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                                         とばり


   朝を告げる鳥の声よりも早く、扉を叩く激しい音が響いていた。
   頭からすっぽり毛布を被って、一見イモムシなのか何なのかわからない姿でベッドに転
  がっていたタスナは、ぴくりと柳眉を逆立てた。
   音から察するに、下の階の出入り口だろうか?
   無視を決め込もうと丸まる彼の意思をまったく無視しながら、騒音はその鼓膜に襲いか
  かっている。むしろ脳髄に叩き込まれるようなそれに、呻き声が漏れた。

   しばらく無言の――とはいえ止まない音は存在したが――攻防は続き、先に脱落したの
  はタスナだった。
   もがく多足類を彷彿とさせる動きで、ずるずると毛布から這い出る。

  「……くそ、誰だよこんな時間に……!」

   短く切った銀髪をぐしゃぐしゃと掻き回しながら、耳障りな音できしむ狭い階段を降り
  ていく。
   客だとは思いたくないな、とタスナはうつろな頭で考えた。こんな、パン屋ですら働き
  始めていない時間に訪ねてくるような非常識な知り合いはいない。ましてや、借金取りと
  も縁はない……おそらく。
   思考を連ねるその合間にも、ご近所迷惑な主張が途絶えることはなかった。いくらポポ
  ルの住民が穏やかな性質であっても、これでは青筋を免れないのではないだろうか。

   階段を降りきると、鼻に慣れたほこりと紙の匂いが立ち込めた。
   2階は休むための自室と物置くらいしかないが、ここは一応、それなりに質のそろった
  書店である。広さこそないものの、そう悪くはないと家主兼店長のタスナは思っている。
   しかし、いくら何でも開店時間にはほど遠い。ずらりと並んだ本棚の中を突き抜けて、
  安眠妨害の原因である扉の前まで来ると、乱暴に両手をかけた。
   まったく何の自慢にもならないが、寝起きの悪さには定評がある。きっと今、自分はこ
  の上なく凶悪な顔つきになっているに違いない。
   そんなどうでもいい確信を込めつつ、苛立ちを込めて勢いよく扉を開け放した。

  「うちはまだ準備中だよ! 用があるなら朝飯食ってから――――――うわ」

   絶句する。
   目の前に、見知らぬ少女が茫然と立っていた。

   二十歳には届かないだろう――タスナと同年代くらいか。長い髪を包み隠すように、ベー
  ルをかぶっている。灰色の簡素な衣服は、この辺りではあまり見かけない形だが、おそら
  く神殿などに務める巫女の纏うそれではないだろうか。
   しかし問題なのは、彼女の両の目が焦点を結んでいないということだった。目が見えな
  いわけではないと思う。何故なら、表情全体がおぼついていなかったからだ。
   どう贔屓目に見ても、夢遊病者だった。

  「……もしもし、お嬢さん。大丈夫?」

   正直怯えながら、ひらひらと手を振ってみる。この少女が扉をぶっ叩いていたのは間違
  いなさそうだった。証拠に握りしめられた右の拳が赤くなっている。 
   しばらく無反応だった少女の顔が、ふいにぴくりと動いた。
   うつろだった瞳が急速に光を帯び、真っ直ぐにタスナを捉える。何故か、捕まった、と思っ
  た。胸のトキメキだとかそんな楽しいことではなく、もっと本能的な、首根っこを掴まれ
  た猫の気分だった。

  「見ましたね」

   小さな唇が、呪いをかける女よろしく暗然と呟く。何が、と問う暇もなく、いきなり胸
  倉を捻り上げられた。

  「ちょ、ちょっと!?」

  「わたくしの目を、見ましたね。よろしい。これでひとつ、巫女としての力が移されまし
  た。あと2人……それが揃えば、失われた灯火(ともしび)も蘇るでしょう」

  「いや、あの、意味がわからな……」

  「恨むならわたくしをお恨みになられればいい」

   き、と睨みつけられる。その細腕のどこからそんな力が? と疑いたくなる臂力で締め
  上げられ、軽く窒息死しそうだった。痛めないように加減をしながら、その手を外そうと
  力を込める。

  「恨む恨まない以前に、ちょっと、事情が聞きたいんだって―――いて、いてててて」

   引っかかれた。押さえ込むように一気に引きはがしてしまおうとしたところで、急に相
  手の身体から力が抜ける。ぎょっとして受け止めると、反動で扉に頭をぶつけた。
   しばらく、声にならない痛みに耐える。どうしてこんな時間から、こんな目に遭わなけ
  ればいけないのだろう?
   抱えた少女を見下ろすと、力なく目を閉じてぐったりとしていた。完全に意識がない。

  「……………………」

   今日は厄日だろうか、と力ない思考が頭をかすめ、去っていった。





                                小林悠輝


   夢うつつに遠い騒音を聞いた気がした。

   だからといってそれで覚醒したはずもない。ジュリエッタ・ローザンハイン――けった
  いな名前だ。もう少し短いものを考えればよかった、と彼女はたまに後悔する――が目を
  覚まして宿を出たときには、もう昼に近い時間だった。
   それでも、同行者の一人でもいれば「今日は早いね」と言っただろうが。

   平らで、角が丸っこい石畳が敷かれた道に降り立つと、晴れ渡った空が頭上に広がって
  いた。
  「ジャバウォック」と看板の掲げられた小さな宿の建物の前から見渡せる、暖かな日差し
  に照らされた町の景色。
   花屋、本屋、誰かの家、小物屋……

   ポポルの町は相変わらず時間の流れが遅い。
   というよりも起伏が少なく安穏としているというべきか。
   そこそこの宿に泊まって、毎日てきとうに散歩をして宿に帰るという生活をしていたら、
  あっという間に一月が経ってしまった。

   ソフィニアあたりの意味もなく急かされるような空気と違って過ごしやすいのに、ソフィ
  ニアよりも人口が少ないことが、ジュリエッタには不思議で仕方がない。
   働くことや学ぶことが至上の喜びだとでもいうのだろうか? だとしたらそんな人間た
  ちとは永遠に気が合わない。わかり合えない他人が一つの都市の人口と同じだけいると考
  えるだけで、ぞっとする。

   用がない限り極力ソフィニアには近づかないことにしよう。
   同業者の集会からの招待状、召喚状、出頭命令書、すべて読みもせずに屑篭へ放り投げ
  ているジュリエッタに、かの魔術都市に赴かなければならない重要な用事などあろうはず
  もない。

   長い黒髪、暗紅のドレス。ブーツの底が石畳を叩く硬い音。
   暗鬱な、という形容詞で表される色をまとってポポルを歩くのは、綺麗な景色を描いた
  風景画に濁ったインクを落としていくのと同じ。

   たまに人が振り向くのに満足感を覚えながら歩く。
   とりあえず昨日とは違う方向へ、ということだけしか考えずに、こじんまりとした町並
  みを眺めながら。
   だから一昨日はその道を通ったかも知れないし、その二日前もどうだったか。覚えてい
  ないのなら初めて見る場所だ。

  「っ!」

   標識看板の立つ角を曲がった途端、誰かにぶつかりそうになった。
   驚いて見上げる――が、その相手も、見上げるほど長身ではなかった。今のジュリエッ
  タよりは肩の位置が高いが、成人男性にしては低い方だろう。

   年上だが、三十路は超えていなさそうだ。
   短い栗毛、太い眉、鳶の瞳。
   すっと通った鼻筋は爽やかな印象。
   細い体、薄汚れた軽装、大きな鞄。

   それだけを一瞬で認識してジュリエッタは瞬きした。

  「っと……危ないですよ、お嬢さん」

  「悪い。ぼうっとしてて」

   お嬢さんと呼ばれるような歳ではないが、と思いながら応える。
   男は「いえいえ」と首を横に振って笑った。

  「お詫びに食事でもどう?」

  「……? ぶつかってないのに」

  「いいからいいから」

   ジュリアはまじまじと男の顔を見つめた。
   伊達男と呼ぶには風格が足らず、チャラ男と呼ぶほど頭が悪そうには見えない。
   ジュリエッタは彼をどう評価するべきか悩んだが、すぐに考えるのをやめた。面倒くさ
  くなったのだ。

  「あまり高いところは勘弁だけど、普通の店なら」

   確かに昼食はまだとっていない。
   しかし、知らない人に着いて行ってはいけませんと、しつこく言い聞かされていたよう
  な気がする。何か、たとえば多少の危険に巻き込まれたところで、なんとかするくらいの
  自信はあるというのに、まったく彼は心配性なんだから……

   少しだけ考えてジュリエッタはうなずいた。
   ナンパ? されるのも滅多にないことだし、どうせヒマだったから。そしていきなり声
  をかけてくるからには、この男もそうなのだろう。
   この町はゆったりしていていいけれど、いちど退屈を認識してしまうとそれを振り払う
  術が少ない。これが、自分住んでいる町ならば別なのだろうが。

  「俺は――
   お嬢さん、お名前は?」

   考え込んでいたせいで男が名乗ったのを聞き逃してしまったが、ジュリエッタは特に気
  に留めなかった。人の名前を知っていても、それを呼ぶことは少ないから。
   この男はもう、“お嬢さん”という、こちらを呼ぶ言葉を持っているのだから、わざわ
  ざ名前を聞く必要もないだろうと思いながらも、ジュリエッタは素直に答えることにした。

  「ジュリエッタ。ジュリアでもユリィでも好きなように略して構わない」

   美貌を讃えるのではなく、無愛想さを評して“人形のよう”と喩えられたことがあるそ
  のままの表情、言葉に、果たして男は脈ありと思ったかどうか。浮かべた笑顔は無闇なま
  でに爽やかだった。 





                                葉月瞬


  「じゃあ、ジュリアちゃんは本が好きなの?」

   出会っていきなりちゃん付けをするほど図々しさを発揮しだしたギゼーとジュリエッタ
  は、食堂への道すがら話していた。

  「そう。今日こそ、“毒薬と暗殺の歴史”と言う本を買おうと思ってな。高くて中々手が
  出せなかったんだ」

   ジュリエッタは作り笑いをして剣呑な書名を平然と言った。少しばかり笑みが釣り上がっ
  て見えるのは、少々馴れ馴れし過ぎるギゼーに対する引きだろうか。剣呑な書名を態と挙
  げたのは、ギゼーを自分から遠ざける為でもあるのだろう。
   しかし、ギゼーはそんなジュリエッタの思惑とは裏腹に、人懐っこさを最大限に発揮し
  て来た。

  「じゃあ、食事が終わったらさぁ。付き合うよ」

   人懐っこい笑みを満面にたたえ、ギゼーはジュリエッタの了承をもう既に勝ち取ったか
  のような気になっていた。
   一方、ジュリエッタの方は愛想笑の一つも浮かべる事もなく、案内されるまま食堂へと
  付いていく。無愛想な事この上ない。ひょっとしたら無視を決め込んでいるのかもしれな
  かった。



   食堂の外観は古めかしい洋館の風貌だった。築何十年も経っていそうなほどで、所々
  継ぎ接ぎが見える。しかし、一歩中に入ってみると、流石に流行っているのか外観の古め
  かしさを感じさせない内装であった。中規模の食堂で、値段も手ごろなら味もそこそこ良
  いという評判の見せである。

  「ところで、あー……」
  「ギゼー」
  「そう、ギゼー。ここのお代は誰が持つんだ?」

   食堂に入って開口一番、ジュリエッタが確認した。
   その言葉の真意にギゼーはあっさりと気付いた。そして、ゆっくりと言い含めるように
  言った。

  「当然、ここの払いは俺が」



   気だるげに食後の紅茶をひとすすりする、ジュリエッタ。その様は優雅とか、優艶とか
  の修飾語がしっくり来るほど美的だった。その性格の悪さを知らなければ。
   出された料理はどれも美味だった。少なくともギゼーにとっては。ジュリエッタは外見
  上、美味しいとも美味しくないともつかない態度で食べていた。
   運ばれてきた料理は次のような物だった。
   まず、コーンポタージュスープを筆頭として、鶏の腿肉の炙り焼き赤ワインソース添え、
  海鮮サラダと続いて、最後はシェフご自慢のチョコレートケーキで締めた。そして、食後
  に紅茶を啜[すす]っているのである。
   ジュリエッタは一応満足そうに見える。表情は変わらないが、まあ、満足なのだろう。
  それもそのはず、ジュリエッタは一文も出す必要が無いからだ。この食事に関しては。
   対するギゼーの方は、財布の中身と相談しながらの昼食だったので味もへったくれも無
  かった。気もそぞろに食していたからだ。ただ、出された料理への満足度はジュリエッタ
  とほぼ同じだった。もっとも、ギゼーの方が若干品数は少なかったが。
   だからと言って不満を口にするギゼーではなかった。
   美しいお嬢さんと食事を共に出来た事を、至福としていたからだ。

  「さて」

   と、紅茶を最後のひとすすりまで飲み終えたジュリエッタが唐突に切り出した。席を立
  ちながら続ける。

  「食事、ありがとう。そろそろ本屋に行きたいので、これで失礼する」
  「あ、俺も付いて行くよ」

   空かさずギゼーも、当然の如く席を立つ。

  「いや、いい。遠慮しておく」

   ジュリエッタの拒絶の言葉も、「いや、女の子の一人歩きは何かと物騒だからさ」とそ
  の一言で押し切ってしまう。

  「好きにしろ」

   ジュリエッタはぶっきら棒に言って店の出口に向かう。
   ポポルと言うこんな平和な町の中で物騒も何も無いものだが、ギゼーは押し付けがまし
  くジュリエッタの後を付いていく。勿論、そそくさと支払いを済ませてからだが。
   町を歩く二人は何処かぎこちなかった。
   ジュリエッタは暗赤のワンピースをひらめかせながら堂々と通りを歩いている。その後
  ろから媚びる様な仕草で、付き従うギゼー。一種異様な光景であった。見ようによっては、
  貴族のお嬢様と御付の従者とも取れるかもしれない。
   中天を割った太陽がそろそろ西日に変わろうとする頃、二人は本屋の前に立っていた。


  「いらっしゃいませー」

   扉を開けると、心地よい鈴の音と共に店員である若いエルフの少女が出迎えてくれた。
  彼女がエルフであると言う事は、とんがり耳が深緑の髪の毛の間から飛び出しているとこ
  ろから推測できる。エルフは長寿である事から、彼女が外見年齢通りの齢かどうかまでは
  解らないが、少なくとも16歳前後には見えるので年若いエルフなのだろうと憶測を巡ら
  せる事はできた。
   ギゼーが戸口で立ち止まって呆けていると、ジュリエッタは勝手に店内を見て周り、目的
  の本“毒薬と暗殺の歴史”を見つけ手に取ると、そのままカウンターにいる店員――エル
  フ娘に渡す。

  「これが欲しいのだが」
  「はい。金貨50枚です」

   エルフ娘はジュリエッタのぶっきら棒な物言いなどものともせずに、笑顔で応対する。
  肩の辺りで揺れる深緑色の髪の毛がかわいらしいと思ったギゼー。エルフの例に漏れず、
  彼女は美貌の持ち主である。
   値段を告げられたジュリエッタは、徐に後ろに控えているギゼーを見遣る。その眼は心
  なしか「奢れ」と言っているようにギゼーには思えた。

  「!?」

   一瞬、顔が引きつる。
   仕方なしに、ギゼーはカウンターまで近付くと懐から金貨の入った袋を取り出すと、その
  中から金貨を50枚ほど取り出してカウンターの上に置いた。
   ひょっとしたらここで奢れば、ジュリエッタが自分に好意を抱いてくれるかもしれない
  と言う甘い考えが過ぎった。が、その考えが甘すぎたのだと、後に思い知らされるのだ。

  「ありがとうございましたー」

   店員の笑顔が拝めただけでも儲けものだと、ギゼーは思う事にした。
   ジュリエッタは念願の“毒薬と暗殺の歴史”と言う本を手に入れて一言、「ありがとう」
  と呟いただけで、格別に相好を崩すような事はしなかった。

  「お客さんかい?」
  「あ、店長」

   本を買ったと同時に、カウンター奥にある扉が開いて銀髪で琥珀の瞳を持った青年が顔
  を覗かせた。扉の奥には階段があって二階に通じている。その更に奥には台所があった。
   この店は、店長である銀髪の青年の住居も兼ね備えているのだ。
   と、銀髪の青年の横にもう一つ顔を覗かせた人物が居た。余りにも唐突なので店長であ
  る青年も引き止める暇が無かった。

  「……二人目……」

   もう一人の人物はそう一言言い置いて、黙り込んだ。
   その人物は、少女だった。二十歳には届かないだろうその風貌は、何処か神秘的ですら
  あった。灰色の簡素な巫女服を纏った彼女は今はベールを脱ぎ捨てている。恐らく彼女を
  ベッドに運ぶ時に店長が剥ぎ取ったのだろう。灰色の長い髪を背中に垂らし、長い睫毛[ま
  つげ]を伏せ目がちにしている。紅を引いた艶やかな唇を少し開けている。その口から先
  程の言葉が漏れ出たのだろう。暗い灰色の瞳は焦点が定まっていない。

  「……私は灰の巫女。どうか、どうか私を助けると思って、私の目を見てください!」

   縋るようなその少女の眼差しに射抜かれて、ギゼーは思わず空唾を飲み込んだ。
   一目惚れだった。 





                                とばり


   いつの間に起きてきたのか。
   気配や足音には敏感だと自負のあるタスナだったが、自分の後を追うように姿を見せた
  少女のことには、まったく気がつかなかった。

   あの後、意識を失った少女は呼びかけても目を覚まさず、結局タスナが店内へ運び入れ
  たのだ。とはいえここに客間などという上等なものはなく、自分の部屋を明け渡さなけれ
  ばならなかったのだが。
   それが災いし、いつもの時間にやって来たアルバイトの少女には、あらぬ疑いをかけら
  れて殴りかかられたという切ない事実もある。事情を説明するまで、やれ見損なっただの
  もう辞めさせてもらいますだのと喚いて大変だった。

   いや、それはともかくとして。

   タスナはうっすらと背筋を凍らせつつ、客の1人をじっと見つめている小柄な姿を視界
  に入れる。ついさっきまで伏していたのに起き上がって大丈夫なのか、という心配もない
  ではなかったが、佇む少女の異様な雰囲気に声をかけられずにいた。
   だがふと、その大きな瞳が、あの時―――玄関先で妙な感覚を覚えた時と、同じ色を宿
  しているような気がした。

  「―――!」

   そう思った途端、反射的に、少女の両目を覆い隠していた。
   まさに頭の中のひらめきというか本能というか……とにかくそんなものの衝動に突き動
  かされた後、タスナははっと我に返った。これではただの変人だ。
   だが、負けず劣らず変な言動を先ほどから披露している少女は、至極真面目な口調で
  「無駄です」と呟いた。

  「力を移すのは、ほんの一瞬ですから。―――そちらの貴方」

   肩についた屑でも払うようにタスナの手をどかせると、少女はもう1人の客のほうへ顔
  を向ける。あ、と思う間もない。彼女は驚いたような表情をしていた栗色の髪の男から、
  無関心な雰囲気を漂わせている黒髪の女性に視線を移した。女性の赤みの強い双眸が少し
  ばかり見開かれる―――おそらくは、「あの」瞳を直視して。

  「3人目」

   ほんのわずか、奇妙な沈黙が訪れた。
   灰色の長い髪をさらりと流しながら、巫女装束の少女は謎めいた小さな笑みを浮かべる。

  「揃いましたね。わたくしは貴方たちに、お話しなければならないことがあります」

  「…………」

  「……」

  「………………」

  「……何で?」

   至極もっともな言葉を突っ込んだのは、傍観に徹していたアルバイトの娘だった。
   タスナは鼻の頭にしわを寄せ、首の後ろを掻き、こめかみを揉み―――溜め息をついて、
  悪気のない顔できょとんとしている彼女の名を呼んだ。

  「グラシーウィ。悪いけど、この子と上にあがってくれるとすごく嬉しい」

  「はぁ。いいですけどー……いいんですか?」

   あろうことか、グラシーウィはそう言って少女の顔を覗き込んだ。そんなわけがないで
  しょうと言いたげに、灰色の髪に包まれた小さな輪郭に不快そうな表情がともる。いや、
  不快と称するよりももっと幼い。拗ねているような雰囲気だった。

  「駄目ですよ。これはわたくしの使命。わたくしが果たさねばならない義務なのですから」

   ゆっくりと、噛みしめるようにそう言い放つ。嫌な気配を察したのか、黒髪の女性がか
  すかに眉をひそめてこちらを見た。迷惑そうな顔をしている。
   そりゃそうだよな、と思った。 

  「……用も済んだし、私は帰るけど」

  「え、帰るの?」

   乗り気でない女性に、声を上げたのは栗毛の髪の男だった。鳶色の瞳がどことなく楽し
  そうだ。「帰らないのか?」と黒髪の女性は隣を振り返る。
   連れ立って買い物に来たらしい2人だが、特に親しそうな感じは見受けられない。数時
  間前に出会ったばかりだからだとはタスナも知る由がなかったが、目の前で言葉を交わす
  男女に、そんな印象を抱いた。

  「あー……と。俺にもよくわからないんだけどさ」

   くしゃりと銀髪をかき混ぜて、呟く。灰色の髪の少女が無言で見上げてきている。何か
  変なことになってきてるなぁと思いつつも、どうやら巻き込んでしまったらしい客2人の
  視線を受けて、タスナは言葉を続けた。

  「時間あれば、お茶でも飲んでいってよ」





                               小林悠輝


   今日はなんの日だろう。
   温まった紅茶のカップを取りながら、ジュリエッタは胡散臭そうに女を眺めていた。昼ご
  ろに宿を出たまではいつもと同じだったはずだ。

   男に声をかけられことも、十日くらい前にもあった気がする。あまりにもむさい男だっ
  たし、下心が顔に表れているのが不快で断ったのだったか。外見で判断する人間は嫌いだ
  ――いや、そもそも、人間そのものが大好きだというわけでもない。

   本屋の二階は居住空間になっているようが、当然といえば当然のことながら客間などと
  いう上等なものはなく、小奇麗に片付いたリビングで、クロスのかけられたテーブルを囲
  んでいるのだ。

  「貴方たちには、わたくしと共に断崖の王国へ来ていただきます」

  「……だから、なんで?」

   聞き返したのはアルバイトの少女だった。深い緑色の髪と色の白い肌、とがった耳でエ
  ルフだとわかる。知り合いのエルフは温厚で礼儀正しかったものだが――いや、種族で判
  断するのは不確実極まりなく、彼女たちに失礼というものだ。
   それに、話を進めてくれる人がいると助かる。喋らなくていいから。
   そのアルバイトに巫女がずけずけと言った。

  「貴方は、いりません」

  「なんですって――!」

  「グラシーウィ」

   店長が諌める。タスナ、だったか。と、ジュリエッタは記憶を辿った。
   名乗られてから少ししか経っていないはずなのに、もう自信がない。
   人の名前を覚えるのは本当に苦手なのだ。というか、覚えようとしなくなってしまって
  いる。思いついたときには、呼び名がわからなくて困るときなのだ。そして困ることは滅
  多にない。

  「だって、店長! このひと失礼すぎます」

  「まぁまぁそうだけどさ、いちおう話だけでも聞いてあげようよ」

  「話していいですか?」

   また遠慮のない口調で巫女が言った。
   グラシーウィの尖った耳がぴくりと痙攣のように動いたのが、彼女の内心の激昂を物語
  る。タスナがフォローのしようもないという顔で、ギゼーは完全に見とれている目つきで、
  それぞれ巫女を見た。ジュリエッタはその様子を見渡してから、倣う。

  「貴方たちには、わたくしと共に断崖の王国へ来ていただきます。
   王国は明けぬ夜に覆われています。一月前の嵐で、昼を司る≪機織女の塔≫に燈ってい
  た炎が消えてしまったためです。
   わたくしは王の命を受け、聖化された火種を持って塔へ向かいました。
   しかし長いあいだ管理されていなかった≪機織女の塔≫は荒れ果てていて、影が棲み付
  いていました」

  「……影って?」

  「そうでした。貴方たちは影を知りませんでしたね。
   断崖の王国では、影は放っておくとその影の持ち主を襲いますから、そうならないよう
  に、国民は八つの誕生日に影を切り取り、山椒を蒔いて追い払います。
   影は光に当たると消えてしまいますが、夜のうちに≪機織女の塔≫にたどり着いた影が
  塔の中の闇に潜んで生き延びていたようなのです。
   持ち主のいない影は、人が近づくと足元に貼りついて姿を隠し、伝染していきます」

   灰色の巫女をじっと見る。
   テーブルの上に置かれた手。あるはずの影はない。

  「切り取るって、どうやって……」

   ギゼーが尋ねた。巫女は薄く笑って黙殺した。

  「ですから、塔には、影のない者は立ち入ることができません」

  「なんでそれがうちの店長なのよ」

   グラシーウィが、彼女の話をほとんど信じていないことを表情にありありと出して言っ
  た。
   巫女の話には突拍子がない。昼を司る塔だとか、影を切り取る風習だとか、聞いたこと
  もない。そして今ポポルは間違いなく昼である。世界の一部分だけが常に夜であり続ける
  ことなど不可能だ。

  「お客さんまで巻き込んで……」

   まったく、なんで巻き込まれたんだろう。抱えた本に目を落とす。まさか本当に買って
  くれるとは思わなかった。ここで一人、「じゃあこれで」と帰るのも、ギゼーのことを考
  えると気が咎める。無感情だとよく言われるが、薄情ではないつもりだ。
   尤も、ギゼーは今、巫女を見つめるのに熱中しているから、帰っても問題ないかも知れ
  ない。ナンパしておいてすぐ他の女に見とれるとはいい度胸だ。
   本当に帰ってしまおうか。

  「――では、参りましょう」

  「え?」

   声を上げたのは誰だったか。




   目の前が真っ暗に。平衡感覚が狂って耳の奥がキィンと痛む。
   魔法の――理論のない、おとぎ話に出てくる魔法使いが使うような魔法の力が渦を巻い
  た。




   落下している、と気が付いたときには、腰をしたたかに打ち付けていた。
   地面はやわらかくあまり痛みはなかった。が、突然のことに困惑する。

  「っつ…」

  「なんだなんだ?」

   ギゼーの声。起き上がる気配。タスナのうめき声が聞こえた。
   広がったスカートをおさえて、立ち上がる。足元が少しふらついた。

  「ここは?」

   むせ返りそうに濃密な、木々のにおい。
   ぎゃあぎゃあと悲鳴を上げて飛び立つ鳥の群れ。
   薄暗い森だった。つい今までと比べて、光の量が半分よりも少ない。

   奇妙に思って見上げると――紺色の空が、びろうどのようにべったりと広がっている。
   木々の向こうに細長い異形の影が伸びているのが見えて、妙に違和感があった。

  「あれが≪機織女の塔≫です」

   振り向くと、三人の背後に灰色の巫女。
   彼女は完全な無表情で、完全に無感情な声で言った。

  「貴方たちにわたくしの力をうつしました。
   誰か一人でも辿り着けば、最上階の扉を開くことができます」

   力をうつして? なんのことだかわからない。だが、ずいぶんと勝手なことを言われて
  いる気がする。誰か一人でも辿り着けば。行かなければならないと誰が決めたのか。そし
  て、辿り着けなければ、どうなるのか。漠然とわかるが理解には遠い。

   説明もなく、巫女は灰色の服から、光るものを取り出した。
   揺らめく炎を閉じ込めたガラス玉だった。

  「これが、わたくしたちの希望の炎です」 





                                 葉月瞬


  「これが、わたくしたちの希望の炎です」

   そう言って差し出された硝子玉を、ギゼーはほとんど無意識の内に受け取っていた。受け
  取ってから「しまった!」と思ったところでもう、後の祭りである。

  「それでは、後は頼みましたよ」

   灰色の巫女はそう言って笑うと、何処へともなく消えて行った。恐らく町へ帰ったのだ
  ろう。自分の町、断崖の国の首都へ。

  「ああっ! ちょっと待て! 俺もつれていっ……」

   ギゼーの制止の声など聞かずに、灰色の巫女は跡形もなく消え去った。それが魔法なの
  か何なのか、ギゼーには知る由も無かった。或いは、ジュリエッタならば知り得たかもし
  れない。タスナも何がしか解ったかもしれない。だが、ギゼーには魔法を身近で見た事な
  ど無かったので、消えて移動する魔法が本当に有るのかどうかなど知り得ないのだった。
   だが。事実消えて行ってしまった灰色の巫女を見て、自分も連れて行って欲しいと願っ
  たのは何も魔法を認知したからだけではなかった。少々臆病風に吹かれたせいも有った。

  「きっ、きーてないし……」

   肩をがっくり下げて、地に膝をつけうな垂れる。そのギゼーの肩をタスナが軽く叩く。

  「こんなところで呆然としていても始まらないさ。ともかく先へ進もう!」

   その頼もしいタスナの爽やかな笑顔に、勇気付けられるギゼーであった。


       ***********


   不気味な鳥の鳴き声に一瞬肝を冷やすギゼー。
   薄暗い森は果てしなく続いているかのようだった。目の前に聳える機織女の塔は一向に
  近付く気配を見せないし、そろそろ腹の虫が泣き出す頃だった。

  「腹、減ったなぁ」

   ギゼーがポツリと漏らす。その言葉を口にしてから、不意に何かを思い出したように不
  気味な笑みを顔に張り付かせた。そして、顔を明るくさせて言い放った。

  「フフフ。こんな時こそ、先刻[さっき]くすねておいた食べ物を……」
  「……くすねたんだ」

   ジュリエッタの冷ややかな視線が背中に痛い。嗚呼、こんな事でジュリアちゃんの、自分
  に対する心象を悪くするなんて。ギゼーは、ジュリエッタが最初から自分の事を何とも思っ
  ていないであろう事など念頭から外して、心に思った。しかし、そんな事に心を痛めてい
  る場合ではない。今は一刻も早く、食物を口にするべきである。
   思い直して、ギゼーは腰に下げてある鞄から食物を取り出してのたまった。

  「ジャーン! アイテムNo.999、鳥の腿肉〜!」

   高らかにアイテム名を宣言し、アイテム・鳥の腿肉を天高くかざした。何故か楽しそう
  である。
   それはからりと良い具合に揚がっていて、見るからに美味しそうな鳥の腿肉だった。それ
  にがぶりと景気よく噛り付くギゼー。それを冷ややかな視線で見詰めるジュリエッタと、
  不思議そうな視線を投げかけるタスナ。皮肉な事に、いきなりギゼーが鶏肉にかぶり付い
  たものだから一時休憩の形となってしまった一行。目指す機織女の塔はまだ先だと言うの
  に。

  「……こんな事で、大丈夫なのかなぁ」

   ポツリと漏らしたのは、タスナである。本当に不安そうに鳥の腿肉をひたすら食べ続け
  るギゼーを見詰める。それを何を勘違いしたのか、ギゼーは鳥肉をタスナの方に突き出す
  と親切心を露にした。

  「ん? 食べるか?」

   タスナは当然、首を横に振る。それには、否定の意味が込められていた。

  「ジュリアちゃんは〜?」

   徐にジュリエッタの方にも鳥肉を向けつつ振るギゼー。機嫌をとっているのが見え見え
  である。

  「私にそれを食せと?」

   ジュリエッタは、冷笑でギゼーの厚意をかわす。
   難攻不落な女だ。ギゼーはそう思った。思っただけで、心の奥に仕舞っておいたが。




   機織女の塔に辿り着いたのは、それから数時間経ってからだった。灰色の巫女に連れら
  れてやってきた時には東の空にあった月が、中天を割っていた。機織女の塔は荒れ果てて
  いて、どれだけ放置されていたのかが一目見て解るほどだった。外壁には蔦が生い茂り、
  所々煉瓦壁が崩れているところもある。上を見上げても、塔が何階建てなのか解らない。
  上の方は霞が掛かっていて、途中見えなくなっている。相当高いであろうことは間違いな
  いだろう。

  「さあて、気を取り直して、行ってみよう!」

   自己を奮い立たせるためか、心なしか声を張り上げて言うギゼー。声が震えているのは、
  恐いからだ。 





                                 とばり


   やっとのことで辿り着いたのは、奇妙と称する他に形容句が思い浮かばないような、そん
  な塔だった。
   基本的なフォルムは円柱であるが、どこかいびつでもあるように見える。無機質な建造
  物のはずなのに、どことなく有機質を前にしているような感覚を呼び起こさせるのは気の
  せいだろうか。
   こうして間近に立ってみれば、その異質さがよくわかる。どこか歪んだ空気を纏ってい
  る。タスナは暗い空へ吸い込まれていくような、《機織女の塔》のてっぺんを探すように
  見上げた。当然ながら下からではわからない―――ひどく高い。
   あの灰色の巫女は、この国がいまは常夜になっていると言う。だが、実際の感覚として
  夜が明けないというのは、普段日の光を浴びて生活している身にはひどく現実味のないこ
  とに思えた。

  「これって石かな。それにしちゃあなんか、変だけど」

   呟く声に目を向ければ、ギゼーが珍しげにぺたぺたと塔の表面に触れていた。興味を引
  かれて、タスナも近づいて触ってみる。
   そっけない灰色のその手触りは、確かに石に似ていた。しかしざらつきはあるものの、
  あの独特の冷たさがなく、代わりに妙に皮膚に吸いつくような違和感がある。
   その時ふと、置いたてのひらの影が、波紋のように震えたように見えた。ざわりと肌が
  粟立ち、思わず眉根を寄せる。

  「何だ、これ……生きてる?」

  「え? ああ。ちょっと、そんな感じかも」

   無意識のうちにこぼれてしまった感想に、ギゼーが驚いたように声を上げた後、嫌そう
  に顔をしかめた。彼は肩をすくめ、少し離れた場所で先ほどのタスナと同じように塔を見
  上げているジュリエッタを振り返る。

  「まあ何にせよ、コイツの中に入らなきゃな。行こう、ジュリアちゃん」

   呼びかけに、仰のいていたジュリエッタの首がギゼーに向けられる。わずかな間を挟み、
  そこで何らかの決定が下されたのか、小さく嘆息する気配を見せてから、無駄のない足取
  りで彼女は歩いてきた。
   入口は探すまでもなく、そこにあった。木製のように見える―――断言できないのは、
  塔そのものの材質さえ疑わしいからだ―――簡素な両開きの扉が設えてある。閂のような
  ものもなく、小さな把手がつけられているだけなので、おそらくはそのまま開くのだろう。

  「……最上階まで、か」

  「登るの骨折れそうだな。辿り着いたところでこんなもの、何をどうするのやら」

   ひとりごちるようなジュリエッタの言葉に呼応するように、ギゼーは荷物から件のガラ
  ス玉を取り出して、しげしげと眺めた。タスナを含め3人の視線が、ガラスの中で揺れる
  ともしびを見つめる。どんな仕掛けになっているのか、外側からではさっぱりわからない。

  「希望の炎ねえ……」

   ―――ろくに納得のいく説明もないまま、ここまで来てしまった。
   しかし、一方的に連れてこられたこの場所から、あてもなく抜け出すことは難しいだろ
  うと、全員がわかっていた。
   それならば唯一、灰色の巫女の指し示した目的―――《機織女の塔》を目指し、受け取っ
  た厄介なものを片づけてしまったほうが早いかもしれないと結論づけるのに、そう時間は
  かからなかった。
   いいように事を運ばれている気は、もちろんしている。だがタスナとしては、この件に
  関して多少なりともジュリエッタとギゼーに申し訳なく思っていた。灰色の巫女と自称す
  る少女を店へ入れたのは自分であり、2人を引き止めてしまったのも自分だ。
   彼女と彼が事態をどう受け止めているのかはわからないが、ここまで来たということは
  それなりに関わるつもりがあるのだろう。もしくは単になりゆき、ということもあるが。
   やっぱり、2人にはここで待っていてもらって、自分だけがこの中へ入るべきだろうか。
  あの少女は、誰か1人でも最上階へ辿り着けばいいと言っていた。

  「あのさ」

   すぐ傍にある扉に手をかけながら、タスナは顔だけ振り返った。隣でガラス玉を玩んで
  いたギゼー、わずかに首を傾けてこちらを見たジュリエッタに、1人で行く旨を伝えよう
  と口を開こうとする。

   その瞬間、右手にあった扉の感触が唐突に消失した。

  「――――――ッ!?」

   どぷり、と。
   まるで獲物を呑み込まんとする、獣のあぎとのように。一瞬姿勢を崩した体を、漏れ出
  でた闇が爆発するような早さで膨張して包み込み、意識も何もかもを引きずり込んだ。

   2度目の暗転。ギゼーか、ジュリエッタか、誰かしらの声が聞こえたようにも思えたの
  だが。
   それを理解する間もなく、タスナの知覚していた世界は、黒に覆われて沈んでいった。





  -- -- -- -- -- -- -- -- 





  「いっ……て……」

   呻く。それが、自分の声だと自覚するのにしばらく時間がかかった。
   硬い場所に打ちつけたように痛む全身と、急激な覚醒に悲鳴を上げているこめかみが煩
  わしい。細く息を吐き出しながら目を開けば、暗く静かな室内が視界に飛び込んでくる。
   タスナは慎重に体を起こし、服の埃を軽く払いながら立ち上がった。明かりのない空間。
  何も置かれていない広々とした床。端の方には、飾り気のない角張った階段が、壁に添う
  ように伸びていた。下の方にも続いているところを見ると、1階ではないのか。

  「……塔の、中、か?」

   口にしながら、確信する。《機織女の塔》の外側から感じていた異質さ、奇妙さがいよ
  いよ肌に纏いついていた。
   どうやら、無理矢理に引っ張り込まれたらしい。何によってかは知らないが。
   首を巡らせても、ジュリエッタとギゼーの姿は見当たらない。図らずしも1人、という
  ことだろうか。めまぐるしく変化した光景にまだくらくらしている頭を抱え、タスナは小
  さく急き込んだ。埃っぽい。

  「でもしまったな……あのガラス玉、ギゼーさんが持ってるんだ」

   会話の中で漏れ聞いた名前を口にのぼらせ、まいったな、と呟く。そういえば、2人に
  自己紹介もしていなかった。それどころではなかったと言えばそれまでだが。
   周囲を見渡していると、やや上方に小さな窓があいているのに気づいた。そこからわず
  かではあるが月の光が差し込んでいる。暗闇でも支障のない目を持ってはいるが、やはり
  明かりがあるのに越したことはない。
   とにかく、希望の炎だと手渡されていた、あの炎を閉じこめたガラス玉がなければ、最上
  階へ向かったところで何の意味もないような気がする。
   どうにかしてギゼーたちと合流しなければならないだろう―――しかし、どうやって?

  「…………」

   少し考えてから、タスナは上に続く長い階段を半ばほどまで登った。床からはかなりの
  高さで、左側の壁沿いの向こうには、小さな窓がある。
   せめて、外とつながりが持てれば。
   深く腰を落とすと、膝に重心を込めて伸び上がり、階段を蹴りつけた。大の大人が十人
  程度、両手を広げたくらいの距離はある小窓へ、左手で引っかけるように飛びつく。
   前方に大きく揺れた体を、右手も加えることで押さえ込んだ。窓といっても、ただ四角
  く穴が開いているだけのものだ。そこへ肩をねじ込むようにして押し入れ、身を乗り出し
  た。

   そして、絶句する。

   多い茂る木々が、はるか下方でざわめいていた。
   風が鋭くうなりを上げ、タスナの銀髪を強くかき撫でていく。ごくりと、喉が鳴る。おそ
  るおそる上を見上げてみると、月が―――空が、近い。
   そして何より、てっぺんが見えていた。
   まさか。そんな思いが、叫びとして喉をつきそうになる。乾いた唇を舐め、タスナはか
  すれた声で小さく呟いた。

  「まさか…………この上、最上階?」

   答えてくれる者は、いなかった。 





                             小林悠輝


  「……さて、どうしようか」

   しばしの沈黙の後、振り向いて言ったギゼーはいっそ清々しい表情をしていた。取り返
  しがつかなくなっただとか、何が起きたのかわからないだとか、そういったものをすべて
  納得して、ただし解決は放棄して、開き直った爽やかさだ。ジュリエッタは無表情で――
  やや引きつり気味の無表情で――彼を見つめ、それから塔を見上げた。

  「のぼる? 帰る?」

  「あいつ放置するワケにいかないだろ」

   それもそうだ。帰る方法もわからないし。
   通常の移動方法ではなかったが、単なる移動魔法とも違うようだった。ここは空気が異
  質だ。風はまったくなく、木々はただ静寂の底に沈んで周囲は無音。生き物の気配も感じ
  られない。いや、潜んでいるのならば、感知できないが。

  「気味が悪い」

   何か――静まり返った町の中を歩いていたら、いつのまにか周囲のすべてが粘土細工に
  変わってたような違和感、だ。もちろん足元の地面も、森も、本物に見えるけれど。
   空は夜というには明るく、昼というには暗かった。ほのかに発光するベルベットを敷き
  詰めたような色。星は見えない。うっすらと雲が出ている。
   視線をギゼーに戻すと、彼はやたら力強くうなずいた。

  「怖いなら俺を頼っていいぜ!」

  「じゃあ、偵察と危険探知排除と全部よろしく」

  「……」

  「……」

   明らかに不毛な見詰め合い。
   ギゼーがなんとも言えない表情になったので、ジュリエッタはため息をついた。彼を見
  上げて、呟く。

  「……頼りにしてる」

  「任せとけ!」

   まさか今の一言が欲しかったというわけでもあるまいが、というよりもギリギリの妥協
  点から更に妥協させた感じがあるが、ギゼーはうなずいた。

  「とりあえず中に入るところからだな」

   彼は扉に手をかけて。
   ――その姿が消えた。ジュリエッタは頭をかかえたくなった。扉は扉の役割を果たして
  いるようだが、物理的に開くようにはできていないらしい。
   ギゼーとタスナは合流できただろうか。タスナと、ギゼーと、扉に吸い込まれたときの
  様子が違っていたのが気がかりだが。
   別々のところに飛ばされてしまうのなら厄介だ……まぁ、いいか。ジュリエッタは扉の
  表面に触れた。粘質の水に引きずり込まれるような感覚。

   反射的に閉じた目を開くと、そこは薄暗い空間だった。
   ギゼーがものめずらしげに周囲を見渡している。
   分厚い埃が絨毯のように積もってる。あまり広くはないが、天井が高い。何階も上まで
  吹き抜けになっているらしい。頭上から一条の光が差し込んで、それが視界を助けている
  ようだった。空気も埃っぽくてジュリアは咳をした。
   背後を振り返ると外で見たのとおなじだろう扉があった。正常に動作したらしい。ここ
  から外へ戻れるのか試そうと思ったが、面倒だったから、やめた。今すぐに外へ出る必要
  はない。後で慌てればいいのだ。手遅れになったら? 後で後悔すればいいのだ。

  「……たとえばここが薄墨の領域であるとして、更なる光を否定する則はあるまい?」

   呪文を呟き、手を翳す。周囲の空気が、ごくわずかな光を発した。
   ギゼーが「サンキュー」と言ってきたので適当に片手を上げて応える。
   彼はしばらくがさごそと周囲をあさり、服や顔や手に少し埃をつけて戻ってきた。

  「怪しい場所は、ないな」

  「あいつは?」

  「いない」

  「上か」

  「だろうなぁ…」

   階段は古い板でできていた。体重のかけ方を間違えたら踏み抜いてしまいそうなそれが、
  なんともいえない不吉さを漂わせて待ち構えている。
   ……だからといって、登らないわけにはいかないのだが。ため息をついて、階段へ。先行
  したギゼーが「この段は踏まないように」とか言ってくれたのに従いながら、ぎし、ぎし、
  と軋む板を登っていく。二階へはすぐについた。二階は中央が吹き抜けになっている以外
  は何もない、がらんとした空間だった。吹き抜けの周りには手すりもない。
   なんとなく、穴の近くを歩いたら吸い込まれそうな気がしてできるだけ壁際を歩いて、
  次の階段へ向かう。それを何度も繰り返し、おなじつくりの階を何度も通り過ぎ――

  「なぁ、ジュリアちゃん。
   だんだん広くなってない?」

   言いながらも彼は立ち止まらない。壁際を歩いて、しかし壁も気味が悪いので触れない
  ように気をつけながら、進み続ける。ジュリアは無言でうなずいてから、先を行く彼には
  それでは見えないことに気がついた。

  「……外から見たときはどうだったっけ?」

  「普通じゃない塔だった」

  「じゃあ仕方ないな」

   ギゼーの空笑いで会話が止まる。上へ、上へ。
   やがて吹き抜けの最上階にたどり着いた。階段が床とおなじ材質に変わる。壁とはわず
  かに色が違うようだが、気味が悪いことには変わりない。更に登ると、次の階には、あた
  りまえのことだが吹き抜けはなく、だだっ広い空間がある。
   だが、特に変わったところは……

  「誰かここにいたな」

   ギゼーが言った。ジュリエッタは彼に疑問の目を向ける。
   彼は壁際の一点を指さして、

  「あそこ、埃を散らかしたあとがある」

   埃そのものが階下よりもずっと少ないせいで判別がつかないが、彼がそう言うからには
  そうなのかも知れない。
   見上げると、高いところに窓がある。壁に沿うように登り階段が続いている。

  「“誰か”なの? “何か”ではなく」

  「……“誰か”の方がいいじゃないか。タスナかも」

   タスナ? ――ああ、あの書店の店長だ。
   やっぱり人の名前を覚えるのは苦手だ。覚えたつもりでもすぐに忘れてしまう。最低限
  の人付き合いに支障を来たすのも面倒だから、覚えようとは思っているのだが……思って
  いるだけでは駄目なようだ。
   何も考えずに返事をしようとした、とき。
   ――ひどい違和感があった。何がおかしいのかわからない。だが騙し絵を見せられてい
  るような気分だ。落ち着いて見れば見るほどわからなくなる。悪寒。危険。何が?
   月の光。ほんのりと光る周囲の空気。

  「ジュリアちゃん!」

   いきなりギゼーに腕を引かれた。抱き寄せられる。思わず彼の鳩尾に肘を叩き込んでか
  ら、ジュリアは、ようやく、違和感の正体に気づいた。床に、薄い影がいくつも落ちてい
  る。限りなく透明に近いガラスがそこに置いてあるように。

  「……影?」



       ―――断崖の王国では、影は放っておくとその影の持ち主を襲いますから、そう
  ならないように、国民は八つの誕生日に影を切り取り、山椒を蒔いて追い払います。
   影は光に当たると消えてしまいますが、夜のうちに≪機織女の塔≫にたどり着いた影が
  塔の中の闇に潜んで生き延びていたようなのです―――



   ずる。生理的な嫌悪感を煽るような音を立てて、何かが足首に絡みついた。見下ろす。
  スカートの影になっていて見えない。これだからこの格好は……

  「なんだ、これ!?」

   ギゼーが声を上げた。足元から黒い何かがわき上がる。
   深呼吸。声が震えないように。その心配は恐らくほとんどなかっただろうが。灰色の巫
  女は解決法も教えてくれている。光を灯せばいい。魔法を使うか、それともギゼーが、あの
  ガラス玉を取り出すか。とても簡単なこと。
   息を吐くついでのように、呟く。

  「……この断崖の王国とやらでは、影は人を襲うのだそうだ」

   その直後、遥か上からタスナの声が聞こえた気がした。 





                                葉月瞬


  「ギゼーさーん! ジュリエッタさーん! 扉には気を付けるんだー!」

   階段の遥か上の方でタスナの呼び声が響く。天井を突き抜けて聞こえてくるその声を聞
  くに、恐らくタスナはギゼー達が直ぐ下の階まで来ている事など知らないのだろう。大き
  な声を張り上げて塔の下の方にまだいるであろう二人に必死で呼びかけている。
   その声に気を取られている間にも、影達は足に絡み付いてくる。まるで粘液性の物質の
  如く、絡みついたそれはねっとりと足を這い上がり体の上へ上へと昇っていく。ギゼー
  達を体ごと影の海の中に呑み込もうとしているかの如く。どろりとした感触に、ギゼー
  は思わず声を上げる。

  「うわっ!?」
  「……光だ」

   驚きを隠そうともしないギゼーに対して、ジュリエッタは冷静な声音で呟いた。このよ
  うな状況下に陥りながらも冷静で居られるのは、寧ろ立派だとギゼーは思った。同時に可
  愛げが無い人だ、とも。影達に恐れ戦きながら抱き付いてくるジュリエッタを期待してい
  たギゼーであった。
   彼女の呟いた言葉に何の事だと訝しんでいたら、突如辺りが眩い光で包まれた。ジュリ
  エッタが魔力で作った光が、光度を増したのだ。周囲が明るくなった事で、影達はその威
  力を急速に失くしていく。光に当てられた影達は、もがき、苦しみながら消失していく。
  何も無い中空を掻きながら消えていくその様は、圧巻だ。
   呆気に取られ目の前で起こっている光景を、目を細めながら見入っているギゼーに先を
  促す声が掛けられる。当然の事ながらジュリエッタの声だ。

  「ギ……おい、上に行くぞ」

   情け容赦ないと、ギゼーは思った。自分は先程の眩い光で目が眩んでいるのだ。歩く事
  もままならない状態で階段を上れというのか。
   ジュリエッタ本人は、既に階段の上に身を置いていた。手摺に身を預け、ギゼーに向かっ
  て声を掛けたのだ。勿論、階段を上った先にタスナが居る事は明白だった。早い所タスナ
  と合流して、希望の炎を灯さないと帰るに帰れない。それは解ってはいるのだが……。

  「ジュリアちゃん。ちょっと、待ってよ。俺、今目が眩んで……」
  「置いてくぞ」

   あんたは鬼か。一瞬ギゼーの頭に過ぎった言葉だが、ギゼーは全力で否定した。
   ジュリアちゃんに限って、そんな、鬼だなんて。一瞬でもそんな事を考えてしまった自
  分を疑った。
   何故か頭を抱えるギゼーを尻目に、ジュリエッタはそそくさと階段を上っていく。
   黒いドレスの裾がはためいて、丸みを帯びた石壁の向こうに消えた。
   早く後を追わなければ。焦れば焦るほど、足元が覚束なくなる。ギゼーはやっとの思い
  で階段の手摺にしがみ付いた。白かった視界が徐々にだが、色を取り戻してくる。やっと
  の思いで取り戻した視界だが、目の間に広がっていたのはただの暗闇だった。当然だ。光源
  を有しているジュリエッタは先に上に上がって行ってしまったのだから。ギゼーは先程の
  光景が蘇ってきて恐怖を覚え、それを振り払うかのように大きく息を吐いた。上を見遣る。
  階段は石壁の向こうに続いている。石壁は粘液性の何かで出来ているが如く、ねっとりと
  手に吸い付いてくる。気持ち悪いと思いながらも、石壁に手を付いて一段一段確かめなが
  ら階段を上っていくギゼー。
   この階段を上った先に何があるかわからない。不意に不安を覚えるギゼー。先に上った
  二人がもし先程の影達に飲み込まれていたら……。ギゼーは思わず生唾を飲み込んだ。
   灰色の巫女が言うには、影達は影を持つものの影に入り込むという。そして影を乗っ取っ
  てしまうのだそうだ。当然その影に繋がっている影の持ち主も……。もし二人が影達に乗っ
  取られていたらどうしよう。そんな不吉な想像が頭を過ぎる。そして、自分自身も例外で
  はないのだ。もし、影達に今襲われたら自分では対処できない。それだけははっきりとし
  た事実である。ギゼーは独りでいることに、心細さを感じつつあった。

  「だけど、光源がなきゃ影だって生まれないんだよな」

   自分の影が生まれなきゃ、影達に乗っ取られる事は無い。その事を確かめるかのように、
  口に出して言うギゼー。だが、光源がなければ影達を追い払う事も出来ないのだ。その事
  実に目を背けるかのごとく、思考を停止して足を速めるギゼー。空気がねとつく様に感じ
  るのは気のせいだろうか。
   程なくして目の前が明るくなってきた。
   光源を持つジュリエッタに追いついたのだ。

  「ジュ、ジュリアちゃん。もう少し、ゆっくり歩けない?」

   思わず弱音がこぼれるギゼー。急な螺旋階段を半分駆け上ったものだから息も絶え絶え
  だ。

  「……弱いな」

   ギゼーには何故かジュリエッタが自分をせせら笑っている様に見えた。後姿だが。




   二人は光源を伴って階段をひたすら上へと上った。

  「いつまで続くんだ? この階段」
  「終わりだ」

   ギゼーが疲れ果てて呟くと、ジュリエッタが上を見ながら答えるように言った。
   見ると、階段の行き着く先に石壁の天井が四角く切り取られたように口を開けていた。
  その向こうにはビロードの幕が広がっている。

  「出口か!」
  「屋上へのな」

   どうやらそこは塔の最上階――屋上の様だった。
   屋上にはタスナが居るはずだ。先程の声はここから聞こえて来たのだから。

  「良かった。二人とも無事だったんだな」

   屋上に上りきるとまず最初に出迎えてくれたのは、タスナの安堵の声だった。
   ギゼーの危惧もそっちのけで、タスナは影達に操られること無くそこに居た。
   ギゼーが奇妙な顔をしてジュリエッタの後ろに立っているのに気付いたタスナが、声を
  掛けて来る。

  「ギゼーさん、どうしたんだ? そんな顔して」

   タスナが影達に乗っ取られていない事に疑問を禁じ得ないギゼー。何故、どうしてタス
  ナは影達に襲われなかったのだろう。それが表情に表れてしまったのだろう、タスナが不
  思議そうに覗き込んでくる。
   ジュリエッタはそんなギゼーやタスナの様子にお構い無しに、一所を指差して言った。

  「見ろ。台座だ」

   恐らくはその台座に灰色の巫女から渡された硝子玉を乗せるのだろう。それは、灯台の
  ミニチュアのような形をしていた。緑青のふいた銅の細い棒の上に側面に穴が開いた四角
  い箱が付いている。それはまるで飾り灯篭の様でもあり、洒落たワイングラスの様でもあっ
  た。上に蓋は付いておらず、上に向かって開いている。硝子玉を入れるには丁度良い大き
  さである。

  「あそこに、これを入れるのか……」

   ギゼーは今まで大事に仕舞っておいた硝子玉を取り出して呟いた。 





                                 とばり         


   これでお役ご免か。ギゼーがゆっくりと、ガラス玉を握った手を台座に差し伸ばすのを、
  タスナは黙って見ていた。危ない場面も少々あったが、これでグラシーウィに怒られなく
  ても済みそうだ。無事に帰れるかもわからないこの状況で、風に髪を乱されながら、呑気
  にもそんなことを考える。丸のなかでゆらめく炎が、何かに反応するように震えた。
   ガラスの内でも、風は吹いているのだろうか。

  「―――置いたぞ」

   きちんとガラス玉を収めると、慎重に手を離してギゼーが囁いた。何だかんだで、彼に
  役目を引き受けてもらってしまった。ギゼーはジュリエッタとタスナが立つ場所まで引き
  返し、2人と同じように台座をじっと見つめる。
   そのまま、どことなく張りつめた空気が流れ―――

   やがて台座からは、女の手が這い出してきた。

  「!?」

   肘から下だけの、白い腕。細くなよやかな指、桜色の爪―――そこまで見て取れるのに、
  どこかそれは現実味を欠いていた。たとえるなら、光に落としだされた幻影とでも言うべ
  きか。
   それはみるみるうちに、2本、3本と本数を増やし、やがて台座を抱きしめるようにし
  て絡みあい、銅の面をすっかり覆っていってしまった。
   ―――さながらそれは、醜悪なオブジェのよう。

  「……何だ、ありゃ……!」

  「あれも影―――?」

   気味悪そうにギゼーが呻き、ジュリエッタは目を細めて「それ」を見つめる。タスナは
  ふいに、この塔に感じていた違和感が強くなったような気がして、思わずこめかみに手を
  やった。
   遠い耳鳴りにも似た不快感が、じわじわと侵食してくる。背筋に寒気が忍び寄る。

  「これは……」

   異変は、他の2人にも伝わったようだ。ざわりと、空気そのものが揺れた気がした。台座
  を凝視していたジュリエッタが、ふいに足元に視線を落とした。―――足元?
   タスナはのっぺりとした地面を見渡すが、どこにも何もない。見えないのだろうか。しか
  し感覚にも引っかからない。
   もしかしたら、これからなのかと―――すべてを研ぎ澄ませ、警戒を強めたところで、
  ぐ、と右足を膝ごと引っ張られた。
   ぎょっとする。
   影だ。
   頭ではなく、体がそれを拒否した。一気に不快感の主は手足の先まで広がりきり、逃れ
  ようと振った顔までをも搦め捕った。

  「タスナ!」

   ギゼーの声が聞こえる。どこに、と思う間もなく、上半身を覆っていた黒いものが弾け
  飛ぶ。 

   光―――恋しいまでに眩しく輝く光が、両の眼を射る。

   その光源を探して目をさまよわせると、ギゼーとジュリエッタが意外なほど近くに立っ
  ていた。
   ジュリエッタは、手に光球を無造作に湛えている。これがそうか、と目をこすりながら
  思った。魔法によるものだろうか。タスナ自身も使えないことはなかったが、あんなふう
  に長時間、形を留めていられる自身はまったくなかった。

  「……どうも」

   しかし―――光が、影を消す。そう。それは当たり前なのだ。タスナ妙に納得した気分
  で、彼女に礼を言った。
   しかしジュリエッタは、それよりも早く周囲を見渡していて、「きりがないな」と呟い
  た。見れば確かに、影は―――そう呼ぶのを躊躇うほどの大きさ、いや広さになって、塔を
  這い上がるように昇ってきている。
   胸の悪くなるような光景だった。

  「まさかとは思うんだけど」

   ジュリエッタの持つ光源が届く範囲で、ギゼーが荷物を下ろして松明に明かりを灯して
  いた。いっそう強みを増した光に、水に溶けた布のように広がっていた影が、ざわざわと
  恐れおののいているようだ。

  「あれって、罠?」

   白い手に覆われた、何だかわからない塊のようになっている台座を指さして、彼は引き
  つった笑いを浮かべた。
   あの塊の中には、希望の炎が閉じこめられている。台座に炎の込められたガラス玉を置
  いてなお、影があらわれるというのは―――

  「……うーん」

  「そうかもな」

  「しかも、……ジュリアちゃん。影が一層厄介になってるような……」

  「……そうかもな」

   2度目のジュリエッタの返事は、同じでありながら微妙に重い。
   タスナは今更ながらに気づく。取り囲まれているのだ。光で屋上すべてを照らすのには
  限界がある。必ずどこかには、影ができてしまう。そこにタスナたちがいる限り、続くの
  だ。

  「あれを……取り返さないと」

   ほとんど独り言のように、タスナは呟いた。もし、すべての影を消すことができる光が
  あるとしたら。それはきっと、わずかなりとも希望という名の、ともしびに違いない。

  「でも、どうやって?」

  「…………」

   至極もっともに応えるギゼーに、返す言葉を見つけられず、タスナは押し黙った。
   できればあんなものに、触りたくはないが。

  「どうにかして、あの手を―――」

  「引き剥がす?」

   ジュリエッタが言葉じりを捕らえる。タスナは頷いて、じっと白い手の絡みつく台座を
  見つめた。





                               小林悠輝


   引き剥がす、ということは、つまり。

   単純に考えれば力ずくでということになるのだろう。そんな野蛮な手段はまったくもっ
  てジュリエッタの得意とするところではないが、幸い、ここには健康そうな成年男子が二
  人もいる。
   ならば問題ない、と楽観的に考えようとしたが、どうにも不安は拭えなかった。

   とはいえ他の方法を思いつくかといえば――あの気味の悪い腕が台座の周りからなくな
  ればいいというだけならいくらでもある。問題は、それを実行した場合、台座も原型を留
  めなくなる可能性があるということ。

   ようするに、腕力ではなくて魔力による力づくということなのだが、どちらにしろゴリ
  押しには違いない。だとしたら穏便な方法を先に選ぶべきだ。
   ジュリアはそんなことを考えると、なんの悪びれもなく、ギゼーとタスナの二人に言い
  放った。

  「がんばれ!」

  「ええー?」

   ギゼーが不満そうな声を上げたのは恐らく反射的な反応だったのだろう。
   彼は一瞬だけ、しまった、というような表情をして、「女性にあんなものを触らせるの
  はよくないよな、うん」と自分に言い聞かせるように頷いた。

   やる気になってくれたようで非常にありがたい。
   断崖の国がずっと夜のままだろうが別に興味はないが、この状況をなんとかしなければ
  帰れないというのなら、なんとしてでも解決しなければならないのだ。
   そうでなければ、誰かがやる気をなくした時点でぞろぞろと解散だが。

  「でも、気色悪いぜ?」

  「……確かにあまり触りたくは……」

   まったくもって同意見だ。気色悪い云々はともかくとして、明らかに魔法とかそういっ
  たものの類であろう腕に直接触るのは危険かも知れない。もちろん、そんな可能性を考え
  始めたらキリがないわけではあるが――

   塔の外壁を這い上がってくる影が、縁で光に掻き消されて空に溶けていく。
   周囲で途切れることなく続いている音のない攻防も焦燥感を煽る。どうしたものか。

   いつか夜が明けるのであれば朝日が差すまでここで膠着状態を保っていればいい。
   しかし、その朝は待っているだけでは訪れないわけで、つまり、なんとか希望の炎を灯
  す以外の解決法はないということだ。

   面倒臭さに絶望しそうになっていると、ギゼーが何かを取り出して、きょろきょろと周
  囲を見渡しはじめた。それを見たタスナが問う。

  「何をしてるんだ?」

  「石が落ちてないかなぁと」

  「…石?」

  「そう、石」

   ギゼーは手に持ったものを軽く掲げて見せた。
   掌に隠れてしまうような小さな筒で、太さは人差し指ほどか。
   材質は鉄のようだが、表面に、ほとんどはがれているが、プリズム模様のシールのよう
  なものが付着している。

   安っぽい万華鏡のようだ、というのがジュリエッタの素直な感想だった。
   それは? という二人の視線を受けて、彼は簡潔極まりなく説明した。

  「遺跡で発見した道具」

  「武器ぃ?」

   悠長に話している時間があるのかとふと気になって台座を見たが、腕は相変わらず台座
  に纏わりついているだけで、さっきから動いた様子はなかった。このままシカトしていて
  も大丈夫そうだ。
   念のために光をもう一つ浮かべて、その眩しさに自分で目を細める。

  「強い光を出す道具だ」

   正直に言えば、また光か、と思った。
   だが、何か考えがあるのだったら、この際なんでもいいから試してみてもらおう。

  「で、石となんの関係が?」

  「石を入れると光が出るんだよ」

   言って、彼は足元から手ごろな大きさの石を拾い上げた。ひび割れて欠けた塔の一部ら
  しい。
   ギゼーはそれを無雑作な手つきで筒に放り込み、それの先端を台座に向けた。入れたは
  ずの石は転げ落ちないどころが、筒の内側に当たる音すら立てなかった。

  「それで、このボタンを押すとだな」

   ぽちりと軽い音がすると同時に、網膜を灼くような閃光が迸った。
   いきなりのことで目を庇う暇もない。小さく声を上げて顔の前に手を翳したが、数秒の
  間を空けて再び目を開くと、視界は、ちかちかと意味不明な残像に覆われていた。

  「ギゼー!」

  「このくらいの光をまともにブチ当てれば、消えるんじゃないか?」

  「……まさか」

   だが、影は光で消えるものだ。光が強ければ強いほど。
   細めた目で見遣った台座は相変わらず白い腕に絡みつかれていた。
   影は光で消えるものだ。では、あれは――

  「影じゃ、ない……?」

   呟いたのはタスナだった。
   自分以外が声に出してくれたことで、ジュリエッタは遅まきながらもそれを確信した。
  あの白い手は影ではない。今まで襲ってきたのが影だったから、おなじものだと思い込ん
  でいたらしい。
   だが冷静になればすぐに気づく間違いだった。

   だって、白い影なんてあるはずないんだから。


   ――ぴしり。


   白い腕の間から、小さな高い音が聞こえた。
   それが何を意味するのかを三人が理解するより早く、ぱりんとガラスの割れる音が響き、
  白い腕が燃え上がった。





                                葉月瞬


   白い腕の束が粉々に砕け散り、そこから光の束が四方八方を照らし出した。
   白い腕は鍵だったのだ。
   希望の炎を灯すための、鍵。
   影達はなりを潜め、周囲に光が満ちる。
   一瞬朝日が昇ったかのように見えた。だが、実際にはまだ夜は明けていなかった。
   玉から発光していた光は急速に収束していき、一筋の光の柱となる。光の柱は天を貫き、
  この断崖の国を覆っていた漆黒の天蓋を吹き飛ばした。ビロードの天蓋は光の柱の周りだ
  け穴が開くように丸く輪を描いていた。その円形からは青空が見えている。丁度雲が散ら
  されたようにその青空だけがくっきりと浮かび上がっていた。そして、光の柱が急速に萎
  んでいくと、漆黒の天蓋は再び口を閉じていく。ゆっくりと。

  「こっ、これでいいんだよな」

   誰からとも無くそんな言葉が飛び出した。ギゼーだったかもしれない。タスナだったか
  も。ともかく女性の声でないことだけは確かだ。

  「あ、ああ。これでいいはずだ」

  「……」

   なにやら動揺している男共と違って、ジュリエッタは冷静に状況を判断しようとしてい
  た。その両の目にはいつの間に取り出したのか、サングラスが掛かっている。
   二人の男達は余りの眩しさのため、目が眩んでいた。
   ジュリエッタは光の柱が消える瞬間、最後に残った白い二本の腕が天空を掴むように夜
  空に伸ばしたかと思うとそのまま掻き消えるところを目撃していた。そうして、希望の炎
  は鎮まった。
   影は――無くなっていた。正確に言うと、先程の光の柱の出現で影達は塔の中に逃げ込
  んだのである。
   ギゼーとタスナとジュリエッタが見守る中、静かに東の地平線が暁色に染められていく。
  静かに夜は明けていく。まるで今までの事は無かったかのように。いつものように夜明け
  が来る。今まで明けない夜が続いた断崖の国に、何年かぶりの朝日が国中を照らし出した。
  それはどこか幻想的で、静謐に満たされていた。
   こうして終わるはずのない夜に、優しい夜明けがやってきた。
   断崖の国に光が満ちるのを三者三様、感慨深げに見遣っていると、何処からとも無く女
  性の声が聞こえて来た。

  「嗚呼。あなたちならば、きっと私の望みを果たしてくれると思っていました」

   その声はどこか聞いた事のあるような声音で、静かに語りだした。

  「私はあなた方を信じていました。ええ、心より。だから私は、あなた方を選んだのです。
  信託で与えられた、というのもありましたが私は信託が降されずともあなた方を一目見た
  時から信じるに値する人物だと思っておりました」

   そして、何処からとも無く何処かで見た事のある人物が突如として出現した。
   その人物は、あの灰の巫女であった。
   たゆたう灰色の髪が美しく、長い睫毛が印象的な、巫女。そして、灰色の簡素な衣服を
  纏った美しい少女――。タスナ、ジュリエッタ、ギゼーの三人をこのような辺鄙な土地に
  飛ばした張本人が、今目の前に居る。自ら進んで出現したのだ。例の移動魔法で。
   彼女は潤みを帯びたその真摯な瞳で、三人を射抜いていた。瞳を逸らさずに、そのまま
  続ける。

  「あなた方は、使命を果たしたのです」

   厳かにその言葉は機織女の塔に響いた。
   まるで、その言葉が合図だったかのように今までゆっくりと昇っていた太陽が速度を速
  めるように天空を駆け上って行った。それと同時に、機織女の塔に陽が差し込み日陰の部
  分が緩やかに後退していく。周囲の温度が上がって、暖かくなったような気がする。
   灰の巫女の目尻に、朝露の如くきらりと光ったものは幻か。
   彼女は感慨深げにのたまった。

  「これで漸く、この国にも朝が来ました。朝が来て、夜が来て、また朝が来る。この当た
  り前な時間の経過がこれからも訪れることが出来ます。ありがとうございます。これも全
  て、あなた方の――」

  「御託は良いから、とっとと此処から元の町に戻せ」

   ジュリエッタは灰の巫女の感慨深げな言葉を畳み掛けるように粗暴に言った。当然とい
  えば当然の要求だった。そもそも此処に連れて来られたのだって、無理やり過ぎたのだか
  ら。ギゼーは一人ただ頷いているだけだった。

  「わかりました。あなた方の祖国に送り返しましょう」

  (国じゃないんだけどな)

   誰彼構わず思ったが、思っただけで皆口を噤んでいた。
   とりあえず、帰れる事になっただけで嬉しかった。

  「それでは、また会える機会がありましたら会いましょう」

   もう二度と会いたくないと三者三様に心に刻んだ。
   長い呪文が羅列を組んで一時流れたかと思うと、周囲の風景が歪み、ぼやけ、やがて消
  えていった。灰の巫女と共に――。



   そして、ゆっくりと周囲の風景が像を形成してやがて見慣れた街頭が現れた。
   移動魔法を唱える際、少し座標がずれたようでそこはタスナの経営している本屋の外だっ
  た。
   三人とも店先で呆けていると、突然声が掛けられた。

  「あ、店長! こんなところで何やってんですか! まったくもう! 急にお店を空ける
  んだから!」

   見るとタスナの本屋で働いている、グラシーウィという名のエルフの少女だった。深緑
  色の髪と琥珀色の瞳に睨まれて、タスナは何故かほっと胸を撫で下ろしたように吐息を漏
  らす。

  「あ、ああ。ごめん、ごめん。悪かった。それよりお客さんだよ」

  「え? あ、そうですね。お客さん、何か本でもお探しですか?」

   グラシーウィのにこやかな営業スマイルに圧倒されるように、ジュリエッタとギゼー
  は反射的に本の名前を挙げた。

  「あ、ああ。“毒薬と暗殺の歴史”という本を探しているのだが――」

  「ああ、“ある冒険家の日常”を探して――」

   二人が声を上げたのはほぼ同時だった。

   こうして、三人にとって三者三様の正常な日常が戻って来たのだった――。

    fin.