失うことになるじゃない!」

  フレアが唖然とした顔で本を片付ける手を止めた。
  ライは表情を変える気も失せて、「そう」とだけ言った。

  「…危険じゃないか? 研究なんて」

  「研究のためなら危険なんてなんのそのよ」

  フレアの問いにオプナは胸を張ってこたえた。
  じゃあ一人で解決しろよとライは思ったが、言葉はもちろん表情にも出さなかった。
  変な人と知り合ってしまった。住所(ようするに音楽室)をバラしてしまったことを後悔
  する。

  司書がようやく我を取り戻したらしくふらりと立ち上がった。

  「危ないから窓には近づかないで。
   用務員さんに片付けてもらうから……」

  「はい」

  青ざめた顔で出て行く司書を見送る。
  オプナはくるりと二人を振り返った。

  「罠なんだけど」

  「罠?」

  「だから、捕まえる準備よ。
   猫ならマタタビ! マタタビといえば猫!」

  「……」

  そんなものが校内にあるかどうかも疑わしい。
  もちろん購買には売っていないはずだ。

  「そういうわけで、そこの霊現象、マタタビ手に入れてきて」

  「僕が?」

  さらりと言われてライは嫌な顔をした。

  「女の子に肉体労働させる気?
   私たちはここで薬の作り方を調べるから」

  肉体労働云々の問題なのだろうか。
  明らかにないものを探せといわれても困る。

  ライはヌイグルミをぎゅっと抱きしめて拒否の言葉を探したが、
  何を言っても通じそうになかった。





                                  熊猫


  「マタタビなんてどこに――ひゃっ!」

  憮然として図書室を出てゆくライの姿を見送るフレアの手を、
  強引に引っ張ったものがあった。オプナである。

  「ハイ、私達はこっち!まずは変化の薬が記載されていた本を探す。
   そこに元に戻すための薬のレシピもあるかもしれないわ。
   …あまり期待できないけど」

  そういってオプナは懐から一枚のカードを出してきた。図書室で貸し借りを
  する手続きに必要なカードで、利用者の借りた本の経歴がすべて載っている。
  その中のひとつの項目を指差して、彼女が言う。

  「これ、『スライムシンドローム』って本。持ってきて!」
  「スライム?」

  変化の流れの速さについていけないものの、フレアはカードを受け取る。

  「蛍光グリーンの派手な本よ。あらゆるスライムの種類と、活用法を記した本。
   じゃ、よろしくね。私はほかの方向からあたってみるわ」

  なんでスライムの本が変化薬を作り出すんだろうとフレアは思ったが、
  とりあえず今は一刻を争う。特に午後からは授業であるから、できるなら
  それまでにはどうにかしておきたかった。

  鮮やかな赤毛を翻して本棚の森に消えるオプナを見送り、カードに目を落とす。
  その本の番号を確認して――フレアは愕然とした。

  今フレアたちがいる階は1階である。この階には一般の図書館とさほど変わらない
  内容の図書が揃っている。もっとも学生達の利用が多いのもここだ。
  授業で出される課題の資料を探すのなら、この階でほとんど事が足りてしまう。

  しかし。

  この図書室は地下に階数を伸ばしており、学生の閲覧が許可されている
  図書があるのは地下数階までである。それ以下の階は特殊な許可を受けない限り、
  たとえ図書委員でも入室できない。

  そのカードに書かれた本に関しては、そういう類のものではなく、一般の学生にも
  公開が許可されたものだったが――

  「地下5階…」

  図書室中央にある、地下へ続く螺旋階段の手すりに手を置いて、下を見やる。
  あまりの深さに光が底まで届かず、真昼間だというのに光が灯されている。
  そこまで行って、戻ってこなくてはならない。
  図書委員であるフレアですら行った事のない場所である。

  ごく、と喉を鳴らして、フレアはそっと階段を一歩下りた。
  ひやりとした空気が足首を濡らす。真鍮の手すりも石のように冷たい。

  そこでちょっと――自分で認めるのは癪だったが――ほんの少し、怖くなった。

  ちら、と後輩がいるはずのカウンターを見る。しかし山積みになった本と、
  まだ古さを感じさせない学生鞄の取っ手しかそこにはない。
  ようやくそこであきらめて、いや決心して、足を進める。

  深みに飲まれていく靴音を聞きながら、フレアはようやくそこで、自分が
  なにかとてつもない事件に巻き込まれているのだと自覚した。





                              葉月瞬


   最初に手にとった本は、「魔法使いになる方法」だった。
   この本は、ある日突然魔法使いになってしまう少女の物語だった。その本における魔法
  使いとは、超自然現象を魔法と呼んで行使する者達の事だ。
   その次に手に取った本は、「魔界を作る方法」だった。
   この本は、魔界に関する不可解極まりない説明と、膨大な情報量を誇る魔法陣や呪文の
  羅列だった。
   その次には「魔法と呼べる日常」という本を手にしていた。
   この本は、魔法を使って日常を便利に過ごすHow to本だった。
   その次は、「猫に好かれるための十の法則」という本を殆ど無意識の内に手にしていた。
   この本は、十項目に渡って猫に好かれるための手管や極意が書かれてある。
   その後手にした本は、「ある魔法使いの悩み」や「I Love 猫 chan v」だった。
   「ある魔法使いの悩み」は、とある魔法使いの日記というか手記だった。数々の邪悪な
  実験に手を染めては失敗を繰り返すという内容だ。「I Love 猫 chan v」は猫好きによ
  る猫好きのための、猫の写真を集めた本だ。
   しかし、そのどれにも<変身を解く方法>に関しては触れられていなかった。

  「無いわねぇ」

   オプナが探していると、憔悴しきった顔でフレアが戻ってきた。

  「そっち、どうだった?」

  「……見つからなかった……」

   彼女の話では、地下には膨大な書簡が陳列しており、さながら迷宮の様相を呈していた
  という。複雑怪奇に入り組んだ通路と書架は人を迷わせるには十分な要素を持っていた。
  迷宮と呼ぶに相応しいその場所は、地下深く何重にも張り巡らされていた。何層にもなっ
  たその階層を一階一階降りて行ったフレアは、目当ての書架がある階層まで辿り着くと右
  に左に迷いながらも目的の本が置かれてあるだろう場所まで歩いていく。その道程は果て
  しなく長く続くかと思われたほどだと言う。体感時間にして三十分しか経っていないと思
  えたのに、実際には二時間以上も経っていたのだという。

  「ふぅん。不思議な図書室ねぇ。それで?」

  「うん。目当ての書棚は見つかったんだが、肝心の本が何処にも見当たらなかったんだ。
  おかしいだろう? 普通、返ってきた本はちゃんと所定の書棚に戻す筈なんだ。それも、
  地下深くにあるような重要な本だったら尚更……。それが、無いなんて……どう考えたっ
  ておかしい……」

   これで午後の授業、サボリは必死だなと、自嘲気味の影を浮かべながらフレアが説明し
  た。

  「おかしくなんか無いわよ」

   声は意外なところから振ってきた。
   オプナがその言葉を言って不適に笑っていた。

  「おかしくなんか無いわ。だって私、あの本まだ返してないもの」

  「!? だって! さっき、図書室にあるって!」

   言い募ろうとしたフレアを右手一本で制して、オプナは仕方がないとでも言うように両
  肩を竦めて見せて言った。

  「私も今さっき思い出したのよ」

  「ふーん。じゃあ、このマタタビは無駄だったんだ?」

   突然の声に二人が振り向くと、扉に寄り添うようにライが立っていた。マタタビを手に
  して。

  「無駄じゃないわよ」

   オプナはさあ渡して頂戴と言わんばかりに、右手を差し出す。
   ライは一瞬素直に渡そうかどうしようか躊躇した挙句、結局渡した。マタタビを今ここ
  で渡しても、何の不都合も無いだろうと判断したのだろう。
   「ところで何処で手に入れてきたの?」というオプナの質問に対して、ライは笑顔で
  「薬学部で」と答えた。
   食堂に行った所マタタビなどというものは置いてなくて、仕方無しにうろついていたら、
  丁度薬学部の学生らしき二人組みが通りかかってマタタビを手に入れたから今度マタタビ
  酒を造ろうと話していた。その話を偶然耳に入れてからは、行動が早かった。薬学部に忍
  び込むのにそれほど苦労はしなかった。一度実体を消して、室内に入り込んだところで人
  が居ない事を確認してから実体を表したのだそうだ。これなら鍵が掛かっていても関係な
  いのだという。さすが怪奇現象だと、オプナは感心して聞いていた。マタタビの木を手に
  持った後は普通に鍵を内側から開けて部屋を出て、素知らぬ顔をしてここへ戻ってきたの
  だそうだ。

  「あなたの努力は無駄にしないわよ。決して」

   ライの肩に手を置いて、力強くオプナは頷いた。
   その行為に何の意味が篭められているのか、良く解らないでライはやや引き気味で応対
  するだけであった。



    *■□*



   高等部から大学部への移動は比較的平易だった。
   隣接しあっていて近いし、何よりも障害となるべきもの――例えば教師など――が比較
  的少なかったからだ。通りがかった者といえば、用務員ぐらいなものだ。彼の用務員は何
  というか、他の高校などに在籍している用務員などとは明らかに毛色が違う種類の人間だっ
  た。そもそも人間であるかどうかすら疑わしい。陽の光が燦々と照っている場所を平気で
  歩けるようだが、口の中に牙のようなものを見たという生徒達も居るし、不可思議な力を
  使っている現場を目撃した生徒達も何人か居る。ライはこの用務員に対して嫌悪の念を抱
  いているようだ。どういう経緯でかは知らないが。兎にも角にも彼らは犬猿の仲なのだ。
   犬猿の仲とはいえ、今はそんな事を気にしている余裕は無い。銀色の毛色の猫は見なかっ
  たか訊いてみた。すると彼は快く答えてくれた。「ああ、それなら大学部の方へ行ったよ」
  と。何故素直に教えてくれたのか、答えは自ずと出ていた。オプナは自分とフレアに対す
  る視線を感じて妙に納得したように一つ頷いた。

   大学部のキャンパス内に入ると、暇な大学生がそこら中をうろついていた。
   とはいえ、まだ授業中の科目もあるので人自体はまばらだが。昼休みに比べて、だが。
   三人はとりあえず聞き込みをしてみることにした。
   そこらへんを歩いていた、三人組の女子大生の方へと近付いていくオプナ。三人組の方
  はオプナを知っているらしく、近付いただけで少し引き気味になった。

  「ねぇ、銀色の体毛の猫を知らない?」

  「……銀色の体毛の猫ねぇ。知らないわ」

  「あなた、また実験か何かで作ったの!?」

  「……またって何よ。またって」

   オプナの米神に青筋が立つのを、フレアは見た。

  「ここらじゃ、あなたが妙な魔術実験を繰り返してるの、有名よ」

   真ん中の小柄でショートヘアーの女の子が言った。
   ライとフレアがオプナの後ろでもっともな話だと、頷いている。

   二、三人捕まえて聞き込みをしたところ、どうやら教授はゼミ室が密集しているゼミ棟
  の方へ向かったらしい事が判明した。

  「どうやら、目的地が一致したようね」

   オプナは挑みかかるような目で言った。



    *■□*



   魔術研究ゼミ室は開いていた。
   当然だ。オプナは鍵を掛けないで出て行ったのだから。
   オプナはそっとゼミ室に忍び込む。その次にフレアが慎重に続き、ライが最後にやる気
  無さ気に続いた。

  「えと、本は……あった。机の上に開きっぱなしにしてたのね」

   本は見つかった。
   後は猫を見つけて本に書いてあるとおりに行動を起こして、猫を元通りの教授に戻すこ
  とだ。





                               小林悠輝


  「何の本を探してたんだっけ?」

  「記憶力が乏しいわね。変身を解く本よ」

  「それがそうなの?」

  「他の何に見えるっていうのよ」

   ならきっと、毒薬の作り方を書いてある本にしか見えないのは気のせいなのだろう。ライ
  は「何にも」とだけ答えて室内を見渡した。

   なんだか、高等部の理科室に似ている。
   とはいえあそこは“音楽室の怪談”の縄張りではないから、なかなか立ちいることがで
  きなくて、どんな場所だったかよく覚えていない。あそこに棲み着いている怪奇現象は被
  害妄想が強い上に血の気が多くて、近づくだけでも大騒ぎだ。二酸化塩素と硫化水素の二
  段ポルターガイストはなかなか洒落にならない。

   胡散臭いものが無闇に置いてある、という点では、あの理科室と共通する雰囲気がある。
   他にも、中途半端に閉められた暗幕による微妙な薄暗さだとか、どこか薬品臭いひんや
  りとした空気だとか。

  「あとは、猫を捕まえればいいんだな」

   高等部からかすかに聞こえるチャイムの音。時計がないので何限目だかわからない。とに
  かく授業が始まるか終わるかした合図だ。

   フレアは少しだけ気にするような表情をしたが、小さく首を横に振った。
   真面目そうな学生だという印象だったのだが……いや、実際に真面目なのだろう。だか
  ら、自分よりもオプナの都合を気にしているに違いない。いいひとなんだけど、授業は大
  丈夫なんだろうか。

  (僕には関係ないから、いいか)

   カリキュラムに従わなければいけないなんて学生は大変だ。他人事だし同情する気も起
  きないが、感心だけはしてしまう。毎日毎日、おなじようなことをしていてよく飽きない
  ものだと――まぁ、それは自分も同じか。

   授業を受ける必要がないというだけで、学校という場所は、毎日毎日、毎年毎年、あま
  り変わり映えがしない。生徒が入れ替わり、たまに教師も入れ替わるが、そんなことには
  関係なく、日常は平坦だ。

   だからたまにこうして珍しげな騒ぎが起こると、気乗りしないながらもつい付き合って
  しまったりするわけで。後から関わらなければよかったと後悔するのも、決して珍しいこ
  とではない。だけどその騒ぎが解決するまでの間、いつもより楽しいことも確かなわけで、
  結局は毎回のように首を突っ込む。

  「じゃあ、フレアちゃん、これ持って」

  「え?」

   マタタビの枝を差し出す。手折られてから時間が経っているせいか、若干、葉がしんな
  りと萎れてきている。触ったら嫌な感じに柔らかそうだ。
   それを受け取ったフレアが不思議そうに見上げてきたので、ライは彼女から目を逸らし
  て両腕でウサギを抱えなおしながら言った。

  「とりあえず猫の目の前に出すと、勝手ににおいをかいだり舐めたり甘噛みしたりして酔っ
  払うらしいよ」

  「……へぇ」

  「そのときの猫は、目ェ細めて気持ちよさそうにごろごろしてね、もうサービス満点で、
  撫でるどころか抱っこさせてくれたりもしちゃうんだ。猫好きにはたまらないね!」

  「……そ、そうなのか」

   まじまじと枝を見下ろすフレア。
   オプナが本から顔を上げて「あの毛並みを撫でたら手が大変なことになるわよ」と呟い
  たが、ごくごく小声だったせいで恐らく聞こえなかっただろう。

  「フレアちゃんは、猫、好き?」

  「あ、ああ……可愛いから」

  「じゃあヨロシク」

  「え?」

   我ながら見事な誘導だと思ったが、どうやらうまくいかなかったらしい。
   ライが押し付けようとしたのは単純な理由で、動物が苦手だからだ。だって油断したら
  ウサギを噛まれそうだし。どこかに隠せばいいのかも知れないが……所構わず針を飛ばす
  ような生き物から守るためには、やはり自分で抱えているしかない。

  「ほら、女のこの方が猫も油断するだろうし」

  「教授だしね」

   オプナがまたぼそりと呟くが、ライも、恐らくフレアも、その教授がどんな人物なのか
  知らなかった。だがその口ぶりから察するに、中年以上の歳の男だろう。
   夢も希望もない。可愛い女の子だったら、もう気合入れて元に戻そうとするのに。

  「で、あんたは何するのよ」

  「んー……何しようかな。
   じゃあ、マタタビで幸せになった猫に網を被せる役で」

  「網なんてどこにあるの?」

  「ここならありそう」

   特に理由もなく印象だけで判断。ウサギをいちどテーブルの上に置いて周辺をがさごそ
  探し回ると、すぐにそれらしいものが見つかった。妙な光沢が疑わしい材質でできている
  ことは、はできるだけ気にしないことにしよう。
   それを片手に引きずって、もう片手にはウサギを抱えなおす。これでは不審人物だ。

  「元に戻す方法はわかったわ」

   ぱたん、とオプナが本を閉じた。彼女は「必要なものはー」と言いながら、テーブルの
  上にある薬品やら鉱石らしいものやらを集めて白衣のポケットに詰め込みはじめる。その
  小瓶のラベルに、明らかに危険な名称が書かれていたのを、ライは見なかったことにした。

  「行くわよ!」

   妙に張り切りながらオプナが言った。 





                                  熊猫         


  この学園の広さは十分に理解していたつもりだったが、それでもやはり広い。

  「歴史と数学と体育と…」

  歩きながら、受けられなかった(受けられないであろう)今日の時間割をつぶやいてみる。
  どれもこれも外せない教科だ。

  体育はまだしも、歴史を受けられないのは痛かった。
  ノートを誰かに写させてもらうしか…いや、それはちょっと卑怯というものだ。
  それでも一日分遅れが出るのは…テストが終わった直前とはいえ、その翌日に
  次のテストに重要なキーワードが出ないとも限らない。とすると…。

  (じゃなくて!)

  首を振る。今はそれどころでは…授業どころでは…ない、ない。ない!
  人命がかかっているとは言わないが、やはり人が困っているのならそちらを優先すべきだ。

  「授業受けたかったんじゃない?大丈夫?」

  さくっと、ライのからかいが突き刺さる。そこから血でも流しているかのような心持で、
  フレアは強引にかぶりを振った。もう覚悟をしなければ。

  「…一日くらいなら、大丈夫だ」

  毅然と言ってみたものの、ぷっとオプナとライが吹き出す。その意味がわからなくて
  きょとんとしていると、もはや笑うのを隠さないオプナが言った。

  「フレアは真面目すぎるのよ。たまには息抜きしなきゃ」
  「う」

  フレアは反論しようとしたが――もう今日の授業は出ないと決めたのだ。
  それを考えると、何もいえなかった。

  「しかしいないわね教授。立ち止まって静かにしてて、騒ぎが起きるのを待つ?」

  真顔で周囲を見渡すオプナに、ほかの2人はぎょっとして足を止めた。

  「なんでそんなテロリストみたいな事」
  「騒ぎが起きる前に捕まえるべきでは…?」
  「冗談よ」

  くすっと息を漏らせると、彼女もふわりとローブをなびかせて立ち止まる。

  「でもやっぱり、マタタビで誘い出すしかないわね。
   このへんだったらあまり目立たないだろうから、待ってましょう」

  言われて初めて気がついたが、今いる場所は裏庭のようだった。確かに森に
  面していて、学校側にも木々が点在しているために、窓から見られる心配も
  なさそうではあった。

  にゃあ、と鳴き声がして振り向くと、いつの間に来たのか猫が一匹、数メートル先から
  とことこ歩いてきていた。ずっと前からついてきたのだろうか。

  フレアは思わず手に持ったマタタビの枝を見下ろした。




  ・・・★・・・


  数分後。

  十数匹の猫に取り囲まれたフレアは、味わったことのないような幸福感に浸っていた。

  「かわいい!」

  目を輝かせて、ぶちの猫を抱き上げる。ライとオプナは裏庭にある倉庫の階段に腰掛けて、
  その光景を見ながら口々に感想を述べた。

  「よかったねぇ」
  「よかったわねぇ」

  にゃーにゃーにゃーにゃー言っている猫たちは、狂ったように寝転がって腹を見せたり、
  やたら顔を前足で洗ったり、マタタビの枝を舐めたりと、多彩な反応を示している。
  フレアに抱かれた猫は、ずっと喉を鳴らして達観したように目を閉じていた。

  「…教授こないね」
  「そうね」
  「ライ!オプナ!また来たぞ!今度は三毛だ!」

  授業をサボってよかったと思える日は、今日をおいて他にはないだろう。


  と、どこかそう遠くないところで悲鳴が聞こえた。





                                葉月瞬


   声の聞こえてきた方角は、ゴミを燃やすための装置――焼却炉のある方角だった。
   この学園には焼却炉が二種類あって、一つは魔法によって作り出された所謂失敗作を焼
  却する為の、浄化焼却炉。もう一つは普通のゴミを焼却する焼却炉である。どれも同じ場
  所にあるので、魔法学の生徒も一般教養の生徒も同じように使用しに来てばったり出くわ
  した、何てこともあったりする。
   まばらに茂る木々の間を道なき道――獣道を掻き分けながら進む。すると数分後、学校
  の裏側に出た。焼却炉のある辺りだ。
   悲鳴はその焼却炉の前で上がっていた。
   だが、よくよく観察してみるとそれは悲鳴ではなく、歓喜と驚嘆の入り混じった声だと
  言うことが判明する。「きゃーっ! なにこれ!? かわいいーv」とかいうやつだ。高等
  部の少女が興味本位に銀色に鈍く光る猫に手をかけようとした瞬間、一瞬間の判断でオプ
  ナは右の掌を前に突き出して【シールド】の魔法を展開していた。猫に向けて。
   オプナは実は図書室で探し物をしていた時、空いた時間を利用して掌に魔法文字で魔法
  陣を構成していたのだ。【シールド】の呪力をこめた呪文構成の魔法陣だ。呪文を魔法陣
  の形に構成して身体のどこかに予め書いておくことにより、口で呪文を唱えるよりも素早
  く呪文を展開することが出来るのだ。これはオプナが独自に開発した、所謂裏技と言う奴
  である。後四つばかり描かれている。
   鈍色の猫を囲うようにシールドが展開され、直径1mの半球体の透明で薄い膜が形成さ
  れた。それに少女の手が触れると反発するようにプラズマが走り、衝撃と共に少女は弾き
  飛ばされ尻餅をつく。

  「いったぁ。……これ、魔法!? なにすんのよ!」

   少女が怒って凄んで見せる。その態度を見てもオプナはあくびれることなく、あっけら
  かんとして然も当然とでも言うようにのたまった。

  「その猫に近付いたら怪我するわよ。助けてあげたんじゃない。感謝してよね」

  「あなた……オプナね。噂通りだわ」

   どんな噂だと、オプナもフレアもライまでもが思ったが、思っただけで口に出すことは
  無かった。ライとフレアは、オプナを見て、「高等部にまで噂が流れているのか」と妙に
  感心してしまう。

  「可愛いんだから、触ろうとする位いいじゃない。怪我するってどういうことよ。気が立っ
  てるとでもいいたいわけ?」

   少女は妙に突っ掛かってくる。

  「文字通り怪我するのよ」

  「そ。そいつに触るとね」

  「そうだ。その猫に触れようとすると、針を飛ばしてくるんだ。危ないぞ」

   オプナの足りない語尾をライとフレアが続ける。フレアは低く唸って威嚇体勢に入ろう
  としている銀猫が気になるようで、しきりにそちらを見遣る。その仕草が可愛らしいのか、
  オプナは微笑ましささえ覚えた。

  「針? はぁっ!? 何、それ。そんな猫いるわけ無いでしょ」

   だからその猫が目の前にいるんだよと、危うく突っ込むところだった。
   突っ込んでも良かった。
   むしろ突っ込むべきだった。

  「だから、その猫が目の前にいるんだよ」

   オプナの代わりにライが突っ込んでくれた。
   オプナは何故か、胸を撫で下ろした。
   少女は半目で猫とオプナ達の方を往復した。何度往復しても、オプナ達の言っている意
  味が解らなかった。理解しようとも思わなかった。

  「あんたら、あたしを騙して何かしようって言うんじゃないでしょうねぇ」

   完全に疑っている目だった。
   無理も無いと、オプナは思った。だが、諦める訳にはいかなかった。説明して何とかし
  て納得させるしかない。だからどうだといわれても、それしかこの場を収める術を思い付
  かなかったからだ。

   と、オプナが困り果てている時、突然天空から神の御手が振り下ろされた。それはまる
  で、天啓の如く起こった出来事だった。
   オプナが張ったシールドの結界の内側から、針が数本発射されたのだ。それは尽くシー
  ルドに跳ね返されて地面に落下していった。中にはシールドに突き刺さっているものもあ
  る。その光景を見て、オプナは背筋に悪寒が走るのを覚えた。魔法で作った障壁に突き刺
  さるほどの針だ。まともな針である筈が無い。その、まともな針で無い針を飛ばす猫を相
  手にこれから一悶着やらかそうというのである。先が見えたような気がした。

  「あ。……私ちょっと頭痛が……」

  「逃げるの無しだよ」

   オプナが自作の持病で逃げようとした所を、ライに首根っこ捕まれた。これでもはや逃
  げられなくなってしまった。



      *■□*



   教授猫との戦闘に入ってからどれくらいの時間が経っただろう。
   一つはっきりしているのは、先程の少女は戦闘が始まると同時に何事が起きたのか理解
  できぬまま校舎の方に逃げて行ったという事実と、銀色に光る教授猫との睨み合いが数分
  経過した、と言うことだけである。教授は相変わらずわけもわからず低い唸り声でこちら
  を威嚇している。
   オプナは今の内にと、手早く二人に指示を出す。

  「私が魔法で抑えておくから、ライ君は猫を取り押さえて。フレアちゃんは薬を飲ませて
  あげてっ!」

   そう言うが早いか、オプナはフレアに薬の小瓶を手渡した。ここへ来る前にゼミ室でポ
  ケットの中に忍ばせておいた薬壜に、変身を解くのに必要なありとあらゆるものをブレン
  ドした特製の薬だ。液体の色は何故か紫色をしている。
   一体何を入れたらこんな色合いになるのか疑問が残ったが、フレアは賢明に口を閉ざし
  て受け取るだけに止まった。
   フレアに薬壜を渡すと、安心してオプナは前方に控える教授猫に対して魔法を行使する
  ことにする。図書室でしこたま仕込んでおいた魔法陣だ。いくつかの魔法陣がある。その
  いくつかの魔法陣の中でも、左に仕込んでおいた魔法を開放する。

  「スリープ!」

   左の掌に仕込んでおいたものは、眠りの雲[スリープ]の魔法だった。
   銀色の猫の真上に、鈍色の雲状気体が発生して霧状気体が噴霧されたかと思いきや、教授
  猫はその場に力が抜けるように横倒しになりそのまま寝息らしいものを立て始めた。恐ら
  く眠ったものと推察される。