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                                          千鳥


       砂漠に、黄色い風が吹いた。
      紅く染まった砂丘が、見る見るうちに、褐色を帯び、
     遠くにあった青緑色の丘が消えた。
    ここは、色のついた風が吹く、不思議な砂漠――――。

   ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

   涙の跡に、砂がはり付いて、僕はあわててぬぐった。
   ぬぐった砂も、僕を乗せる白象もいつのまにか黄色く染まっている。

  「海を見たことはあるかい、ロッシ?」

   口を開けば、きっと鼻声で、泣いていたことがバレてしまうから、僕は背中越しに問い
  かけてきた乾いた声に、大きく首を縦に振って答えた。

  「私にとっては、ここが……海だ」

   青く、澄んだ海原 ――――― 草木も枯れ果てた乾いた砂原
   潮の香りを含んだ風 ――――― 絶えず体に吹き付けてくる砂嵐
   波の音の変わりに、ヒュウヒュウと砂を巻き上げる高い音がした。

   海の見える港町に住んでいた僕は、どうしてこんな遠い場所につれてこられてしまった
  んだろう。

   だぼだぼの白い貫頭衣の中に、砂が入り込んで居心地が悪い。
   強い日差しが肌を焼き、僕の肌は赤く火照っていた。
   父さんや、母さんや、妹のジェニーが恋しくて、僕の目から、再び涙が出てくる。

  「いくら泣いても、お前の涙が水溜りを作るより早く、体のほうが干からびちまうよ。
  ……私のようにね」

   姿勢良く象を操っていた主が、くるりと後ろを振り向いた。
   黒いフードの奥のには、水分の抜け切った浅黒い皮膚が張りついている。
   窪んだ眼孔が、僕を見下ろして・・・その姿はまるでミイラのよう!
 
  「僕は、この砂漠から出られるの?」

   僕の家に戻れるの?
   スンと鼻を鳴らしながら、僕は彼を見上げた。
   細い足首には未だ、太く赤い鎖の痕が残っている。
   足枷、奴隷の証。
   海賊船に捕まって、こんな砂漠に連れてこられた僕。
   しかし、人買いの男たちも、もう居ない。
   皆、砂の中に飲み込まれていったのだ。
   砂の中には、地上の生物を飲み込んでしまう、恐ろしい生き物が住んでいるのだという
  ――蟻地獄だ。
   こんな砂漠で野垂れ死ぬなんて、僕はなんて運が悪いんだろう。 

  「お前は運が良いよ。私に出会えたのだから」

   彼が言って、青い、風が吹いた。
   同じ色に染まった象が、喜びの声を上げた。

  「あそこを見てごらん。鳥が集まっている。あそこにオアシスが出来るぞ」

   青く凝(こご)った一帯から、みるみるうちに水が湧き出し、草木が生い茂る。 
   見たこともない光景に、僕はただ、阿呆のように口を開いていた。


   この砂漠の砂はそれぞれ比重が違うのだという。
   風の強さや、方角で、巻き上げられる砂が変わる。
   それが、それぞれ集まったり、混ざったりして、この砂漠の色を作るのだそうだ。

  「その砂を読み解くのが、我々の役目・・・」

   僕をピンチしから救い出した、黒いマントの男は、皺だらけの手で力強く、白かったり、
  黄色かったり、青かったりする象の手綱をひいた。
   死神なのか、砂漠で果てた亡者なのか、それとも守護天使様の使いなのか。

   彼と僕の砂漠の旅は、まだ始まったばかりだった。 





                                小林悠輝


  「休憩だよ、ロッシ」

   彼は僕を象からおろすと、フードを目深にひきながら手綱を引っ張った。

  「象を休ませるから、お前も休憩しておきなさい」

  「うん」

   僕はうなずいた。
   とても疲れていたし、それ以外にはどうしようもできなかった。
   彼から少しはなれた場所にしゃがんで、手で水をすくって飲むと砂の味がした。びっく
  りして吐き出すと、彼が象を引きながら言った。

  「……手は洗ったかい?」

  「あ」

   砂の色に褪せた手を、貫頭衣をたくって肘まで洗ってから、もういちど水を口にふくむ。
  不思議な甘さだった。冷たさが、乾いていた体に染みていく。

   僕はたぶん呆然としたまま、たくさんの水を飲んだ。
   僕の家でいつも飲んでいる水よりもずっとおいしかった。
   ぼうっと見上げると、木の上に鳥の影が並んでいる。

   あの鳥はどこから来たんだろう。
   あの港町を知っているだろうか?

  「ねぇ」

   まだ何も言っていないのに、彼は首を横に振った。

  「この砂漠の生き物は……ここから出たことがないよ」

   ……ジェニーは今、何をしてるんだろう。母さんは? 父さんは?
   僕がいなくなって心配してるはずだ。だけどどんなに探したって、この砂漠には辿り着
  けないかも知れない。

  「……そう」

   彼は水を飲んでいる白象のとなりに立ち尽くして泉を見つめている。
   色を変えていく砂漠が黒い背中の向こうに広がっている。
   急にこわくなって、服を掴んでばさばさと砂を落とすと、僕は彼のところに戻った。

   足元でやわらかく茂った草に、靴が浅く埋まる。白かったそれはもう赤みを帯びた褐色
  に変わっていた。

  「夕方には出発するよ」

   砂漠で日が暮れたら、昼間の暑さがうそのように寒くなる。
   僕だってそのくらい知っている。ジェニーと一緒に読んだ本に書いてあったんだ。
   だけど、ここでは違うのかも知れない。赤紫から橙に染まりながら消えていく砂丘を見て、
  そう思う。

  「どこへ行くの?」

   彼は空を見上げたけれど、僕にはできなかった。だって、ここの空は僕の知っている空
  とはあまりにも違う。海を映した鏡のような、どこまでも青い蒼い空を見たいのに、ここ
  にあるのは砂漠の鏡だ。
   どんな角度で覗いても、僕が見たいものは映されない。

  「……ゆっくり休んでおくんだね」

  「この砂漠は、どこまで続いてるの?」

   フードの奥で、ふ、と彼が笑う気配がした。
   哀れむように悲しむように喜ぶように歌うように、彼は囁いた。

  「お前が望めばどこまでも……」

   オアシスの周りには一面の砂漠が広がっている。
   昔、海はどこまでも続いていて、世界を一周してしまうこともなく、滝になって途切れ
  ていることもなく、果てがないと信じていたことを思い出した。 





                               マリムラ


   空が徐々に明るさを失い、薄闇は満天の星空となる。
   きらきらと瞬く星達を笑うようにときどき砂のカーテンが覆ってしまうのはとても無粋
  だけど、それでもじっと待っていればゆっくりとその姿を取り戻し、また静かに砂漠を照
  らすのだ。

  「風邪を引いてしまうよ、ロッシ」

   僕は声をかけられてはっとする。魅入られたかのようにずっと空を見上げていたのだ。
   そのくらい砂漠の空は魅惑的だった。

   急に自覚できた寒さに体を震わせ、慌てて体を丸める。
   本を一緒に読んだジェニーを思い出して、また泣きそうになった。

  「ねえ、もっと寒くなるの?」

   鼻声なのは泣きそうだったからだろうか、寒いからだろうか。
   相変わらず姿勢良く象を操っていた主は前を向いたまま答えた。

  「体が芯から凍ってしまいそうになるよ」

   その答えが怖くて、僕は慌てて服をかき寄せる。
   出来るだけ体を丸めて、体が外気に触れないようにして……でもやっぱり空を見たいか
  ら目元を覗かせる。
   ああ、星は海辺と同じくらい綺麗だ、と思いながら。

  「だから、象が凍える前に野宿しよう」

   ほんのり表面が暖かい象の耳の辺りを撫で、主が告げる。
   僕は返事を声に出すこともせずに、ただ、空を見ていた。






   何を根拠に場所を選んだのか、僕にはよくわからない。
   でも、止まった場所はオアシスでも何でもなく、枯れかけた木が一本だけ立っている寂
  しい場所だった。

  「象は風よけにもなるし暖かい、離れないで寝なさい」

   簡素な毛布を一枚渡される。
   彼はというと、労うように象を二、三度撫でて寄りかかった。

  「慣れるまではきついかも知れないが、早く寝ることだ……朝は早いからね」

   目を閉じたままの彼に呟くように語りかけられて、僕は慌てて彼に倣った。
   象をゆっくりと撫で、毛布にくるまって寄りかかる。
   確かに触れた部分がほんのり暖かい。ちょっと硬いのが玉にきずだけど。

  「ね……そっちに行ってもイイ?」

   なんだか急に寂しくなって、ジェニーや父さんや母さんの顔が浮かんでは消え、僕はい
  てもたってもいられなくなった。

  「……好きにしなさい」

   そう答えた彼は背中を抜けたままだったけど、僕が寄り添ってみるとなんだか暖かくて。
  硬い背中が父さんを思い出して安心したのか、僕はそのまま眠りについた。 





                                 千鳥


   砂漠は白かった。
   まるで全てをリセットしたかのような、真白い砂漠の地平線に太陽が昇る。
   僕が背を預ける、象もまた白かった。僕の服も白かった。
   彼の服だけが、ただ真っ黒で、夜のカーテンの切れ端のようだった。
   黒い服についた白い砂が星屑のように瞬いては滑り落ちていく。

   そうしてまた、砂漠での一日が始まる。

    ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

   僕らは太陽が昇る方角――東に向かって進んだ。 
   何処へ行くのかという問いは、もう口に出さないことにした。
   彼は星を読んでいた、星は方角を、進むべき道を示してくれる。
   ここが海だったら、僕だって、知っている星座の知識を総動員して役に立つこともでき
  るのに…。

   緑とオレンジで出来た斑(まだら)の地帯を少し迂回したところで――こういった場所
  の地下では、何か生き物が動き回っているらしい――僕は、ふと尋ねた。

  「ねぇ、あなたは何と言う名前なの…?」

   二人っきりだから、名前など呼ぶ必要がなかった。
   でも、名前も知らないなんて、何だかよそよそしい気がする。
   僕はそう思うのに、彼は案の定、今までのように、子供をはぐらかす様な答えを返した。

  「私は、名前を捨てた人間だ。ロッシが好きなように呼べばいい」

   好きなように?
   おじさん?お兄さん……?それとも……
   彼の容貌は年齢どころか、性別すら判断しようがなくて、僕は心の中で辛うじて「彼」
  と呼んでいた。

  「じゃあ、この象はなんて名前なの?」
  「テティス」

   それは迷うことなく返ってきて、僕は少なからず驚いた。 
   ………テティス。それは船人に道を指し示す、海の女神の名前。

  「それって……」

   僕がさらに問い詰めようとしたときだった。
   ゆっくりと歩を進めていた、象――テティスの足が止まる。
   僕は、彼の横から大きく身体を乗り出して、前を覗き見た。

  「あ――」

   人だ。
   人が倒れている。

  「助けなきゃ!」

   ピクリとも動かない彼の背中を力いっぱい揺すった。
   しかし、皮だけの身体のどこにそんな力があるのか、彼はけして動こうともしなかった。

   どうして?
   どうして僕のときのように助けないの?

  「その必要はないんだよ」

   ザザッと、波の様な音が僕の脇を通り過ぎていった。
   黒い影――いや、砂が、四方から集まって倒れた旅人の身体を包んだ。
   砂鉄をひき付ける磁石のように、男は黒い砂に隠れてしまう。
   その異様な光景に、耐え切れなくなって、僕は視線を落とした。
   その先に、彼の右手が映る。
   指を交差して、前に突き出した仕種は、やっぱり僕が知っている、船乗りが死者に向け
  る習慣で・・・・・・

   ここは、一体どこなんだろう・・・・・・?

   倒れた男を食らうように動いていた黒い砂が、弾けて散った。
   そこには黒いマントを被った男が佇んでいた。
   水分を失い褐色になった肌に、窪んだ眼孔が不思議そうに僕らを見ていた。

   ――― あぁ、彼は!!この人たちは!!
 
   彼は、くるりと象の向きを変えると、何も言わずに進み始めた。
   今、目の前で彼の仲間になったであろう男に、何の言葉を残すこともなく。

  「ねぇ、どこに行くの?」

   緑色の、どこか爽やかな風が一陣、僕らを追い越した。
   緑色に染まる象、白いままの僕の服。黒いままの彼の服―――。

  「あなたは、この砂漠の果てを見たことがあるの?」

   ―――――お前が望めばどこまでも・・・・・・この砂漠は続いているよ。

  「僕も、あなたのように、さっきの人のようになってしまうの!?」

   あなたはいつからこの砂漠で彷徨っているの!!???

   長い沈黙が続いた。
   彼についていけば、きっと助かると思ったのに。
   僕は象の背中からを身を投げた。
 
  「待ちなさい!!ロッシ!」

   彼が声を上げる。
   その焦った声が、今までの平らな調子と違っておかしかった。
   右肩を地面に打ち付けたが、砂のせいか、それほど痛くない。
   素早く立ち上がると、僕は砂に足をとられないように懸命に走り始めた。
   僕と彼の間に、強い虹色の砂嵐が吹き、振り返った時には別の光景が広がっていた。
   だから、彼の悲痛な呟きなど、僕には届かない。

  「行ってはいけない・・・私は、やっとテティスとお前を手に入れたのに・・・」 





                               小林悠輝


   砂に足を取られた。波打ち際を走るのを思い出しながら走り続ける。ひどく暑くて、のど
  が渇いた。それでも走った。
   果てがないなんて信じられない。走って辿り着けるはずがないこともわかっていたけれ
  ど、ただ走りたかった。

   他にどうすればいいの?
   彼以外に答えてくれる人はいないけど、僕は彼からも逃げようとしている。

   走り出したのは咄嗟だった。逃げようとした、はっきりとした理由も思い出せない。
   だけど、僕はこの砂漠が恐ろしい。彼のようになるのが恐ろしい。彼が恐ろしい。もし
  かしたら優しいのかも知れない彼が、本当はもっと違うのかも知れないと思うと。

   僕は、この砂漠がどこまでも続くことなんて望んでいない。
   終われ、もう終われ、僕は帰りたい。

   必死にあの町の景色を思い出す。

   白い漆喰が空と海の青に鮮やかな町並み。
   潮の香り、うみねこの声。

   港に訪れる巨大な船の美しさ。
   立派な帆の貨物船、白い優美な観光船――

   ――海賊の黒い船。叫び声、突きつけられた剣の切っ先。

  「……ッ!」

   足首に残った痣が枷の重みを思い出す。
   転びそうになって、手をついて、砂は熱くて手のひらが焼けそうになった。

   めまぐるしく色を変える砂丘が無秩序に並んでいる。
   砂嵐が吹き付けて顔を庇った腕に当たって汗でへばりついた。砂漠が悪意を持って僕の
  邪魔をしているように感じる。
   慣れない砂地を走り続けるうちに息が切れて、ひゅうと肺が鳴く音が喉から漏れた。

   もうだめ、だ。
   もう走れない。

   座り込みそうになるのを我慢して立ち尽くす。
   足元には熱砂が広がっている。さらさらと細かい粒子が、冬の海から立つ霧のように立
  ち上ってパステルカラーに染まっていく。霧と違って砂は熱を帯びていた。

  「――――」

   風の音にまぎれて彼の声が聞こえた。振り返ると地平の果てまで続く砂漠が広がってい
  た。
   象のテティスも、彼の黒い服も、どこにも見えない。
   逃げ出して、逃げることができた。海賊から偶然に解放されたときよりもずっと簡単だっ
  た。彼は僕を捕まえてたんじゃない。僕はいつでも逃げることができたんだ。

   だけど、逃げてどうすればいいの……?
   一人ぼっちになってしまったら、僕は――あの、倒れていて、彼のようになってしまっ
  た男と同じになってしまうのかも。あの人も、僕みたいに迷い込んだ一人だったのかも……

   ねぇ、どうすればいいの!?
   ここはどこまで続いているの?

   膝ががくがくと震えて今にも力が抜けそうだった。
   だけど足元の熱い砂がこわい。歩き出すと違う方向に行ってしまいそうでこわい。
   ここで立ち止まっていることしかできない?

   ――ざあっ

   視界の隅で、砂がざわめいた。波の下を巨大な魚が通るように、砂が盛り上がり、移動
  していく。
   僕の右側から、正面。正面から左側。左側から後ろに……

  「え?」

   砂の下に何かがいる……?
   サメと同じくらいの、何か。風で砂が吹き散らされて、ちらりとその体が見えた。

   岩だ。
   岩でできた魚だった。
   刃物みたいに尖って、細長い、市場によく並んでいるので見覚えのある魚を、ずっとずっ
  と大きくしたような。それが砂の中を泳いで僕の周りを回っている。

   ぐるぐると回りながら、少しずつ近づいてくる。
   魚が通ったあとはすぐにわからなくなってしまうけれど、気のせいじゃなかった。

   この砂漠は……

   大きな魚が迫ってくる。
   逃げようと思っても足がすごく重くて、きっと間に合わない。見えない枷が僕をここに
  縛り付ける。 





                               マリムラ


   じわじわと、輪が狭くなってくる。

   岩の魚は僕の周りを回るように、砂の海を泳いでいた。
   その数はどんどん増え、もう既に全方向で砂がうねりをあげている。

  「……っ!」

   耐えきれずに、何かを叫ぼうとした。何か、言葉ですらなかったかもしれない感情の吐
  露。

   しかし、緊張と暑さから喉が渇ききって声すら出なかった。
   涙すら枯れ果てたのか、頬を伝うあの感触も感じられなくなってきていた……。

   僕はここで死ぬのかな。それとも、あのオジサンみたいになるの?
 
   虹色の砂は答えてくれない。 
   目まぐるしく色を変えながらも、けして望むものを運んでこない砂、砂、砂。

   いやだ、いやだ、イヤダイヤダイヤダ……ッ!

   死ぬことに対する恐怖よりも、姿形を変え、永遠にも近い時間を彷徨い続けることの方
  が、何倍も何十倍も、いや何百倍も耐え難かった。


     フラッ


   それは、弱い心からの誘惑だったかもしれない。
   でもそんなことはもうどうでもよかった。
   体を支えることすら放棄して抜け殻のようになった自分が、ゆっくり傾いているのがわ
  かる。

   色々なものがスローモーションで流れていた。
   景色も、意識も、音や風も何もかも。

   あ……オジサンに一度もお礼を言わなかった……。

   そう頭の端で考えていると、大きな衝撃と共に空へ突き上げられる。
   宙を舞い、視界に映るのは無数の岩の口。
   砂から我先にと頭を突き出し、落ちてくる餌を待ちかまえているのだ。

   僕……死ぬのかな。

   落ちて落ちて、もう歯に触れそうになったその時、別の衝撃を受けて体が折れ曲がる。
   どこから飛んできたのか、大人の身長の三倍くらいありそうな大きな羽を広げた鳥の足
  に捕まれていたのだ。



   爪に抉られなかったのは幸運な偶然だろう。
   でも、僕が再び涙を流したのは、その幸運を喜んでのことではなかった。

  「海が……見えないよ」

   空高く舞い上がったその位置からも、砂漠の終わりを見ることが出来ないのだ。
   僕は途方に暮れて、吊り下げられたまま、はらはらと涙をこぼした。





     パオォォォォォン

  「……テティス?」

   突然足を止め、嘶く象に、男は声をかける。
   象は鼻を高く持ち上げ、上を見ていた。

  「一体……」

   つられるように上を見上げた男の顔に降ってきたのは一粒の涙。

  「!!」

   男は米粒ほどにしか見えない上空の鳥を見失わないよう、慌ててテティスを走らせた。





                                  千鳥


   突風が、僕の体を攫おうと、絶え間なく吹き付けてくる。
   力強い羽ばたきが、頭の上から聞こえた。
   薄い布一枚に食い込んだ爪だけが、僕を大空に留めている。

   眼下に続く果てしない砂漠。
   海も、町も、木々も見えない。
   波打つ砂漠が色を変え、形を変えながら僕の視界全てを覆っていた。
   どうせ、僕の足ではこの砂漠から抜け出すことなど、出来なかったのだ。
   海賊船から逃れた僕は、この砂の海に放り出された。
   そんな僕を拾ってくれたのは、白い象に乗った黒い人。
   しかし、彼もまた、砂漠の漂流者だったのだ。

   だから、逃げた。
   彼の元からも逃げて、岩の鮫に襲われて・・・今では独り空の上。
   所詮、僕も一人で溺れる子供に過ぎないのに・・・。

  (おじさんの所に戻りたいよ・・・)

   あの象の上ならば、こんな心細い思いなどしなかったのに・・・。
   溢れてくる涙をぬぐうことも出来ずに、僕は、その雫を乾いた砂漠の上に降らせた。
   この体が乾くまで泣き続ければ、すこしはこの砂漠も潤うだろうか?
   一体、何人の人間がこの砂漠で干からびたら、この悪夢が終わるのだろうか?
   自分の落とした涙の行方を眺めていた僕は、その涙が砂に落ちると同時に文章となって
  広がっていくことに気が付いた。

  (文字だ・・・)

   僕の涙をインクにして、巨人が筆を走らせているかのように、上空でしか見えない大き
  な文字が遅々としてつづられていく。 




         走っても走っても出口は見つからない
         未来への入り口はお前の頭上にあるから
 
         赤色は 限り無い勇気を
         黄色は 神秘の智恵を
         緑色は 癒しと調和を
         青色は 解放と自由を
         紫色は 心の浄化を

         お前に与えるだろう       

         純白は 希望
         お前の 希望
         混じりけのない心を5色に染めて
         お前の希望を空に架けて
         それが未来の入り口 ――――  



   僕はその文章を忘れないように必死で凝視した。
   もしかしたら、続きがあるのかもしれないけれど、先ほどまで勝手に流れていた涙も、
  興奮で止まってしまった。
 
  「あ!」       
 
   黒い点が、最後の文の横を通り過ぎた。

  「おじさん!」

   砂漠の色に染められた象と異なり、彼はどこまでもこの砂漠では異質な存在だった。

  「おじさ―――んッ!!」

   叫んで、僕は力いっぱい暴れた。
   僕を運ぶ鳥のスピードは思ったより早くて、もう少しで彼も視界から消えてしまう。
   これ以上離れたら、二度と彼の元に戻れないかもしれない。

   僕は暴れて暴れて―――急な抵抗に驚いたのか、僕を捕らえていた鳥はぐんと急降下を
  始めた。
   激しく体が左右に揺れた。
   くらくらする。僕を気絶させようとしているのかもしれない。
   まさに、僕の体が地面に衝突しようとした時に、

   ビリッ!

   服の破れる音がして、僕の身体は勢いよく砂丘を転がった。
   再び僕を捕らえようとする爪をなんとか避けると、再び走り出す。

  (いやだ!死にたくない!!このまま海を見ずに死ぬなんて!)

   全身が、魂がそれを求めていた。
   僕を待つ白い家。
   波の音!匂い!
   包み込むような海水の浮遊感!

  ( ならば、お前はいつまで背中を向けているの? )

   心の中で誰かが問いかけた。
   僕はこの砂漠にきてから逃げてばっかりだ。
   背中を向けて逃げてきたんだ。
   彼の言葉が聞きたくなくて。
   この砂漠のイキモノが恐くて。
   追ってくる羽音は聞こえるけれど、今も敵の姿はおぼろげだ。
   鳥はどんな姿をしていた?
   大きいことだけは覚えている。
   では、色は?
   顔つきは?
   何一つ思い出すことが出来ない。

  (だったら、向き合えばいいんだ!!)

   自殺行為だと分かってる。
   でも、僕はいったい何≠ゥら逃げているんだ??

   僕は振り向いた。
   一陣の風と、黒い羽だけが僕の脇を通り過ぎて行った。

  「鳥は・・・どこ!?消えちゃっ・・・た?」
  「おめでとう、ロッシ」

   気が付くと、そこには彼が立っていた。
   駆け寄って、抱きつきたかったけれど、今の僕には立っているのがやっとだった。

  「・・・・・お・・おじさん?おめでとうって・・・何?」

   象を走らせて来たのだろう。
   テティスは息が荒く、さまざまな色の風を受けて、身を不思議なマーブルに染めていた。
   しかし、その色も一回の緑の風にきれいに洗い流されてしまう。

  「テティスは色を記憶することができないんだ。
  しかし、君はこの砂漠の神秘≠ニ立ち向かう勇気≠手に入れた」

   僕は彼の視線が注がれる自分の服を見下ろした。
   服のすそには、赤と黄色のラインがしっかりと走っていた。
   優しげな声と、真摯な顔で彼は僕に告げる。

  「君は、私の希望≠ネんだよ。ロッシ」





                              小林悠輝


   ざざ――と。
   砂が流れる音は潮騒にも似ていた。

   君は、私の“希望”なんだよ。
   やさしいやさしい言葉が僕の心に沈んで、澱のように、いらいらするほどゆっくりとも
  がいている。希望? 僕が、彼の?
   また、象の背中に二人で乗って、今までと同じように果てのない砂漠を進みながら、僕は
  ずっと考えていた。僕が希望に? なれるはずが、ない。

   だってさ、彼は僕に希望を見出したみたいだけど。
   僕は誰にもそんなものを見つけていないんだから、それなのに誰かの希望になるなんて。

  「ロッシ、この砂漠はどこまで続いていると思う?」

   鳥に捕まえられて空から見下ろした砂漠は、地平の果てまで続いていた。ぽつりぽつり
  と点在する奇妙な木、砂の下を這う何かの群れ。知らない風景が、終わりなく続いている。
  切りがなく、果てもなく、どこまでも、どこまでも。

  「……望む限り、どこまでも」

   それは彼の言葉だったが、僕はそれを見てしまった。
  “神秘”と立ち向かう“勇気”を、彼のおめでとうという言葉と共に、服の裾に入った赤
  と黄色の線と共に、僕は手に入れてしまったらしい。消えてしまったあの鳥は、何だった
  のだろう?

  「その通りだよ、ロッシ。
   だけど考えてごらん……この砂漠が君の望む限り続くとして、もしも誰にも必要とされ
  たくなったら、どうなると思う?」

  「え?」

   彼の後姿を見上げた。黒いフードは振り向かない。
   僕が望むから、砂漠は終わらない。だけど僕は望んでいない。

   本当に?

   逃げていたけれど、目を背けていたけれど、この不思議な色の砂漠を綺麗だと思ったこ
  とが一度もないワケじゃない。ここに来て、海賊から逃れられてよかったと、思わなかっ
  たワケじゃない。彼は恐ろしいけれど、その優しさに安心して、一緒にいて欲しいと思っ
  た瞬間がまったくなかったなんて、言えない。

  「……どうなるの?」

   彼が首を横に振った。フードに絡まっていた砂がパラパラと零れる。やっぱり振り向い
  てくれないから表情はわからない――いや、きっと、顔を見てもわからない。彼には、表情
  をつくる筋肉がないだろうから。

  「さてね。私にはわからないよ。
   それでも君は私の“希望”だ。君が現れるまで、テティスと共に、延々とここをさ迷い
  続けるばかりだったからね」

  「おじさん?」

   彼は苦笑のような乾いた声を零した。乾ききった喉に砂がはり付いて、錆びてしまった
  ような音だった。普段の彼の声は、耳に心地よい低さで、やわらかいのに。

  「ここはとても不安定な場所だ。
   すべては砂から生まれ、砂に溶けていく。私は何度もそういった場面を見たよ」

   ――間の前に湧き出したオアシス、倒れ、干からびた旅人、砂の魚。
   あれは繰り返されていたのだろうか。あの旅人も砂でできていて、ずっとずっと、砂の
  上だけを歩き続けるのだろうか?

  「私も、見てきたものと同じようにできているのかも知れない。テティスも、そうでない
  とは言えない。ここは閉じた繰り返しだ。だけど私は君と出会ってから、少しずつ今まで
  とは変わった道を歩んでいる気がする。
   だから、君がどういった結末を望むにしろ、それによって何が起ころうとも、君は私の
  希望なんだよ、ロッシ」

  「どうしたの、おじさん?」

   彼がこんなに喋るのは初めだだったと思う。もう、どのくらい一緒にいるのかわからな
  くなってきたけど、彼が一気に語るのを聞いたことはなかった。無口で気味が悪いと思っ
  ていたから僕もあまり話しかけなかったし、彼も、長々と話を続けたりはしなかった。

  「どうもしない、気まぐれだよ。
   君はすべてを手に入れようなんて思わなくていい。君が集めようとするだろうものは、
  一つ一つが大切なものだ。無理に集めるためにおざなりにするのなら、そんなものは逆に
  ない方がいいだろうね」

   風が吹いている。遠い空を小さな影がいくつも飛んでいくのが見えた。
   舞い散らかされる砂は綺麗だけど単調で、移り行く色は淡く淡く、おぼろげで曖昧。

  「僕はどうすればいいのかな」

   それは聞くべきではなかった。
   僕は彼に答えを求めていなかったし、彼も答えなかった。
   行くところまで行ってみよう。信じればきっと……あの港町へ帰る方法があるんだと、
  根拠は何もなかったけど、信じようと思った。 





                               マリムラ


  「今日は早めに休みなさい」

   彼はそれまでよりも幾分優しい口調でそう言うと、テティスを撫でた。テティスは応え
  るように小さく鳴くと、ゆっくり膝を折る。
   僕は慎重にテティスから滑り降りる。何度やってもなかなか慣れない。と、テティスの
  足に、紅い傷があるのことに気がついた。よく見ると、大小様々な傷が無数に付いている
  ようだ。

  「大変だよ、テティスが……っ!」

   僕が振り返ると、彼はテティスの耳の後ろをゆっくりと何度も何度もさすりながら、僕に
  背を向けたまま答えた。

  「また新しい風が吹けば、傷も癒えるよ」

   きっと何度もあったことなのだろう。声に特別な感情が感じられず、僕はつい、声を荒
  げた。

  「それでも!……傷ついたら痛いはずだよ」

   テティスの背に括られた荷物の中から水筒を無言で取り出し、少しずつ、少しずつ、傷口
  を洗い流す。

  「やめなさい。お前が干からびてしまうよ」

   彼の言葉は聞こえていたが、僕は気にせずに続けた。
   確かに喉は渇いている。近くにオアシスが都合良く現れるとも限らない。でも、そんな
  のは嫌だ。傷ついたままのテティスをそのままに、自分だけ水を飲むなんて気分にはなれ
  なかったのだ。

   テティスが鼻を高く持ち上げ、嬉しそうに鳴いた。
   顔を上げると、テティスは僕じゃなくて遠くを見ている。

   ……遠く?

   僕は立ち上がってテティスが見ている先を見た。
   テティスに応えるように、鳴き声が聞こえる。

  「おじさん、あれは?」

  「テティス以外に象を見たのは二度目だ」

   彼も同じ方角を見ながら、驚きを含んだ声で言った。
   僕は遠くから象が近づいてくる様子を、じっと見守っていた。

  「ロッシ、お前は一人で象に乗れるかい?」

   僕が目を離さないから象が欲しいのだと勘違いしたのかもしれない、彼は何気ない口調
  で尋ねてきた。僕は思わず首を横に振る。
   僕は、あの象がテティスの家族かもしれない、と思ったのだ。そして両親とジェニー
  を思い出していた。
   かわいいジェニー。いつも僕の後についてきた妹。
   僕は涙を抑えることが出来なかった。

  「……おじさん」

   僕が声を掛ける。彼は無言で続きを促す。

  「テティスを放してあげようよ。
   テティスだって、きっと仲間や家族がいるんだ」

  「私は?
   もうずっと一緒に旅をしてきた私は、家族ではないと?」

   寂しいのか怒っているのか、声からでは彼の感情が分からずに僕はどきっとした。でも、
  きっと彼の顔を見て話をしていても、感情なんて分からなかったろう。彼は不気味な無表
  情を浮かべるだけなのだから。

  「テティスがここに居たいなら、それでいいんだ。
   でも、もしあの象と一緒に行きたいんだとしたら
   ……テティスを自由にしてあげよう?だって」

   ふと浮かんだ言葉を言うのがためらわれて、僕は言葉を切った。
   そして。

  「おじさんには僕がいるじゃない」

   その言葉は、いろんな意味を含んでいる気がした。この場に適当だったのかはよく分か
  らない。でも、僕はぎこちないながらもテティスについた手綱を外し、荷物を下ろした。
   彼は何も言わず、黙って僕を見ているだけだった。

  「さあテティス、これで君は自由だ」

   傷に残りの水をもう一度丁寧にかけて、僕はテティスをゆっくりと撫でた。彼がしてい
  たように、何度も何度も気持ちを込めて。

   そのとき、一陣の風が砂を吹き飛ばした。僕は思わず目をつぶる。



  「……おめでとう」

   彼が後ろから言った言葉の意味が分からなくて、僕は振り返った。

  「服のすそをごらん」

   二色のラインが入った服のすそは、いつの間にか緑と青が加わり、四色になっていたの
  だ。さっきの風が運んできたのか、テティスは薄い青に染まり、彼の隣に立っている。

  「テティス……行かなくていいの?」

   テティスは小さく鳴くと、僕の顔に鼻をすり寄せた。
   彼は優しく、ゆっくりと言葉を続ける。

  「ロッシ、君は“癒し”“解き放つ”優しさを思い出したんだ」

   僕はぼんやりと砂漠に浮き出た文章を思い出していた。 





                                  千鳥         


   白くはためく僕の服の裾には4色の虹がかかっていた。
 
  「海の上に架かる虹は、海の神様が隠した二つの宝のありかを示してるんだよ。二つの宝
  物は互いに引き合っているから、嵐が来て海が荒れた後はお互いの場所を確かめるために
  虹をかけるんだって」

   昔、お祖父さんに聞いた話を口にしながら、僕は後ろで白い象の手綱を操るおじさんを
  振り返った。
   黒いフードを目深く被った彼は、間近で見上げても表情が分からない。
   皺皺に干からびた皮膚に、きつく閉じた唇は、再び開くことがあるのか不安になるほど
  生気が無い。
   しかし、僕は彼がとても優しい声で喋る事を知っている。

  「……私の国では、虹は垂直に向かって駆け上がる。“ウィニング・ザ・レインボウ”は
  神の国へ繋がる門、幸運の印と言われている」
  「垂直の虹……」
 
   彼が自分の事を話すのは珍しかった。
   僕はもっと知りたくて促すように彼を見続けたが、すぐに彼は黙ってしまった。
   それでもしばらくは粘って彼を見ていたのだが、とうとう首が痛くなって顔を前に戻す。
   時にまばらな木々や岩、湖が僕らの前に現れたが相変わらず地平線はいつまでたっても
  まっすぐで、砂漠の終わりを見ることは出来なかった。

  「風の色が減ってきたようだ」

   テティスの身体は、緑とオレンジのマーブルだったが、既に砂漠の砂は一面、夜空のよ
  うな色に変わっていた。
   あれだけ僕らの身体を痛めつけてきた風も、うそのようにやんでいた。

  「あとは……」

   あとは紫の色を得ることが出来たら。
   おじさんが直接言葉にして言うことはなかったが、彼は僕に期待していて、僕はそれに
  応えなければならないのだろう。
   僕は海賊から逃げてきた。
   しかし、この砂漠から逃げることなんて出来ることができるのだろうか。
   絶えず後ろから注がれる期待に押しつぶされそうで、僕は急に居心地が悪くなった。
   もぞもぞとテティスの背の上で身体を動かしたが、それでも収まらない。
   しまいには、象の上から転がり落ちていた。

  「ロッシ!?」

   また、僕が逃げ出すと思ったのか、おじさんが慌てたように声を上げる。
   落ちた勢いで2,3回転がって、砂の上に大の字に寝転がった。
   空と同じ色の風が吹いて、見上げたテティスの身体も空の色に染まっていた。
   そして象の後ろに架かった4色の橋。

   ―――――あ、虹だ。
 
  「おじさん!虹だよ!!」
  
   僕は慌てて起き上がって、空を指差した。
   彼は息を飲んで、一言いった。

  「……行こう」

   僕は急いでテティスの背の上へとよじ登った。
   先ほどまでのもやもやした気分などふっとんでしまった。
   青い空と夜空の紫のような砂漠に挟まれて、鮮やかな虹がまっすぐに僕らの道を示して
  いる。
   あれこそ僕の、僕らの希望だった。
   僕らは、虹の麓に向けて象を歩かせた。

   一体どのくらい進んだのだろうか。
   逸る僕の心には一日にも一週間にも思える長い長い時間がたった。
   しかし、宝が、希望が眠っているはずの虹の麓にはいつまでたってもたどり着く事が出
  来なかった。
   それどころか、あれだけ鮮やかだった虹は、だんだんと色あせていき今にも消えそうだっ
  た。

  「やっぱり、まだ紫が足りないのかな…」

   あの砂漠に描かれた巨大な文章を思い出しながら、僕は服の端をひっぱった。
   いつの間にか、虹は僕の服の端、あの4色に染まった部分から空へと伸びていた。
   そして、もう片方が砂漠のずうっと向こう、地平線の先まで伸びている。
   だから、僕らが反対の麓に向かっている心配は無いはずなのだが・・・。

  「いや、虹の麓同士が近づき過ぎたんだ」

   おじさんは、まるで最初からその事を知っていたかのように淡々と応えた。

  「え?虹の麓って…」

   虹は僕の服から伸びている。
   じゃあ、僕はもう片方の麓には行くことが出来ないって事なんだろうか。

  「ロッシ…お前は私の希望。そして、お前自身の希望でもある。私はこの虹が何なのかを
  知っているが、この虹の先に何があるのかを知らない。それを確かめに行かねばならない
  んだ」

   僕を置いていくの?
   今更になって、僕は喉が渇いていることに気がついた。
   だから、肝心の言葉は喉に張り付いて、何も言うことが出来なかった。

  「必ず戻ってくる。だから、少し待っていてはくれないかい?」

   その時、僕はどんな表情をしていたのだろうか。
   慌てたおじさんは、「テティスを残していこう」と言葉を続けた。
   裏切られたと思った。
   一人で待つなんて心細かった。
   僕をおいていくのかと問い詰めたかった。
   でも、おじさんは真剣だった。
   窪んだ眼孔はぽっかりと穴が開いているくせに、すごく真面目な顔だった。

  「テティスは連れて行っていいよ。だから早く帰ってきて」

   僕は、砂漠から突き出した岩肌に腰掛けた。
   とりあえず、ここならば砂の中に住む魚に襲われることは無いだろう。 
   空から襲われたら分からないけれど。
   僕の服の端っこから、色が溢れて、薄かったけれど、虹はちゃんと方角を示していた。
   この先におじさんの希望が待っているんだ。

  「必ず、戻ってくるよ、ロッシ。だから、けして君は希望を捨ててはいけないよ。あと一
  色は私が見つけてこよう」

   僕の頭をそっと撫でると、おじさんは急いでテティスに乗った。
   遠ざかっていく黒い人影を眺めながら、ふと思った。

   おじさんも昔こうやって僕と同じように誰かを待っていたんだろうか?
   もしかしたら、皺皺の身体に、黒い服になってしまう前に。
   だとしたら、相手は戻ってこなかったのだろうけれど―――