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                                        周防 松


  今日は天気も良いし、そよ風も吹いていて、絶好の洗濯日和です。
  屋根の上の古びた風見鶏は、お日様を浴びながら南の方角を見つめていました。

  私は、いそいそと洗い終えたシーツを干す作業に取りかかりました。
  家の南側にある、2つの木の枝の間にロープが渡してある場所――いつもそこに、洗濯物
  を干しています。
  シーツをロープにかけて、シワができないように手で広げて、洗濯ばさみで上をつまんで。
  シーツが全部なくなるまで、その繰り返しです。

  さて、あともう少し。

  私は、足元に置いたカゴから、シーツをもう1枚取り出そうと、身をかがめました。
  なのに、シーツは、私の指先をするりと抜けて、いなくなってしまいました。
  どうして? シーツが勝手に動いたりするはず、ないのに。

  ばさあっ。

  身をかがめたまま、しばらく考え込みそうになった私の耳が、布の広がる音を拾いました。
  一体何だろう、と身を起こして――私は、目を丸くしました。
  いつの間にか、すぐそばで淡い金色の髪の少年が、シーツ干しをしていたからです。

  彼は、この村の村長の1人息子で、マロウという名前です。

  そして――私の恋人、です。

  「マロウっ」

  私が声を上げると、マロウは、綺麗な紫水晶のような目をふわりと細めて、
  「手伝うよ」
  そう言うと、カゴからもう一枚、シーツを取り出しました。
  「駄目っ」
  私は、慌ててシーツの端をつかみました。
  まるで、シーツの取り合いをしているような格好です。
  「どうして?」
  マロウは、首を傾げて私を見つめました。
  「村長の息子が、人の家のシーツ干しを手伝ってたなんて知られたら、笑われちゃう……」
  「そんなの平気だよ」
  「でも……」
  「いいからいいから」
  そう言うと、マロウはシーツを握り締める私の手を、やんわりと握りました。
  同い年のはずなのに、私の手よりも大きな手。

  ――男の人の手。

  そう意識したら、私は頬がやたらに熱くなってきて、動けなくなりました。
  するり、と手の中からシーツを引き抜かれても、しばらくそのまま固まっていました。
  そんな私を傍らに、マロウは最後のシーツも干してしまいました。
  「……あ……ありがとう……」
  ちゃんと顔を見て、お礼を言わなくちゃ。
  頭ではわかっているのに、私は足もとの小石ばかり見つめていました。
  いつもいつも、そうです。
  私は、大好きな人の顔を見つめて、にっこり微笑む、ということできないのです。
  その前に、顔がトマトのように真っ赤になってしまうから。
  そんな自分が情けなくて、なんとか変えたいと思っているのですが。

  ぽす。

  不意に、頭の上に手を置かれました。
  そのまま、その手は私の頭を優しくなでました。
  マロウ……。
  胸の奥のどこかが、ほうっと暖かくなった、その時、でした。

  「マロウから離れなさいよ!」

  突然浴びせられた罵声に、私は、ビクンッ、と体を震わせました。
  その体を、マロウの腕が包み込みました。
  「……大丈夫、守るから」
  マロウの声を聞きながら、私は、おずおずと声のした方へと顔を向けました。

  「マロウは私のものよ! 近寄らないで!!」

  豊かな金色の巻き毛を揺らし、赤紫色の瞳を見開き――声の持ち主である彼女は、私に怒
  声を浴びせました。
  いつか、街から来たという商人さんが見せてくれた、ガラスケース入りの綺麗な人形のよ
  うな顔をしているのに、それが台無しです。
  彼女の名前は、ラフレシアといいます。
  ラフレシアさんは……マロウのいいなずけでした。

  「マロウはこの村の村長の1人息子なのよ。それだけじゃない、貴族の血だって引いてるわ。
  本当なら、アンタみたいな汚い孤児なんか、顔を見ることすら許されないんだから。
  それなのに、マロウの優しさにつけこんで――なんて図々しいヤツなの。さすがは孤児だ
  わ、神経が図太いのね!」

  ラフレシアさんは、怒り顔から一転、意地悪そうな笑みを浮かべました。

  ラフレシアさんの言う通り、私は、孤児です。
  物心つく前に両親を亡くし、村の魔女に引き取られました。
  病弱なせいで、両親の親戚が皆、引き取ろうとしなかったのだと、村の人に聞かされたこ
  とがあります。

  向けられる、侮蔑しきった眼差し……それが全く辛くないと言ったら、嘘になります。
  けれど、それ以上に、彼女を悲しいと思いました。
  自分で、気付かないのでしょうか。
  誰かを侮蔑している時の人間の表情が、どれだけ醜く恐ろしいかということに。

  「ラフレシア!」

  今までに聞いたこともないような、厳しい声がマロウの口から発せられました。
  同時に、私はぎゅっと抱きしめられました。

  「ミモザを侮辱するのなら、許さない」

  「マ、ロウ……」

  ラフレシアさんが、ぼう然とした顔で、かすかにつぶやきました。
  そして、しばらくぼう然とした後――くつくつ、とかすかに笑い声を上げました。

  「ミモザのせいなのね」

  ラフレシアさんは、ゆらゆらと体を左右に揺らしていました。
  ゆらゆら揺れながら、彼女は口元にかすかな微笑みを浮かべていました。

  「マロウ……マロウがミモザを大事にするのは、そいつが汚い孤児だからよ。
  かわいそうでたまらないんでしょう? 同情して、哀れんでるんでしょう? 
  それを愛情だなんて勘違いしてるのよ」

  「勘違いなんかじゃない」

  マロウ、私は罵られたって平気だから……。
  むしろ、私は……私のために、あなたが誰かを睨んだりすることの方が、ずっと悲しい。

  そう言おうとしているのに、どうしても声が出てきません。
  代わりに、ぼろぼろと涙が頬を伝いました。

  どうして泣くの。マロウが心配してしまうじゃない。

  そう思えば思うほど、私は余計にしゃくりあげてしまいました。

  「そうやって、憐れみを買ってるのね。ほうら、汚い……」

  「ミモザ。行こう」
  マロウは、あえてラフレシアさんを無視しているようでした。
  やんわりと首を振ると、私の肩に手を回して歩き出しました。
  うながされるようにして、私も歩を進めます。

  「わかっているのに。本当に愛してるのは、私だって、わかってるはずなのに。
  弱いフリをした孤児にすがりつかれて、ただの同情を、愛情と取り違えてるんだわ。マロ
  ウは、優しすぎるから……。
  でも、それも今日で終わり」

  今日で終り?

  その言葉がなんとなく引っかかって、私は、ちらりと振り返りました。

  「後から出てきて、私とマロウの間に割り込もうなんて、孤児のくせに生意気なのよ」

  乱れた巻き毛のすきまから私を見据える瞳。
  その色は、赤紫色、というよりも、赤黒く見えました。
  ぞわり、と私の背中を寒気が走りぬけ、その場に縫い止められたように動けなくなりました。

  「アンタさえ、アンタさえいなきゃ!!」

  ラフレシアさんが言い終えた直後、視界いっぱいに、眩しい光が溢れました。
  それは、生き物の口のようにも見えました。
  なんでも噛み砕けそうなほどの、鋭くて大きな牙の並んだ……。

  「ミモザ!」
  マロウの声。
  同時に、私は突き飛ばされ、尻餅をつきました。

  パキインッ!!

  光の中で、何かの砕け散るような音が、私の耳を突きました。

  ――やがて、眩しい光が消えた後。

  私が目にしたのは、仰向けに倒れているマロウの姿でした。

  「マロウ!」

  仰向けに倒れているマロウを抱き起こし、私は、何度も何度も、彼の名を呼びました。

  お願い、生きていて……!
  どうか、その目を開けて……!

  「なんで……!? なんでかばったりするのよ! こんなやつ、死ねばいいのに!」

  ラフレシアさんは、豊かな金色の巻き毛を振り乱し、わめき散らしていました。
  ひどい言葉や汚い言葉を、たくさん浴びせられたような気もします。
  けれど、私の耳には、届きませんでした。
  私はただ、マロウのことで、頭がいっぱいだったのです。

  マロウ……!

  どれぐらい、そうしていたのでしょう。
  マロウのまぶたが、うっすらと開きました。

  生きているんだ!

  思わず飛びあがりたくなるほどの喜びが、体を突き抜けました。

  「マロウ……!」

  けれど、私は、次の瞬間、絶望のどん底に叩き落されました。

  マロウの目は、どこまでも暗くよどんでいました。
  あの、紫水晶のような色ではありません。
  そこに映る私は、微笑みかけた表情を、固めていました。

  彼の目は、確かに私を映していました。
  でも、私を見ているわけではなかったのです。

  マロウ、一体どうしたの……?

  私は、そっと、震える指先をマロウの頬に伸ばしました。

  ――けれど、マロウは、反応らしい反応を見せてはくれませんでした。





                                 葉月瞬


  「これは、命の魔法だね。禁忌の魔法だよ。なんで、こんなもの使ったんだい」

   あの光が弾け飛んで、マロウが意識を手放した直後、私は母さまにマロウを見てもらお
  うと直ぐに家の中に入れたのです。白いシーツをあつらえた木製のベッドに横たわった彼
  は、薄っすらと目を開けてはいましたが、完全に心此処にあらず、といった風体でした。
  まるで硝子玉のような瞳で、じっと私を見詰めているけれど私が映っている筈なのに、何の
  反応も示さないのです。私はただただ、彼の手をぎゅっと握り締めている事しか、出来ま
  せんでした。
   ラフレシアさんはというと、あの後、何を思ったのか肩を小刻みに震わせると途端に後
  ろを振り向いて、その場を走り去って行きました。その白くてきめの細かい頬にはきらり
  と光る物が見えた――様な気がします。やはりあの人にも良心があったのです。

  「……………………けているね」
  「え?」

   私は、自分の思惟[しい]に浸っていてまるで母さまの話を聞いていませんでした。
   今、なんて言ったんですか? 母さま。
   私が何の気なしに不思議そうにしかし、もう一度話をしてくれるよう催促する目で見詰
  めていると、母さまはその黒いローブの裾を苛立たしげに払い除けて言ったのです。

  「あんた、ちゃんと人の話し聞いてるのかい? いいかい? もう一度だけしか言わない
  からようく聞いておくんだよ。マロウはね、心を砕かれているんだよ。お前、魔法が発動
  してこの子に当たった直後、何か見なかったかい?」

   え? え? 何の事? 私……あの時何か見た?
   必死に思い出そうとして、思考のループに嵌って、でもそんな私を母さまはじっと我慢
  強く待ってくれています。ありがとう、母さま。
   私は半分回らなくなって来た頭の隅に、何か引っかかるものをやっとの思いで発見する
  事が出来たのです。
   何か引っかかるもの――それは、記憶の糸口でした。あの時――マロウが魔法で倒れた
  時、私ははっきりとこの目で見ていたのです。マロウの心が砕けて、体から光の塊達が四
  方八方に飛散していくのを。
   私はその事を、たった今思い出した事を、母さまに告げました。
   それを聞いた母さまは疲れた時にするように、一つため息を吐くと言いました。

  「……やっぱりね。心が砕かれて、何処かへ飛び去っていってしまったようだね。探しに
  行くしか……無い様だね」

   母さまは、そこで一旦切って不安げな私の顔を覗き込むように見ると一つ咳払いをして
  続けて言いました。

  「仕方ないね。そんなに不安な顔を、するんじゃ無いよ。ワシも一緒に付いて行ってやる
  から……」

   少し不安げに涙を零していた私を、慰めるように言ってくれたその一言が、とても嬉し
  いです。
   嬉しさの余り、私はまたまた大粒の涙をボロボロと零してしまいました。これは嬉し泣
  きという奴です。母さまの気遣いが、私にとってとても有り難いものでした。

  「ほらほら。もう泣くんじゃないよ。ホントに泣き虫なんだからねぇ。この子は」
  「……でも……だって……」

   涙が止め処も無く流れ出ます。どうしましょう。
   母さまは咽び泣く私をいとおしむ様に言ってくれました。

  「しょうのない子だねぇ。ほら。心のかけらを探しに行くのは明日にするから、今日はも
  うおやすみ」

   そう言って、母さまは部屋から出て行きました。後には、何時までも咽び泣く私と、硝子
  玉のような瞳をただあけているだけのマロウが残されました。


     ━━━━━━━━━━━○━━━━━━━━━━━


  「お前、あきれた。あれから一晩中泣いていたのかい?」

   翌日。朝起きて開口一番、母さまは私に言いました。
   私の、赤く腫れた瞼を見ての事です。
   私はいつもの通り朝食の支度をして――パンとミルクと少しのチーズという質素なもの
  です――母さまが起きて来るのを待ちました。
   そうして、母さまが起きて来ていつもの席に座ると、朝食が始まるのです。
   いつもと同じ風景。
   でも一つ違う事は。
   マロウが私のベッドで寝ていると言う事です。正確には、横たわっているだけですが。

  「母さま、心のかけらの話ですが、幾つくらいなのか解らないのですか?」

   私は頃合を見計らうように、パンを千切る手を止めて、試しに聞いてみました。母さま
  はそんな私の不安に満ちた心を見透かしたかの様に、けれども困った顔で言いました。

  「それがねぇ、ワシの透視の魔法をもってしても解らないのさ。何処へ行ったかの見当く
  らいは付くけどね」
  「本当!? 何処!? 何処へ行ったの!?」

   私ははしたない事に、思わずパンを取り落としてしまいました。だって、マロウの命が
  かかっている事なんですもの。これが、取り乱さずに居られますか。
   私とは対照的に母さまは冷静に自分の所見を行ってくれました。

  「北だよ。ここより、北に行った所に心のかけらはあるようだね。……早く食べちゃいな。
  食べ終わったら直ぐにでも出発するよ」

   母さまの一言に、私は急いで食事を促したのでした。


   パンの最後の一切れを嚥下すると、私は慌てて自分の部屋――マロウが寝ている部屋へ
  と走って行きました。
   勿論、旅の支度をする為です。
   部屋に入るといの一番で大きな旅行鞄を取り出して、必要なものを必要なだけ詰め込みま
  した。下着、着替え、上着、それから、水筒にミルクをつめて、パンとチーズと……あと、
  それから……。
   悩んでいると扉をノックする音が聞こえました。見ると、母さまが扉に寄り掛かる様に
  して立っていました。母さまの方はもうすっかり何もかも準備が出来ているようで、私の
  事を心配そうにしかし、優しげな瞳で見ています。

  「そんなに慌てて詰め込まなくてもいいよ。足りない物があったら途中で買い足せばいい。
  そのための換金出来る物は持ち合わせているから。お前が必要だと思ったものだけもって
  おいで」

   嗚呼、なんて優しい母さま。私の事をいつも心配してくれている。私はこんなに、弱く
  て頼りなくて、どうしようもないのに。いつも温かい目で見守ってくれる。そんな母さま
  に感謝してもし足りません。
   そうこうしている内に私の方の荷造りも一段落して、出発できる段階になりました。
   あとは――乗り物です。

  「母さま、どうしよう。歩いてじゃ何年もかかっちゃう……」

   私は母さまに相談する事にしました。すると、母さまはまるでその事まで予見していた
  かのように、皺だらけの顔でにっこりと笑うと言いました。

  「そう言うと思ってね。村の若いもんに調達してもらったのがあるよ」
  「うわぁ! 流石は母さま!」

   私は思わず、母さまに抱きついていました。重いし疲れるからいつもは止めろと言われ
  るのですが、今日だけは何故か許してくれました。嬉しい、母さま。

   母さまが村の若い者に用意させた乗り物は、象でした。おっきくて、私の身長の倍くら
  いはあるだろうと思われる象です。それでも扱いやすい子象を選んでくれたのだそうです。

  「オババ様、一番大人しい子象を選んで置きましたよ」

   そう言って笑った青年は、屈託の無い笑みでした。名前は確か――パギーと言いましたっ
  け? 母さまの話の中でしか知りませんが。
   私は母さまの引き摺った黒ローブの裾に隠れるようにしていたので、殆どその青年――
  パギーからは見えなかったと思います。でも、だからこそ笑って話していられるんだと思
  います。だって私は――。

   パギーと一通り話し終えた母さまは、子象に荷物を積み終えると、私を子象の上に乗せ
  てくれました。そして母さまも子象に乗っかってやっと出発です。当然の如く私は子象の
  後ろに乗せられているだけでした。だって私は象なんて乗ったこと無いんですもの。子象
  のたずなを引いているのは、母さまです。




   村を出て暫く、長閑な草原の風景が広がっていました。
   村の近くには小川が流れており、それが村の生活用水になっています。
   いくつもの小川を越え、いくつもの小山を越えてやがて行く手には密林が広がって来ま
  した。

  「この密林を越えると、砂漠だよ。もう、後戻りは出来ないよ。それでも行くのかい?」

   密林を目前にして、母さまが確かめるように私に言ってきました。
   私の決心は当然変わりません。変わるはずがありません。だから、私の答えはもう、決まっ
  ていました。

  「私、行くわ! マロウを助けるために!」

   拳を胸の辺りで硬く握って、決意の言葉を述べました。母さまはそんな私の様子を見て、
  満足したように深い皺をよりいっそう深くして破顔しました。

   森は深く、何処までも続いていました。それはまるで、緑のトンネルのようでした。
   時々獣が動いてなる葉擦れの音や、けたたましい鳥達の鳴き声が聞こえて来たりします。
  所々色取り取りの花が咲き乱れ、ちょっとした楽園のようでした。私はふとした弾みで、
  真っ赤に自己主張しているお花に手を伸ばしてみました。そうしたら、母さまに叱られて
  しまいました。

  「およし! それは食人植物と言う、一番凶暴な花だよ。迂闊に手を出すんじゃないよ」
  「はいっ! すいません……母さま」

   私は慌てて手を引っ込めました。
   いけない、いけない。そこら辺に生えてる植物を、珍しいからと言って手を出したりし
  たらとんでもない事になりそうです。ちゃんと母さまの言う事は聞いておかなくちゃ。

   何日ぐらい緑のトンネルを進んだでしょう。
   途中、何回も休憩して食事と暖を取ったから、たぶん二日以上は進んだと思います。それ
  でも間違いなく北の方角へ進めているのは、母さまの方位石のお陰です。方位石を地図の
  上に置くと先の尖った方が北の方角を向くのです。とっても便利な道具だから、村の人達
  もこぞって使っています。それが、今重宝するなんて。思っても見ませんでした。

   森に入ってから7日目の朝――正確には解りませんが多分7日ぐらいだろうと思います
  ――漸く開けた場所に出られました。今度は砂ばかりの世界です。辺り一面砂の海……。
   私は呆気に取られていました。

  「この砂漠の何処かにマロウの心のかけらが存在するようだね」

   母さまがダウジングロッドを地図の上に翳して言いました。
   この、一面の砂の海の何処かにマロウの心のかけらが?
   私は、思わず目を擦り何回か瞬[しばた]きました。目に砂が入ったのもありますが、余り
  にも途方も無い事態になってしまったので、思わず涙が零れそうになったためです。

   私に、果たしてマロウの心のかけらが見つけられるのでしょうか――。 





                               周防 松


  「……どうやら、ここにあるようだね」

  地図にダウジングロッドをかざしていた母さまが、とある地点に目星をつけました。
  そして、ダウジングロッドと地図をしまいこみ――母さまは乾いた口に二本の指を差し入
  れ、ぴいぃっ、と音を鳴らしました。

  その途端のことでした。
  どこからともなく、黒い鳥の群れが頭上に現れたのは。

  怖い鳴き声こそ上げないものの、黒い鳥の群れは、私の目にどことなく不吉に映りました。

  「母さま……」
  そう呟きながら、私は不安げに母さまを見つめました。
  「安心しな。ワシの使い魔さ。道案内をさせようと思ってね」
  「使い魔……?」
  母さまのもとに引き取られてから、使い魔などというものを見たことがあったでしょうか。
  「まだ小さかったから、覚えていないだろうけどね。お前が使い魔をあんまり怖がって泣
  くもんだから、それ以来、見せないようにしてたのさ」
  私が首を傾げていると、母さまが付け足しました。
  そんなことが……あった……のでしょうか……?
  思い出せないということは、そうとう幼い頃のことだったのでしょう。

  「さ。それはさておき、かけらを見つけようじゃないか。乗りな」
  うながされるまま、私は子象の背に乗りました。


  使い魔に先導されながら、黄色い砂の大地を進む子象。
  その背中に揺られながら、私はただ、あの時飛び散った、マロウの心のかけら……そのこ
  とだけを考えていました。

  いくつくらいあるのでしょう。
  もし見つけることができたとして――その後、どうすれば良いのでしょう?
  絶対なくさないようにしなくちゃ。
  何かに入れておけば、なくさなくても済むかしら。

  黙りこんでいると、不安がどんどん蓄積していくようです。
  ああ、まだ心のかけらのある場所には着かないの?
  私はいても立ってもいられず、身を乗り出しました。

  「きゃ」
  あんまり身を乗り出したせいでしょうか。
  子象の背中からずり落ちそうになった私は、慌てて母さまのローブをつかみました。
  「ご、ごめんなさい、母さま」
  「落ちつきな。心のかけらは逃げやしないよ」
  「だって……」

  だって、早く見つけたかったから……。

  「気持ちはわかるけどね。ここから落ちて、万が一何かあったらどうするつもりだい。心の
  かけらを集めることも大事だけど、お前が生きて帰らなきゃ意味はないんだよ」

  生きて帰らなきゃ――。
  その部分が、心に深く刺さりました。
 
  大好きだと言ってくれたマロウ。
  私だって同じ気持ちなのに、一度も想いを態度に出せなかった。
  そうだ。
  心のかけらを取り戻して、彼の心が戻ったら……。

  私は、マロウの顔をまっすぐに見つめて、大好きだって伝えよう。



  ばさばさ……っ。

  黒い鳥たちが、砂の上に舞い降りて翼をたたみました。
  そして、ぎゃあ、ぎゃあ、と一斉に鳴き声を上げました。
  子象は、その少し手前の位置で立ち止まると、ゆっくりとした動きで膝をつき、頭を下げ
  ました。

  「着いたよ」

  私は、母さまが言い終えるか終えないかのうちに、子象の背中から砂の上へと飛び降りま
  した。
  普段の私なら怖がって、母さまの手助けがなければ降りられないところです。
  「やれやれ」といわんばかりに、母さまが肩をすくめるのが視界の端に見えました。

  とにかく、少しでも早く、心のかけらを取り戻したかったのです。

  砂の上は、やはり、普段歩きなれた地面の上とは感触が違います。
  私は、何度か砂に足をとられながら、それでも歩を進めました。

  「あっ」

  私がそこで見つけたのは、ふわふわした丸い物体でした。
  たんぽぽの綿毛をたくさん集めて丸めたら、きっと、こうなるのだろうと思います。

  両膝をつき、私は手を伸ばして、そうっとすくい上げるようにしてそれを手に取りました。
  見た目通り、それはふわふわした触感でした。

  「見つけたようだね」

  砂を踏んで近寄ってくる気配に、私は振り向きました。
  黒いローブのすそに黄色い砂をつけながら、母さまが歩いてくるところでした。
  「母さま、これが……心のかけら?」

  そう尋ねた瞬間。
  私は、強烈なめまいに襲われました。



  ――……気がつくと、私は、小川のほとりに立っていました。

  ここは……前に、来た事がある?

  奇妙な既視感にとらわれ――そのうちに、私は思い出しました。

  そう、ここは、村の近くを流れていた小川です。

  砂漠にいたはずの私が、一体どうしてここに?

  わけがわからず戸惑っていると、ケープを羽織った、1人の小さな女の子がいることに気
  付きました。
  女の子は、こちらに背を向けてちょこんと座り、小川をじっと見つめていました。

  あなた、誰?

  私が見つめていると、女の子は、不意に横を向きました。
  その横顔を見て、私は息を飲みました。
  その女の子は――幼い頃の私だったのです。

  「だあれ?」

  幼い私が、声を上げました。

  すると、向こうから、同い年くらいの男の子がやってきました。

  金色の髪。紫水晶のような瞳。

  マロウ!?

  私は、声を上げたはずでした。
  けれど、上げたはずの声は、音としては響きませんでした。

  どうして、幼い頃の私とマロウがいるの――?


  「何してるんだよ、こんなところで」

  「川を見てるの」

  「変なの。面白いものなんか、なんにもないじゃないか」

  「でも、時々、鳥さんが水遊びするのよ。ほら」

  幼い私が指差した先では、小鳥が水浴びをしていました。

  「……鳥、好きなのか?」

  うん、と幼い私がうなづいた瞬間。

  私の視界が、ぐにゃり、とねじれました。




  「ミモザ、しっかりおし」

  ――母さまの声。

  我に返った時、私は、砂の上に座りこんでいました。
  ああ……。
  長いため息をつきながら、さっき見たあの風景に、思いをはせました。
  私は、あの風景を知っていました。

  忘れるものですか。私とマロウが、初めて会話らしい会話を交わした時のことを。

  「心のかけらに触れたからだよ。お前はマロウの心を垣間見たのさ」

  その声に我に返り、私は両手に視線を落としました。
  ふわふわした丸い物体――心のかけらは、どこか暖かい温もりを持っているような気がし
  ました。

  「まあ、個別に名をつけるとしたら、これは『思慕のかけら』とでもいうべきものだろうね」
  私は、、首を傾げました。
  母さまは、一体何を言っているのでしょう。
  「この心のかけらはね、マロウがお前を思慕するようになった時の、いわば心の記憶だよ。
  だから、『思慕のかけら』さ」
  「あの……母さまにも、見えていたんですか?」
  私が見ていた、あの風景。
  マロウと私が、初めて会話らしい会話を交わした時の風景を……。
  「ワシは魔女だからね」
  母さまはそう答えて会話を切り上げると、子象のもとへと戻り始めました。

  私も、行かなくちゃ。
  歩き出す前に、私は、もう一度心のかけらに視線を落としました。
  1つ目の、心のかけら……。

  あといくつ探さなくてはならないのか、それはわかりません。
  けれど、今、こうして、1つ目のかけらが見つかったのです。
  私は、ほんの少し希望を見出したような気持ちになりました。





                                葉月瞬


   母さまは再び次の行き先を決めるべく、ダウジングロッドと地図を取り出しました。これ
  は、探索の魔法なんだよと、いつだったか教えてもらった覚えがあります。
   母さまが地図を片手にダウジングロッドで行く先を決めている間、私はただただ母さま
  の成す事を見守る事しか出来ませんでした。
   あの恐ろしげな鳥さん達――母さまは使い魔と言いますが――は、今は上空に飛び立っ
  て私達の頭上を旋回しています。きっと行き先が決まるのを、待ってくれているのでしょ
  う。相変わらず私は、恐くて凝視できませんが。
   やがてダウジングロッドは一つの町の上で大きく揺り動きました。どうやら、砂漠のオ
  アシスの町を指し示しているようです。

  「どうやら、行き先が決まったようだよ」

   そう言って母さまはダウジングロッドと地図を懐に仕舞い込むと、子象に私を乗せたあ
  と自分も乗り、たずなを繰って進路方向を変えました。今度は北東に向かうようです。そう、
  私達はお日様の昇る方角へと向かっているのです。
   そういえば、この子象の名前を考えなくてはなりません。
   私がその事に思い当たって母さまに言うと、母さまは肯定とも否定ともつかない返答を
  返してきました。こういう時は何時だって私の思うとおりにして良いと言う事なのです。
  昔からそうでした。
   私は子象が立ち止まるまで何時までも飽きる事無く、子象の名前を考え続けました。こう
  していると、マロウの事を考えなくて済むので少し気が楽です。

  「…………ウィリー……」
  「は? 何か言ったかい?」
  「あ、いや、子象の名前……ウィリーってどうかなぁって」

   振り返りもせずに訊ねる母さまに、私は取り繕うように言いました。今までつまらない
  事に拘ってた自分を見透かされたようで、ちょっと恥ずかしかったから。だから私は取り
  繕うように、はにかんで笑いました。
   たくさんの名前達が浮かんでは消え、消えては浮かんで来て、結局最後に残ったのが
  「ウィリー」という名前でした。だからとても素敵な名前に思えたのです。母さまも
  「うん、良い名前だね」と言ってくれました。私は嬉しさの余り、ますます顔が綻ぶのを
  覚えました。



   そうこうしている内にとうとう、目的の町の入り口までやって来ました。
   町は砂防のため赤土で出来た外壁に覆われており、一見するとお城のようにもまた砦の
  ようにも見えました。私達の正面に見える入り口の門は、硬く閉ざされており、一枚岩で
  出来た重たい両開きの扉が行く手を塞いでいます。

  「母さま、どうしよう……」

   私は、母さまの小さな背中を仰ぎ見ました。不安な表情を顔一杯に浮かべて。

  「心配するでないよ。こんな時の為にワシが付いて来ているのじゃろ」

   母さまはそう言って私に微笑むと、金色の鍵の形をした杖を取り出し、扉に向かって一
  振りしました。するとどうでしょう。硬く閉ざされた扉は見る間に内側に開かれていくで
  はないですか。私はびっくりして口もきけませんでした。ただただ、目を見開いて事の成
  り行きを見守るばかりです。
   よくよく見ると、門扉の両端に聳える二つの塔の上にいる門の番人の人達も、口をあん
  ぐりと開けて目を瞠っているようでした。驚くのも無理はありません。扉が独りでに開い
  て行くのですから。私だって驚いているのです。
   母さまは門を潜るとき、上に控えている門番達に言いました。

  「ワシは南の町から来た南の魔女じゃよ! この町に探し物があって来た。通してもらうよ」

   母さまがそう凄んで見せると、門番達は驚愕の表情で二度三度頷きました。どうやら私
  達を無事に通してくれるようです。
   私は思わず、両端の塔の上の方に向けてお辞儀をしてしまいました。何となく無理やり
  通ってしまう事を心苦しく思ったからです。



   町に入ると、町の市場の活気より何よりも先ず猫が沢山いることに目が行きました。町の
  あちらこちらで、猫、子猫といわずあちこちで猫達が彷徨っているのです。恐らく30匹
  以上はいるのではないかと思われるぐらい、沢山居ました。
   私達は一先ずウィリーと名付けた子象を宿屋に預けてから、マロウの心のかけらを探し
  に町へと繰り出す事にしました。
   町は、砂漠の中にある町の割には清潔感が漂っていました。道と言う道は赤土を踏み締
  めて出来ていて、舗装されている訳ではないけれどしっかりと出来ていて歩きやすいので
  す。町の道と言う道が全て集まっているところ――町の中心部分には、まるで巨大な水溜
  り、湖がありました。町の人々の生活用水は、全てその湖で賄われているのだという事が
  一目見て解りました。皆、水を瓶[かめ]に汲んだり、洗濯をしたりして思い思いにオアシ
  スを使っています。

  「さて、探すよ」

   母さまは、ダウジングロッドを取り出すと、その場で一回りしました。まるで何かを探
  しているようです。その何かとは――言わずもがな、マロウの心のかけらの事です。
   すると、直ぐ目の前でダウジングロッドが反応しました。見るとそこには一匹の黒猫が
  居ました。黒猫はじっとこちらを見詰めると、一声ニャアと鳴くとそのまま裏路地へと逃
  げるように駆けていきました。母さまのダウジングロッドはその猫を追いかけるように大
  きく振れます。そのスマートな黒猫は、私たちが見守る中であっという間に居なくなりま
  した。

  「何をぼさっとしてるんだい! さっさと追いかけるんだよ」
  「あ、はいっ!」

   私は母さまに急かされるままに、黒猫を追い掛けて行きました。
   でも、もう後の祭りです。裏路地を見たときは、もう見えませんでした。黒猫が何処へ
  行ったのか私には解りません。私は途方に暮れました。そして暫く考えた末、漸く考えが
  纏まりました。
   私は出来るだけ沢山の人に先程の黒猫は何処へ行ったか、訊ねて回りました。すると、
  十人十色の答えが返って来ました。私にはそのどれもが本当の事で、嘘を付いている人な
  ど一人も居ないように思えました。だけど、母さまが言うには「この中に嘘を付いている
  者が一人いるね」とのことです。母さまが私に嘘を言う筈がありません。では、この中に
  嘘を付いている人がいる、と言う事になるのでしょうか。
   先ず一人目の証言では、「この裏路地を通って行ったよ」と言っていました。
   二人目の証言では、「そこの箱の陰に隠れたような気がしたなぁ」だそうです。
   三人目は、「裏路地を通って向こうの通りの左に行ったよ」と言っていました。
   四人目の方は、「そこの家の勝手口に入って行ったよ。本当だよ。この目で見たんだ」
  と自分の証言を殊更に正当化していました。
   五人目の方は、少し滑舌が悪いらしく何を言っているのかよく聞き取れませんでした。
  小さい男の子だったので、無理も無いと思います。
   猫は周りに沢山います。でも、そのどれもが黒猫ではなくてトラ猫とか三毛猫とか白猫
  だったりします。私はもう、如何したらいいのか解らなくなって縋る様に母さまを見まし
  た。そうしたら、母さまがヒントを与えてくれました。

  「五人目の少年は、何を言っていたのかねぇ」

   五人目の少年?
   五人目の少年は……確か「……お姉さん、何で黒猫を探してるの? 捕まえて何かする
  つもり? …………いいよ。何処へ行ったか教えてあげる。黒猫は、軒を伝って屋根に上っ
  て行ったよ……」って、言っていました。小さくて、余りにも小さい声で聞こえ辛かった
  けれど、確かにそう言っていたように思います。
   私は暫く考えて、そしてこう言いました。

  「私には皆本当の事に思います。でも、この中に嘘を付いている人がいるとしたら……五
  人目の少年だと思います。私は確かに裏路地に入って行く所を見ました。だから一人目の
  人の証言は本当の事です。それに裏路地を見たところ箱が積まれていました。だから二人
  目の証言の箱の陰に隠れた、と言うのは本当の事だと思います。三人目の方の証言は裏路
  地を通って向こうの通りの左に行った、と言うのですがこれも本当の事だと思います。私が
  見たとき猫は裏路地に居ませんでした。袋小路にもなっていなかったので、恐らく裏路地
  を突っ切って向こうの路地に出たのだと思います。四人目の方は……この町には猫が30
  匹以上居ます。だから多分四人目の方が目撃した猫は黒猫ではないと思います。で、五人
  目の少年は明らかに黒猫を庇っているような口調でした。だから、嘘を付いている可能性
  が高いです」

   私はそこまで一気にまくし立てると、一息つきました。私は心苦しいです。だって、嘘つ
  きを言い当てなければならないなんて。
   私が嘘つきを言い当ててみせると、母さまはにやりと笑うと、言いました。

  「どうやら、少年が黒猫を庇っている事はほぼ間違いないようだね。あの少年に訊いてみ
  るよ」

   母さまはそう言うと、さっさと少年の方へ行ってしまいました。私は母さまに付いて行
  きました。

  「何だよ」

   少年は私達をみとめると、驚いた顔で言いました。

  「あんた、黒猫の行った先を知ってるね。さぁ、とっととお言い」

   母さまは最初口の中で何事か呟いてから、少年に向かって言いました。多分、人から何
  事か訊き出す魔法だと思います。

  「知ってるよ。多分あの黒猫は泉の広場に行ったんだ。あそこが大のお気に入りだから。
  ……うわぁ!」

   少年は全て言ってしまってから驚いて口を閉ざす仕草をしました。驚くのも無理もあり
  ません。自分が隠し通そうとしていた事柄を、全部言ってしまったのですから。でも、母さ
  まの次の質問にも少年は抗う事が出来ませんでした。

  「少年、どうしてそんな事を隠そうとしたんだい?」
  「だって、あの黒猫は俺の友達だから……」

   少年が本当のことを言っているのは、間違いないです。だって、母さまの魔法が掛かっ
  ているのですから。

  「泉の広場ってのは……?」
  「そこの裏通りを抜けて向こうの通りを左に曲がっていった先」

   思ったとおりです。やはり三人目の言うとおり、向こうの通りを左に曲がって行ったの
  です。

  「何をぼさっとしてるんだい! 追いかけるよ!」
  「はっ、はいっ! 母さま」

   母さまに怒鳴られるまで私は呆けていました。だって私の言った事が本当の事だったん
  ですもの。自分でもまさか当たるとは思っていなかったので、ボーっとしてしまったのです。
   直ぐに母さまの後を追って走り出しました。
   その内いつの間にか母さまを追い越して、私が先頭を切って走っていました。
   もう、夢中です。
   確か、裏路地を出て直ぐの所を左と言っていましたね。左に曲がって暫く走ると途端に
  周囲が開けました。先程までの赤土が露わになった地面ではなくて、芝生が敷き詰められ
  ていて、目の前には泉、と呼ぶには余りにも大きな水溜りが広がっていました。向こう岸
  は見えますが、水深は深そうです。
   そして、目の前に一匹の猫が居ました。もちろん黒猫です。
   その黒猫は、水を優雅に飲んでいました。
   私はそっと後ろから近付いていって、抱きしめました。するとどうでしょう。黒猫が急
  に光りだしたのです。その淡い光は私を包み込み、そして――。



   気が付くとミモザの木が目の前に生えていました。そして、その木に登っている一人の
  少年が居ました。その子は私のよく知っている人でした。淡い金髪が眩しく映える、紫色
  の瞳の少年。そう、彼はマロウでした。幼年時代のマロウです。
   そのマロウが一生懸命になって木によじ登り、何かを手折ろうとしていました。木には
  黄色い花しか咲いていませんでしたから、きっとその黄色い花を取ろうとしているのでしょ
  う。
   彼は容易くミモザの花を手折ると、危うく落ちそうになりながらも何とか無事に降りら
  れました。そして、そのミモザの花を手にしたまま、麗らかな春の日差しの中へ走り去っ
  て行きました。
   何処へ行ったのでしょう。
   そう思った次の瞬間には場面が変わっていて、私の部屋の窓枠にそっとミモザの花を置
  いて走り去っていくマロウが居ました。
   何てことでしょう!
   私が不思議に思って受け取っていたあのミモザの花は、マロウが持って来てくれていた
  のです。そうとも知らず、私はずっと誰が持って来てくれているのか解りませんでした。
   私はごく自然に涙が溢れてくるのを覚えました。
   マロウが、マロウが私のためにしてくれた事――。
   ずっと、私が気付かないで居た事――。
   マロウ――。



   その時、私を包んでいた淡い光は一点に絞られ、私の掌の中に納まりました。
   涙を流している私を残して――。

  「そのマロウの心のかけらは、名前を付けるとしたら“情熱”だね。マロウのお前を思う
  心がミモザの花を贈るという行動に繋がったんだろうよ。それは、言わば情熱だよ。その
  マロウの心を大切にしておやり」

   これで、マロウの心のかけらは二つ目になりました。
   あと一体いくつ集めればいいのでしょう――。 





                               周防 松


  「二つ目の……かけら……」

  私は、放心状態で呟きました。
  頭の中が真っ白で、それ以上に何も浮かんでこないのです。

  そう。
  頬を伝う涙をぬぐおうとすら、思いつきませんでした。

  そんな私を現実に引き戻したのは、腕の中でもぞもぞと動く、ふかふかした感触でした。
  私は、ようやく、自分がまだ黒猫を抱いたままだということを思い出しました。
  そろそろ降ろして欲しくなったのでしょうか。
  なんとなく、私は黒猫の顔を覗きこみました。
  さっきは後ろからそっと抱きしめたので、初めて顔を見たことになります。
  顔を覗きこまれた黒猫は、私のことを金色の瞳で見つめ返しました。

  なんというのか……。

  私は、黒猫と見つめ合ったまま、しばらく固まってしまいました。


  猫嫌いな人は、違うと思いますが。
  猫を見たら、普通の人は『可愛い』と思うのではないでしょうか。

  でも、この黒猫は『可愛い』というよりも『堂々としている』とか、『貫禄がある』とか、
  そんな印象の猫でした。
  目つき……というか、顔つきが、雰囲気が。
  おまけに、額には十字の傷跡があって、よりいっそう貫禄のある印象を強めています。
  少々のことには、とても動じそうにありません。

  視点を変えただけなのに、こんなにも印象が変わるものなのでしょうか?
  水を飲んでいた時の姿は、優雅に見えたのに。

  考え込んでいると、いつまでたっても降ろしてくれない私に不快感を覚えたのか、
  黒猫は太い声で、うな〜あ、と鳴きました。

  突然捕まえたりして、ごめんなさい。
  大切な人の心のかけらを、探していたの。
  でも、もう見つかったから――。

  ありがとう。

  私は、そっと黒猫を地面に降ろしてあげました。
  黒猫は、一度私を振り返ると、とことこと広場の方へ去っていきました。

  振り返った時の口元が、にいっと笑っていた気がしたのは、果たして気のせいなのでしょ
  うか?



  ――その後。

  母さまと私は、ウィリーを預けていた宿屋に戻りました。
  これから、もう一つかけらを見つけるのだと思っていたのですが、母さまは「今日はもう
  休むよ」と言いました。

  空は、まだ夕暮れには遠い色をしています
  あと一つくらい、かけらを探してから休んだって、遅くはないはずです。

  私はそう訴えたのですが、

  「砂漠はね、日が落ちると、おそろしく冷えるんだよ。とてもじゃないけど、外になんて
  いられやしないよ」

  そう言われて、何も言えなくなりました。

  私は、お世辞にも体が丈夫だとはいえません。
  季節の変わり目には必ずと言っていいほど体調を崩し、高熱を出して寝こんでしまうので
  す。
  砂漠で夜を過ごすなんて初めてのことですが、母さまの言う通り、とても冷え込むのなら
  ――。
  私はおそらく、体調を崩してしまうことでしょう。

  母さまはきっと、それを心配しているのです。

  私は、悲しくなりました。
  どうして、私はこんなにも弱々しいのでしょう?
  やりたいことがあるのに、思ったように行動できないなんて。

  結局、その日は母さまの言う通り、宿に部屋を取り、街の屋台で簡単な夕食をすませ、いつ
  もよりもずっと早い時間に休みました。

  母さまと同じ部屋に眠るのは、何年振りでしょうか。
  引き取られてから10歳になるまでは、ずっと同じ部屋に寝ていました。
  私が、夜中に突然熱を出したりすることがあったからです。
  そのたびに、母さまは薬湯を作ってくれたり、しぼった冷たい布を額に乗せてくれりして
  くれました。
  そんなことが多かったせいか、小さい頃の私は、未来の自分、というものを想像できませ
  んでした。

  母さま以外に、ずっと一緒にいたいと思えるような、大好きな人が登場することも、想像
  していませんでした。


  そんな昔のことに思いをはせながら、眠りに落ちたなら――きっと、私はその頃のことを
  夢に見たことでしょう。
  けれど、私は、なかなか寝つけませんでした。
  目を閉じて、睡魔の訪れを待ち続けたのですが、いっこうにその気配がないのです。
  小さなため息をつき、私は何度も寝返りを打ちました。

  どのくらい、それを繰り返していたのでしょうか。
  どうしても眠れず、ついに私は睡魔の訪れをあきらめ、目を開けました。
  薄暗い天井が、視界に広がります。

  母さまは、眠っているのでしょうか。
  なんとなく、私は隣のベッドに視線を移し――異常に気付きました。
  隣のベッドに眠っていたはずの、母さまの姿がないのです。

  おかしい。
  確かに、母さまはそのベッドに眠ったはずなのに。
  母さまは、一体どこへ行ってしまったのでしょう?

  少し迷った末に、私はベッドから起き上がりました。
  さぞ肌を刺すような冷たい空気が流れているかと思いましたが、案外空気は暖かでした。

  部屋を出た私は、またさらに妙な事態に出くわしました。

  他のお客さんはおろか、宿屋の従業員まで見当たらないのです。
  私以外、ここには誰もいないのではないか、という気にさえなってきました。
  廊下の隅から、得体の知れない何かが出てきそうです。
  そう思うとなおさら、私は足がすくんでしまいました。

  その時、ぴいん、とハープの音色が聞こえてきました。

  「さあさあ、夜が来たよ、俺たちの時間だぜ!」

  誰かの声が明るく響き、それに答えるかのようにワーッと歓声が沸きあがりました。

  ……人が、いるのでしょうか?

  不安だった気持ちが和らぎ、私は安堵のため息をつきました。
  もしかしたら、今日はお祭りか何かがあったのかもしれません。
  きっと、宿屋に人が見当たらないのは、そのせいなのでしょう。
  母さまも、こっそり出かけたのかもしれません。
  そう思って、私は宿屋の外へと出てみました。

  ――そこで私が見たものは……。


  二本足で立った猫たちが、まるで人間のように行動している姿でした。
  通りでは会話をしながら猫が行き交い、屋台では主人とおぼしき猫が料理をし、お客さん
  らしい猫が飲み食いし、
  遠くに見える広場ではたき火をかこんで輪になって楽しげに踊り……その数は、ざっと三
  十匹以上にのぼるでしょうか。
  トラ猫や三毛猫、白猫に黒猫、ぶち猫……さまざまな毛皮の模様と毛の長さの猫がいます。
  聞こえてくるハープの音色は、やせたトラ猫が爪弾いて奏でているものでした。

  これは夢なのでしょうか?
  猫が二本足で立って、まるで人間のように振る舞っているなんて、あまりに現実離れして
  います。

  「――あ!」

  そのうち、猫の一匹が、私に気付きました。
  白地に、黒いベレー帽のようなぶちがある猫です。

  「に、人間だーっ!」

  その声で、辺りの様子は一転しました。
  楽しげで賑やかな空気は消えうせ、猫たちは大慌てで物陰や建物の中へと逃げ込みました。
  こちらの様子をうかがっているのでしょう。
  暗闇の中に、猫たちの光る丸い目がいくつもいくつも浮かんでいました。
  怯えているのか、その目は震えているように見えました。

  どうしたらいいのでしょうか。
  怖がらせるつもりなんて、なかったのです。

  「あ、あの……」

  とりあえず声をかけようとした時、

  「おう、どうした、お前ら」

  建物の影になった部分から、落ちついた声がしました。
  どうやら、またもう一匹、猫が現れたようです。

  「ボスッ、大変大変!」
  「人間がいるんです!」
  「早く追い出してくだせえ!」
  慌てた様子で、あちこちからわあわあと声が上がりました。

  「ほう、人間がまた迷い込んできたか」

  建物の影から、声の主らしき猫が現れました。
  つややかな黒い毛並みのその猫は、やけに堂々とした風格の持ち主でした。
  なぜか、細い木の枝を口にくわえています。
  泰然とした足取りで歩いてくると、ふむ、と呟いて私を見上げました。
  その時、私は黒猫の額に十字の傷跡があることに気付きました。

  ……十字の傷跡。
  思い当たるフシがあります。

  もしかして、この黒猫は……。

  「お前ら、安心しろ。こいつは悪い奴じゃあねえよ」
  その言葉に、物陰に隠れていた猫たちが、そ〜っと顔を覗かせました。
  「こいつはこの前の奴とは違う。大丈夫だから出て来な」
  黒猫はそう言うと、手近なところの木箱に腰掛けました。

  この黒猫は、どうやら猫たちのボスのようです。
  安心したらしい猫たちが、隠れていた物陰や建物から出てきて、再び、輪になって踊り、
  飲み食いし、話を始めます。
  その中を、明るいハープの音色が流れていきます。

  「あなた……昼間のあの猫、なの?」
  私は、木箱に腰掛けた黒猫に、おそるおそる尋ねてみました。
  すると黒猫は、にいっ、と口の端を上げました。
  「猫、なんて呼び方はやめてもらおうか。俺たちはただの猫じゃない。由緒正しい砂漠猫
  の一族だ。
  まあ、俺のことはボスとでも呼んでくれ」

  砂漠猫なんて、聞いたことがないのですが……ボスと呼んでくれ、というのでボスと呼ぶ
  ことに決めました。

  「あの……ボスさん、一体何がどうなってるのか、よくわからないんだけど……」

  「俺も先代から伝え聞いただけだから、詳しくは知らんがな。この街は夜になると結界が
  できて、人間の時間が止まるんだ。その間、俺たちが本来の姿で自由に行動できるように
  なる。
  ……まあ、時々、お前さんみたいにこっちに迷い込んでくる人間がいるんだが」

  私の質問に、ボスはヒゲを撫でながらそう答えました。

  「それじゃ、ここから人間のいる所に帰るためには、どうしたらいいの?」
  「朝まで待っていればいい。朝になれば、結界は消えるからな。
  ……それにしても、最近迷い込んでくる人間が増えたな。結界が弱くなってきたのかもし
  れん」
  「ボス、冷えたやつ、お持ちしました」
  「おう、すまねえな」
  ボスは、木製のジョッキを持ってきた猫にねぎらいの言葉をかけると、くわえていた木の
  枝を片手に持ち、くいっ、とジョッキの中身を飲み、気持ち良さそうに息を吐きました。
  「お前さんも飲むかい?」
  ジョッキを差し出されて、私は首を傾げました。
  「……中身、何なの?」
  猫が飲むものなのですから……ミルク、でしょうか?
  「これかい。マタタビ酒だ」
  ……お酒……。
  私は、黙って首を横に振りました。





                                 葉月瞬


  ――お前には、魔法の素質がある。

   昔、母さまからそう言われた事があります。
   コレも、その魔法の素質の成せる業なのでしょうか。
   私は今、不思議な場面に遭遇してます。
   町の中にあんなに沢山居た猫さん達が、二本足で立って歩いているのです。人間と同じ
  ように。しかも、今私の目の前に居る猫さん――ボスと言う名前の黒猫さんは私にマタタ
  ビ酒と言う物を勧めています。お酒は、私には飲めないので当然首を横に振って拒否の意
  思表示をしました。すると、ボスさんは残念そうに杯を引き下げます。
   この酒場ではまるで杯を差し出されたら受けるのが礼儀みたいな雰囲気で、それを拒絶
  した私は後ろからちくちくと刺すような視線を受けてとても居心地が悪いです。
   そんな刺す様な視線を背中に受けながら、私はふとあるものに視線が留まりました。
   それは、光るマタタビ酒でした。
   樽の中になみなみと湛えられたマタタビ酒の中に、何か光るものがあるようなのです。
   私はそっと覗いて見ました。
   その中には光り輝く丸い玉が入っていました。
   私は一瞬で、それがマロウの心のかけらだと判りました。何故だかは解りません。
   私はそっと、その光る玉をマタタビ酒の樽の中から取り出しました。お酒の匂いがして、
  ややもすると酔ってしまいそうでしたが、何とか我慢して胸の中に抱きしめます。そして、
  そっと温もりを感じていると、不意に記憶の断片がイメージとして私の中に降り注いでき
  ました。


      ◇◆◇◆◇


   12、3歳くらいの少女が同じ年くらいの少年と川の畔を二人並んで歩いているのが見
  えます。そう、二人が出会ったあの思い出の川です。
   二人は何を話すでもなく、頬を紅潮させて俯き加減に歩いています。川下に向かって。
   あれは、昔の私とマロウです。まだ恋人同士じゃなかった頃の。初々しいというか、懐か
  しい感じです。
   二人、どちらからとも無く手を繋いで歩いています。
   黙ったままで。
   いい加減口を開いたらいいのに、一向に話そうとしません。そればかりか、何だか恥ず
  かしそうにもじもじしているようです。傍から見ていて歯痒い事この上ないです。
   そう、私はあの時話そうと思っていた事を上手くマロウに伝える事が出来ませんでした。
   それはマロウも同じようで。
   二人とも黙々と歩いていました。
   あの時私は、心の鼓動が永遠に続くかと思われるほど止まらなくて、繋いでいる手から
  マロウに伝わってしまうのではないかと心配になってまたドキドキが強まっていくのを覚
  えていました。
   同時にどうしてこんなにドキドキするのかも考えていました。
   たった一言。
   「好きです」って、言うだけなのに。
   出会った時から「好きです」って。

   何時間そうして歩いていたでしょう。
   徐にマロウが立ち止まると、12歳の頃の私の方へ向き直って握っていた手をそのまま
  自分の唇に近付けていって、そして――。
   手の甲に口付けをしました。
   それは、ごくごく軽い口付けでした。騎士達がレディにやるような、そんな礼儀みたい
  なものもあったのかもしれません。
   その行為で躊躇いが弾けたように、マロウは真っ直ぐな視線を私に向けてきました。そし
  て、静かに口を開いてこう綴りました。

  「僕、前から君の事が好きだったみたいだ」

   余りの突然の事に、私はどう答えたらいいのか解りませんでした。暫く呆けていたかも
  しれません。
   これは、“告白”という奴なのでしょうか。
   ちょうど私も同じ事を言おうとしていたし、マロウと同じ気持ちだったので、私は静か
  に一つだけ頷きました。肯定の意味をこめて。
   私は嬉しさが込み上げてきて、思わずマロウに抱き付いていました。


      ◇◆◇◆◇


   そこで、マロウの記憶は途切れていました。
   光の玉は、いつの間にか消えていました。
   心のかけらを手に入れたのは、今までと同じいつも通りでした。でも、何だか様子がお
  かしいです。頭の中がぐにゃぐにゃして、世界が私の周りを回っているようなのです。顔も
  何だか火照ってきちゃって、まるで告白された時のようでした。マタタビ酒を鏡代わりに
  覗いて見たら、頬に朱が差しています。そう、私は顔を真っ赤にしていたのです。多分告
  白された時も、顔が真っ赤になっていたのでしょう。私は、もう如何したらいいのか訳が
  解らなくなっていました。実際、頭で考えようとしても考えられないのです。
   樽の前で頭を振り振り、フラフラしている私を見て、見かねたのかボスさんが私に言い
  ました。

  「おいおい、いくら剛毅だっつっても樽ごとは無理だろう。……お前さん、様子がおかし
  いが大丈夫か?」

   嗚呼、なんて優しいボスさんなのでしょう。
   私は、ボスさんの声を遠くに聞きながら意識を手放したのでした。


      ◇◆◇◆◇


   気が付くと、朝でした。
   私は酒場のカウンター席でうつ伏せになって、眠っていました。いつの間に眠ったので
  しょう。隣に居るはずのボスさんは居らず、あれだけ立って歩き回っていた猫さん達も、
  綺麗さっぱり居なくなっていました。ただ一匹、三毛猫が私の足元に擦り寄るように蹲
  [うずくま]っているだけでした。

  「私……どうしちゃったんだろう……」
  「手に入れたようだね。三つ目のマロウの心のかけら」

   私の呟きを掻き消すように掛けられた後ろからの声に、思わずびくりと体を震わせます。
  突然の声に不意をつかれた格好になってしまいました。
   私はそっと、声のした方を振り向きました。
   見なくても、その人物が誰なのか判ります。私がもっとも身近に感じてきた人物。いつ
  も私の事を温かい眼差しで見守っていてくれていた、人。
   やはり、声を掛けてきたのは、母さまでした。

  「母さま……? どうして、マロウの心のかけらを見つけたって、判ったの?」

   母さまはそれには答えず、静かに微笑むと私を労うように頭を二、三度撫でるとゆっく
  り言い聞かせるように語りだしました。

  「前にも言ったね。お前には魔法の素質があると。その、素質が今回の事を引き起こした
  のさ。――この街には、猫の結界というものが存在するようだね。お前は昨晩その、猫の
  結界の中に入り込んでしまったのさ。お前の魔法の素質がそうさせたのか、はたまたマロ
  ウの心のかけらが呼び込んだのか、それはワシにも解らないさ。けれど、これは偶然なん
  かじゃない、必然なのだとワシは思うね。お前の、マロウを想う気持ちが、心のかけらを
  呼び込んだのさ」

   最後の言葉は、私に向けられた優しい眼差しの中に溶け込みました。
   私がマロウを想う気持ち。確かなその気持ちが、マロウの心のかけらを呼び込む?
   私は、不思議な面持ちでした。
   確かに、母さまの言う通りかも知れません。だからこそ、私はマロウに対する自分の気
  持ちをもっとしっかりと強める事が出来たのでした。

   マロウが好き。
   マロウを愛してる。
   この気持ちは、何物にも変えられないのだから。




   まだ明けきらない空の下、私たちは出立する事にしました。
   母さまは言います。

  「ここから東に行ったところに、移動するオアシスがある。そこに行くよ」

   そう行って進路を陽の昇る方角、東へと向けます。
   私たちは、朱に染まりつつある空に向かって再び旅立ちました。
   頭上では、使い魔の鳥さんたちが東の空へと向けて飛び立っていきます。
   移動するオアシス。はたして、どんな所なのでしょう。私はまだ見ぬその場所を思い起
  こし胸が高鳴るのを覚えました。


      ◇◆◇◆◇


   道中、私が見たイメージを伝えたところ、母さまが教えてくれました。猫の結界の中で
  手に入れたマロウの心のかけらの名前を。
   それは、“勇気”です。
   告白する事のできる、“勇気”。 





                                周防 松


  出立した頃には朱に染まっていた空の色は、気がついた時には見なれた青へと変わってい
  ました。
  砂漠は、雨が降らない場所なのだそうです。
  そのせいなのでしょうか、空には一筋の白い雲も見当たりませんでした。

  移動するオアシスを目指し、私たちは砂漠を東へ東へと進んで行きます。

  「あ……」

  私は、かすかに声を上げました。
  突然、先導して空を飛んでいた使い魔さんたちが、一斉に急降下を始めたのです。
  翼をたたみ、砂の上に降り立った彼らは、ぎゃあ、ぎゃあ、と鳴き出しました。
  どうやら、あの場所にあるようです。移動するオアシスが。
  ここからでは遠すぎて、ただの点にしか見えないのですが。
  「あそこだね」
  母さまの言葉に、私は静かにうなづきました。
  「四つ目、なのね……」
  母さまは、使い魔さんたちの降り立った場所を目指してウィリーの手綱を繰りました。

  ……………………。

  私は、ふいに顔を上げ、きょろきょろと辺りを見回しました。
  何かが、聞こえるのです。
  はっきりとは聞こえないのですが……強いて言うのなら、横笛の音色に似ていました。
  どこか寂しげな、胸の奥に悲しみが広がるような音色。
  そしてその音色の聞こえてくる方角は、今まさに私たちが向かっている方角。
  そう、移動するオアシスのある方角から聞こえてくるのでした。

  ――オアシスの中に、そんな音色を奏でる何かがあるのでしょうか。
  思いを巡らせているうちに、ウィリーは使い魔さんたちの降り立った場所に到着しました。
  ウィリーの背中から降りてみて、私は圧倒されました。
  誰かが中へと踏みこむことを拒むかのように、緑がうっそうと生い茂っているのです。
  オアシスというよりも、まるで森のようです。
  乾ききった砂漠の中で、どうしたらこれだけの緑が育つのでしょう。
  人知を超えている、とはまさしくこのことではないでしょうか。

  「母さま、これが……?」
  「そうだよ。これが移動するオアシスさ」

  その時私は、ふと疑問に思いました。

  「近付いても大丈夫かしら?」
  「ん?」
  「だって、近付いたら、またどこかに移動しちゃうかもしれない……」
  何せ、移動するオアシス、などと呼ばれているシロモノです。
  近付いたその瞬間に移動されてしまったら、またこちらも移動しなくてはいけません。
  私たちを乗せているウィリーが、また歩かされることになるのです。
  そんなのはかわいそうです。
  しかし、母さまは小さく笑いました。
  「それは大丈夫さ。このオアシスはね、『移動する』なんてくっついてるけど、ただ単に
  日が沈んだら別の場所に移動するだけなんだ。四六時中移動してるわけじゃない。だから、
  今は移動しないよ」
  良かった……。
  それなら、安心です。
  私は、ふう、とため息をつきました。


  フィィ………。


  生い茂る緑の向こうから、またあの音が聞こえてきました。
  近付いたせいなのか、さっきよりははっきりと聞こえます。
  「母さま、この音は何かしら?」
  私が尋ねると、母さまは首を傾げました。
  「音、だって? どこから聞こえてくるんだい、そんなもの」
  意外な言葉に、私は目を丸くしました。
  母さまには聞こえていないのでしょうか。
  「どうやら、お前にしか聞こえないようだね」
  私の反応を見て、母さまはしばらく考え込みました。
  「おそらく、かけらに関係しているんだろうね。もしかしたら、お前を呼んでいるのかも
  しれない」

  マロウの心のかけらが、私を呼んでいる……?

  私は、ごくりと喉を鳴らしました。
  一体、このオアシスの奥には何があるのでしょう。
  どんなことが待ち受けているのでしょう。
  草木の向こうは薄暗く、奥の様子はうかがえません。
  「怖いのかい?」
  尋ねられて、私は首を横に振りました。
  「ううん……ちっとも」
  だって、ここにはマロウの心のかけらがあるのです。
  あの人の心のかけらが、私を呼んでいるのです。
  そう思えば、怖くなどありません。


  私は、意を決してオアシスへと足を踏み入れました。





                              葉月瞬


   私は鬱蒼と茂った木々の間を歩いています。まるで、笛の音に導かれるように。
   お日様の陽が新緑に透かされて、翡翠色に輝いています。
   木が生い茂っている所は程よく陰になっていて、砂漠の強い日射しもなりを潜めていま
  す。その木陰の気持ち良さを一身に受けながら、私は木立の奥へ、奥へと歩を進めます。
  母さまの制止の声も聞かずに。
   母さまは心配しているけれど、私に解っていました。この笛の音の正体を。この笛の音
  は、マロウの心が奏でているのです。多分、きっとそう。だから私は、安心して歩を進め
  て行きます。緑の洪水の中を。確かな足取りで。笛の音が私を導いてくれるから、迷路の
  ような森の中を迷う事も無く歩いて行きます。
   鬱蒼とした緑のトンネルがどこまでも続いてます。深緑色の蔦が幾重にも垂れ下がり、
  木々は何重にも重なって緑色を深めてます。上空を透かして見ても空が見えるどころか重
  なった葉で影が出来ています。葉の重なりが薄くなっているところは丁度翡翠色に見えて
  とても綺麗ですが。
   私はふと、この森が砂漠に入る前に通って来たあの森のような気がして少し足が竦んで
  しまいました。でも、ここがあの森である筈が無いのです。だってここは動くオアシスな
  んですもの。だから、私は気を取り直して歩き続けました。



   程なくして私は滾々[こんこん]と湧き出る泉を発見しました。それは、森のほぼ中央付
  近にありました。
   私はそこで目を疑うような光景に出くわしました。
   泉のほぼ中央に、オカリナが宙にぽっかりと浮かんでいるのです。
   私は何度も目を瞬きました。手で擦ってみても、手を透かすように見ても、薄目で見て
  も、それは紛れもなくそこに浮かんでいました。そして、そこにあるのは、オカリナだけ
  なのです。奏者も何もない、オカリナだけでした。オカリナだけが宙に浮かびながら、先程
  から聞こえてきているメロディーを奏でているのです。
   私は暫し呆然と佇んでいました。
   恐らく間抜けな顔をしていたでしょう。
   そうして、暫くそのメロディーを聴いているうちにふと何かに思い当たりました。
   そのメロディーは、マロウがよく私に聴かせてくれたあのメロディーだったのです。マロ
  ウがよく自分のオカリナで吹き鳴らしていたあの、メロディー。私は懐かしさの余り、涙が
  零れ落ちました。

  「マロウ……」

   私が呟きを漏らした途端、光に包まれていました。


       *△▼*


   閉じていた目を開けると、そこはクロツグミの巣がある木の前でした。
   木を目の前にして金髪の女の子が一人立っていました。心配そうに上を見上げて、時折
  覗き込むようにしてます。あれは、私です。幼き日の。鳴き声が美しいクロツグミをしき
  りに気にしているのです。何がそんなに気になるのか。それは、自分でも解りませんでし
  た。ただ、新しい命が生まれた事に不思議と好奇心が疼いたのです。それでずっと、観察
  していました。

  「あ」

   少女はふと何かに気付いたようです。そして咄嗟の初動作で走り出しました。両手を前
  に突き出して。そして滑り込んだのです。膝が擦り剥けようとも、服が汚れても摩擦で擦
  り切れても、そんなことは気にならないようでした。
   閉じた両手を静かに開くと、そこには一羽の雛鳥がいました。茶褐色の雛鳥は弱々しげ
  にピィピィ鳴いています。
   少女は、巣から落ちた雛鳥を受け止めたのです。雛鳥が無事な姿を見て、安堵の吐息を
  漏らす少女。それが少女の優しさでした。
   ところが、少女は雛鳥を無事に保護したところで、たちどころに困ってしまいました。
  雛鳥を木の上にある巣に戻せないのです。その頃の私は木に登るなんて考えてもみなかっ
  たのです。
   少女が木の下で雛鳥を手中に収めながらウロウロしていると、マロウが気付いた様子で
  近付いて来ました。

  「どうしたんだい? ミモザ」
  「マロウ……。雛鳥が……巣から落ちて……」
  「解った。それを元に戻したいんだね。僕が戻してあげるよ」

   貸してと差し出したマロウの掌に、少女は雛鳥をそっと置きました。マロウに託したの
  です。マロウは見る間に木の上に昇っていって、雛鳥を巣に戻しました。そして難なく下
  へ降りて来ると、少女に向かって笑いかけました。その笑みはまるではにかんでいる様で、
  照れ隠しのようでした。





   場面は変わってここはミモザの木の下です。
   ミモザの木の前で、少年と少女が向かい合っています。二人とも黙っていても顔が上気
  していて、胸の高鳴りがはっきりと聞こえてきそうです。
   最初に口火を切ったのは、マロウでした。

  「君を護るのが僕の使命だと思っているよ。僕は君を護る……ずっと……」

   そういうとマロウはミモザを抱きしめました。まるで何かから護るように。強く。


       *△▼*


   そこで光は急速に収束していって、私の掌の内に収まりました。
   私は気が付くと泉の上に立っていて、光の球体を大事そうに抱えていました。瞳を閉じ
  て思いを馳せます。マロウが大事に思っていてくれたあの時の事。私の事を護ってくれる
  と言ってくれた、あの時の事に。私は熱いものが溢れてくるのを覚えました。

  「見つけたようだね」
  「母さま」
  「お前が見つけたその欠片は、“守護”だね。愛するものを護ろうとする、大切な心――」





                               周防 松


  母さまのダウジングが次に導き出した場所は、砂漠の中心でした。
  私達は、オアシスでウィリーを充分に休ませてから、そこへと向かいました。

  「ミモザ、あそこが次のかけらのある場所だよ」

  母さまの言葉に、私は顔を上げました。
  黒い鳥さん達が、一斉に舞い降りた場所――そこには、一隻の大きな船が見えました。
  「……船?」
  そう、前方に見えるそれは、紛れもなく船でした。
  ただ、船と言っても金属の部分は全て錆び尽くしていて使いものになりそうもない、廃船
  のような船でしたが。
  私は首を傾げました。
  船は、海を渡るための乗り物のはずです。
  それがどうして、砂だらけの砂漠にあるのでしょうか。
  「母さま、もしかしてここは昔、海だったの?」
  「違うよ。あれは砂航船と言ってね、砂漠を渡るための船さ」
  「砂航船……」
  聞きなれない言葉に、私はうつむいて考え込みました。
  船が砂漠を渡る様子が、どうしても想像できなかったのです。

  「大昔のことだけどね……この砂漠には、王国があったんだ」

  そんな私に、母さまはこんな話をしてくれました。

  その昔。
  この砂漠には一つの王国がありました。
  その王国は魔法を使った技術が発達していて、大陸のどの国よりも進んだ文明を持ってい
  ました。
  しかし、ある日突然、その王国は砂に飲まれて消えてしまいました。
  どうして、王国が突然消えてしまったのか。
  いろいろな憶測が飛び交いましたが、一番有力なのは、『魔法の技術を高めるあまり、禁断
  の<神様の領域>にまで踏みこんだので、神様の怒りに触れて滅ぼされてしまった』とい
  うものだそうです。

  猫の結界。
  移動するオアシス。
  そして、今目の前にある砂航船。
  砂漠に残る数々の不思議なものは全て、その王国の文明の名残なのだ、と母さまは締めく
  くりました。

  「砂漠って、不思議なところなのね」
  聞き終えた私が呟くと、母さまは曖昧に頷いて「さあ、降りよう」と言いました。
  私は、母さまの態度にほんの少し違和感を覚えました。
  母さまは、いつもはっきりと物を言う人なのです。
  何かを曖昧にして流してしまうということは、滅多にない……いいえ、初めてのことのよ
  うに思います。
  しかし、私がそれを口にする前に「早くしな」と促されたので、私はウィリーの背中から
  降りました。
  きっと、私の考え過ぎでしょう。
  そう思うことにしました。

  砂の上に降りて見上げた船は、ウィリーの背中から見た時よりもさらに大きく見えました。
  一体どこから入れば良いのでしょう。
  甲板は遥か頭上にあってとても登れそうにないし、窓らしいものも見当たりません。
  私が途方にくれていると、不意に、腰のあたりに何かが巻きついてきました。
  「きゃあっ」
  思わず悲鳴をあげて――私はそれがウィリーの長い鼻だということに気付きました。
  そしてそのまま、私の体は上へと持ち上げられ、甲板と同じぐらいの高さにまで達しまし
  た。
  ウィリーは、悩んでいる私を見て、助けてくれたのでしょう。
  「ありがとう」
  無事に甲板に降り立った私は、ウィリーの鼻先をなでてお礼を言いました。
  「どういたしまして」とでも言うように、ウィリーは、ぱぉん、と一声鳴きました。
  私は、辺りを見回しました。
  甲板の上に、かけらがあるかもしれないと思ったのです。
  しかし、あいにく甲板の上にそれらしいものはありませんでした。

  「どうやら、かけらは船の中にあるようだね」

  いつの間にか甲板に来ていた母さまが、とある方向をじっと見て呟きました。
  母さまの視線の先には、船内に降りるためのものと思われるドアがありました。
  「船の、中……」
  私は、ドアに近付き、取っ手を握って引っ張ってみました。
  きしむ音を立てながらドアは開き、そこには砂だらけの古びた階段が、船内へと向かって
  続いていました。
  階段の奥の様子をうかがっていると、船内からひんやりした空気が流れてきました。
  私の髪とスカートのすそを揺らしたその流れは、ここが砂漠の中心だということを忘れて
  しまうほどの涼しさでした。

  不気味なものを感じましたが、ここで戻るなんてことはできません。
  マロウの心のかけらを、何としても見つけ出さなくてはいけないのです。
  意を決して、私は階段へと一歩踏み出しました。

  「お待ち」

  母さまの声に、私は二歩目を踏みとどまりました。
  ほどなく、私の頭上に、ほんわりと光る球体が現れました。
  「中は暗いようだからね、明かりがないと不便だろう」
  どうやら、母さまの魔法のようです。
  「ありがとう、母さま」

  私は、きゅっと表情を引き締めると、壁に手をつきながら階段を降りていきました。





                                 葉月瞬         


   私は、母さまの灯してくれた魔法の明かりだけを頼りに階段を降って行きます。
   一歩一歩確実に。足元を確認しながら。
   階段は一段一段に砂が積もっていて、ともすると足を取られそうになります。また、所々
  朽ちて崩れている箇所があって、気をつけて歩かないと階段から落ちそうになります。
  それもそのはず。階段は――階段どころかこの船の甲板、廊下、壁、いたるところが木で
  出来ていたからです。そう。この船は機関部を除いて全部木造だったのです。
   ギシギシと嫌な軋み音をたてて、私は降って行きます。
   壁に手を付きながら。
   一番下に降り終えた時、私の目の前に暗闇に沈みこむ廊下が現れました。それは真っ直
  ぐ続いていて、ちょっと不気味でした。両側には等間隔に木製の扉があつらえてあります。
  その一つ一つに金属の取っ手が付いています。半分取れかかっているものもあれば、完全
  に取れて下に落ちているものもあります。扉は良く見ると、朽ちて穴だらけでした。穴か
  ら中を覗いてみると、どうやら船員達の船室だったらしくボロボロのシーツを上に乗せた
  朽ちかけた二段ベッドが並んでいました。
   私は恐かったけれど、勇気を振り絞って奥へと進む事にしました。闇がにやりと笑った
  ような気がします。何かが出て来そうで恐いです。でも、マロウの心の欠片がここにある
  なら、私は足を竦めている訳にはいかないのです。
   私が軋む床を踏み締めて奥へ進むと、付き添うように母さまが出してくれた光球が付い
  てきます。淡い光が闇を押し返していきます。それに勇気付けられるように私は一歩一歩
  進んで行きました。

   船室は全部で11室ありました。
   途中下へ続く階段と、上へ続く階段があって、下を除いてみたら倉庫みたいな所と機関
  室がありました。そこだけ鉄の扉で遮られていました。鉄の扉は錆びて赤く染まっていま
  す。上へ続く階段は、操舵室へと続いていました。半分崩れかかった取り舵が寂しげな音
  を奏でています。
   左右に等間隔に並ぶ扉の群れの間を歩いて、一際立派な造りの扉に行き当たりました。
   そう、その重厚な扉の上には“船長室”と書かれていました。
   私は意を決して、その華美な装飾を施された扉をゆっくりと開いていきます。
   開いた扉の奥には重厚な文机が置いてありました。華美な装飾などされておらず、かと
  いって何の装飾も成されていないという訳でもない、妙に存在感のある机でした。まるで
  この部屋の主の如く、そこにどっしりと構えています。室内には文机の他に書棚やボロボ
  ロになった航海図などもありました。机の背後には大きな窓があって、格子状に木の枠組
  みが施されています。窓の左右にボロボロのカーテンがだらしなく垂れ下がっています。
  生地はビロードのようでした。
   私はその机にゆっくりと近付いていきました。
   近付いてみて初めて気付いたのですが、机の上には何かの本が乗っていました。
   私は知らず知らずのうちに、その本を繰っていきます。



  ***********************************

  ○月×日

   ミモザ……君を愛してる。
   今日そのことを両親に告げたら、酷く反対された。
   僕はどうなっても良いのに、家の事しか考えていない家族達は皆反対する。
   こんな家、無くなってしまえば良い。
   こんな世界、壊れてしまえば良い。
   例えこの世界が終わっても、ミモザ、君の事だけは愛してる。


  ○月△日

   愛ってなんだろう。
   愛って他人に与えるもの?
   愛って他人から奪うもの?
   愛って、人に尽くす事?
   人を愛する事って一体、なんだろう。
   愛とは、何にも変え難いものではないのか?

  ***********************************



   そこでページは破られていました。
   それは、日記でした。
   日記の裏側には、手書きで「マロウ」と書かれていました。
   私は胸が一杯になり、目に涙を溜めてその日記を抱きしめました。
   日記は私が抱きしめた途端、眩いばかりに光って私を包み込みました。
   私は、意識が朦朧とするのを覚えました。これは、いつものやつです。マロウの欠片を
  手にしたときに見る幻の時の。それと同じ感覚を覚えて、私はまた再びマロウの幻――心
  の幻影を見るのだと自覚しました。



       *△▼*



   大きな館が見えます。
   その中で一人の青年と、壮年の紳士が言い争っています。
   青年の方は言わずもがな、マロウです。壮年の紳士は、マロウの父親です。何でも村を
  治めている村長の家系で、村の名士なんだそうです。以前母さまが教えてくれました。
   マロウのお父様は、マロウと同じく蜂蜜色の髪の毛で、口髭を蓄えています。何か酷く
  怒鳴りつけている様で、口を大きく開けています。その怒鳴り声の矛先は勿論、マロウで
  す。
   マロウも負けじと言い返しています。
   何だか凄く、居心地が悪いです。見ていて気分が悪くなってきました。
   家族なのに。
   世界でただ一人の肉親なのに、怒鳴りあうなんて。私には考えられません。
   私は知らず知らずのうちに悲しみが込み上げてきて、涙が溢れてきました。
   もうやめて!
   何度そう叫んだことか。でも、私の声はマロウにもマロウのお父様にも届きません。そう、
  これはマロウの心の欠片が見せる幻影なのですから。

  「お前は、まだわからんのか! ミモザなどという何処の馬の骨ともつかない娘など!」
  「ひどい! ミモザをそんな風に言うなんて! もういい! 父さんなんか嫌いだ!
   こんな家大嫌いだ!」

   マロウが邸を飛び出してきました。
   そのまま走り去って行きます。お父様の声などまるで聞こえないかのように。

   そして、マロウはいつものように私の所へやって来ました。
   いつもの笑みで。
   いつも通りに。
   内に秘めた悲しみなどまるで感じていないかのように、笑顔で私に接してくれます。あの
  頃――何も知らなかったあの頃の私に。マロウの心の内などまるで見えてなかった、あの
  頃の私。ただ、マロウと一緒に居られるのが楽しくて仕方が無かったあの頃の私。
   マロウは笑いながら私に話しかけてくれます。
   今まで読んだ本の話。
   今まで経験してきた面白おかしい話。
   それから、今日あった出来事。
   自分の父親と喧嘩した事は伏せて、話してくれました。
   遠くから見守る私は、涙が零れ落ちるのを覚えました。マロウは私に心配を掛けさせま
  いとして態と明るく振舞っているのです。心に負っている傷を庇いながら。その痛みを知っ
  たから。その苦しみが解ったから私は涙しているのです。
   昔の私はただ知らずに微笑んでいます。楽しげに。まるでマロウの気苦労など知らぬよ
  うに。


   場面が急に変わりました。
   数日後、マロウの部屋の中です。
   マロウは日記をつけています。それを静かに閉じると、既に荷造りしていた荷物を手に
  持って部屋を出て行きました。
   何のための荷物なのでしょう?
   そのまま彼は二度とこの部屋に戻ってはきませんでした。
   後に残されたのは、書置きが一枚だけ。

  ****************************************

   僕は、この家を出る事にしました。
   ミモザと一緒に生きていく事に決めました。
   ミモザへの愛は変わらないものだから。
   だから、僕を探さないで下さい。

  ****************************************

   あの時、彼は笑っていました。
   あの時、彼は私の洗濯の手伝いを快く引き受けてくれました。
   あの時、彼が荷物を持って来ていたなんて、私は知る由も有りませんでした。
   あの時、彼は私と駆け落ちをしようとしてくれていたのです。

   私は、また、知らず知らずのうちに涙していました。



       *△▼*



   私は、はらりとその場でくず折れました。
   何てことでしょう。
   私は何も知りませんでした。
   マロウの事を知っている風でいて、ぜんぜん彼の事を理解しては居なかったのです。
   彼が、あの時、私と駆け落ちしようとしていたなんて!
   私は、涙が止めども無く溢れてくるのを抑える事が出来ませんでした。悲しさと嬉しさ
  が入り混じって、なんだかよく解らなくなってきました。
   私が泣いていると、いつの間にか母さまが後ろに立っていてそっとハンカチを差し出し
  てくれるのでした。私はそのハンカチで涙を拭いました。母さまのそんな優しさが、私は
  好きです。そんな優しい母さまを、私は裏切る事など出来ません。いくらマロウの事を好
  きでも、駆け落ちなんて出来そうにありません。そう考えたら、またまた涙が溢れてきま
  した。

  「いいよ。好きなだけお泣き」

   母さまは優しくそう言ってくれます。
   嗚呼。母さま。私は、母さまとマロウのどちらを取ればいいのでしょう。
   人を愛する事って一体何なのでしょう。

  「今の、“愛”だね。マロウの“愛”」

   私が流した涙もそのままに、母さまが何を言っているのか理解できなくてきょとんとし
  ていると、母さまははにかむ様な笑みを浮かべて続けました。

  「いやさ、マロウの心の欠片の名前だよ。今のお前が見た幻は、マロウの愛情が見せたも
  のだよ」

  「愛――。マロウ、私の事愛してくれていたんだ」

   私はもう堪え切れないというように、両手で顔を覆い隠しました。涙が後から後から流
  れ出てきます。胸が締め付けられるようで苦しくて、どうしようもありません。
   母さまはそんな私を慰めるように頭に手を置いて優しく撫でながら、言いました。

  「好きなだけお泣き。ワシの事などいいから、マロウと幸せにおなり」

   そんな母さまの言葉にはっとなって私は顔を上げました。そうしたら母さまは静かに微
  笑んでいました。まるで何もかも解っているような、優しい微笑。私は全部解っちゃいま
  した。母さまは全てお見通しだったのです。私の気持ちも、マロウの気持ちも。

  「母さま、私――」

   私はそれ以上、言葉を続ける事が出来ませんでした。母さまの優しさに触れて、胸が一
  杯です。そのまま何も言わずに母さまに抱きつきます。母さまは優しい胸で私を受け入れ
  てくれました。



   私達二人、ウィリーの所に戻って来ました。
   そこで母さまは、ダウジングロッドを再び取り出しました。
   けれど、今度はピクリとも動きません。どうしたことでしょう。
   その様子を見て母さまは私に向き直って言いました。

  「これで、マロウの心の欠片は全部集めきったようだね。さあ、村に帰るよ」

   私は首肯で返しました。





                               周防 松


  砂漠を出て、およそ7日後。
  村に到着したのは、夜になってからでした。

  村に戻った私は、真っ先に家へと向かいました。
  私の部屋に横たえたマロウのところへ、ですが。
  暗い室内に明かりを灯すことももどかしく、私は暗い家の中を進みました。
  ほどなく、私の部屋の前まで辿りつきました。
  ドアの前で、私は一つ、深呼吸をしました。
  このドアの向こうに、マロウがいるはずです。
  私の大好きな、あの人が。

  まっすぐ前を見て、顔を見よう。
  そして、大好きだって、そう伝えよう。

  私は、意を決して、ドアを開けました。

  部屋に入ると、マロウは……最後に見た時と同じように、ベッドに横たわっていました。
  途端、私は全身の力が抜け落ちていくような感覚を覚えました。

  心のかけらは、全部集めたはずなのに。
  どうして……どうして、旅に出た時と変わらず、マロウは横たわったままなのでしょう?

  思い出すのも辛い、あの時のことが胸をよぎります。
  ラフレシアさんの魔法から私をかばって、心を砕かれてしまったマロウ。
  ぼんやりと私に向けられた、暗くよどんだ色の瞳――。

  「マ、ロウ……?」
  ああ、神様。
  どうか、どうか、私の悪い考えなど当たりませんように。
  私は、おずおずとマロウの頬に手を伸ばしました。
  すると――マロウのまぶたが震え、ゆっくりと開いていきました。
  その瞳は、心を砕かれてしまった時のよどんだ色ではなく、綺麗な紫水晶のような瞳でし
  た。
  「マロウ……大丈夫? 私のこと、わかる? 」
  「……うん」
  マロウは、ゆっくりと半身を起こして私を見つめ――ふわり、と微笑みました。
  「おはよう、ミモザ」
  その言葉を聞いた途端、私は、嬉しさのあまり抱き付いてしまいました。
  懐かしい温もりに、思わず涙がこみ上げてきます。

  「あのね、マロウ、私、私……!」

  言いたいことがたくさんあって、伝えたいことがたくさんあって――そのくせ、ちゃんと
  した言葉にまとめきれなくて、私はバラバラに言葉を並べ立てました。
  マロウは、そんな私の背中を撫でて、こう言いました。
  「知ってるよ。全部、見ていたから」
  「え……?」
  顔を上げると、マロウが優しい目をしていました。
  「眠っている間、ずっと、夢で見ていたんだ。ミモザが僕のためにしてくれたこと、全部」

  マロウは、そう言って私の手を取りました。
  その瞬間、思わず、頬が熱くほてり始めました。
  いけない、マロウに大好きだって伝えようと思っていたのに!

  「あ……あのっ!」
  声は、思いがけず大きなものでした。
  マロウが、ほんの僅かに目を丸くしています。
  きっと、驚いたのでしょう。
  いつも真っ赤になってうつむいてばかりの私が、無理矢理に顔を上げているから。

  「ご、ごめんなさい、あの……私、私ね、伝えたいことがあるの……」
  マロウは、わずかに首を傾げていましたが――すぐにいつものように微笑んでくれました。
  「うん、聞くよ」
  その微笑みは、私に勇気をくれました。
  照れて恥じらって、真っ赤になってうつむいているばかりだった、昔の私から脱却する、
  勇気を。
  伝えたい想いを伝える勇気を。
  私は、胸に手を当てて深呼吸をしてから、口を開きました。

  「あなたが、大好きです……だから、ずっと、私と一緒にいてください」

  「本当は、僕が言おうと思っていたんだけどな、その言葉」
  マロウは、はにかんだような表情を浮かべていました。
  そんなマロウを見るのは、初めてでしたが――不快感や幻滅などというものは微塵も感じ
  ませんでした。
  むしろ、彼の新しい一面を見ることができて嬉しく思いました。
  そして、一層、愛おしさがこみ上げてきました。

  「僕の方こそ、君に一緒にいて欲しいんだ。同じ物を見て、同じ時間を過ごして……そう
  やって生きて行きたい。いいかな?」

  その言葉は、私の心にすうっと染みこみました。
  私はただもう、小さく頷くのがやっとでした。
  でも、お日様に干したふかふかのクッションに包まれているような、そんな気持ちで一杯
  でした。

  「駆け落ち、するんだね」

  母さまの声にハッとして顔を上げると、母さまがドアのところに立っていました。
  敵意や悪意とは違うのですが……なんとなく、その表情は仏頂面でした。

  「――はい」
  マロウが、表情を引き締めます。
  私は、なんとなく緊張していました。
  母さまは、「ワシの事などいいから、マロウと幸せにおなり」と言ってくれましたが――
  急に考えが変わっていたらどうしよう、とそんなことを思ったのです。

  「ミモザは、ワシの娘だ。不幸なんかにしたらタダじゃおかないからね。そこは覚悟して
  おいで」

  「不幸になんて、絶対にしません」
  マロウは、母さまをまっすぐに見つめました。

  「初めて出会った時から、僕が護るんだって、そう決めていたんですから」

  その言葉に、私は思わず赤面しました。




  そして――


  淡い月明かりが照らす森に、私とマロウはいました。
  1頭の馬の背に乗って、出口へと向かっているのです。
  手綱を握るのは、マロウです。
  私は、マロウの背中に乗っていました。


  「マロウ……いいの?」
  私は、背中越しに見えるマロウの横顔を見上げました。
  今更、と言われそうですが、どうしても気にしてしまうことがあるのです。
  「何が?」
  「だって……マロウは、村長の息子でしょう? それに、頭も良いのに……私なんかのた
  めに、捨ててしまっていいの? 何もかも……」

  村の名士でもある村長の息子。
  マロウの性格や頭の良さなどを考えれば、もっと高い地位につくことだってできるはずで
  す。
  彼には、それだけの才覚があるのですから。

  でも、私と駆け落ちをするということは、それらを全て捨ててしまう
  ということなのです。
  彼を愛している気持ちに、嘘や偽りはありません。
  でも、私のために、マロウの将来を犠牲にしてしまうのだと思うと、
  胸が痛むのです。
  自分に、そこまでされるほどの価値があるかどうか……そう考えると、
  尚更に。

  「だって、それはミモザがいない世界なんだよ。そんなもの、意味なんかないよ」
  後ろから見上げたマロウの横顔は、まっすぐで迷いがありませんでした。

  「父さんは、お金や高い地位があってこそ幸せがあると思ってる。だけど、僕は小さい時
  からそれは違うって思ってた。だって、本当にそれで幸せになれるのなら、母さんは家を
  出ていったりしなかったはずだから」

  私は、胸のどこかにトゲが刺さったような感覚を覚えました。
  マロウのお母様は、まだ幼い彼を置いて家を出てしまったのです。
  幼かったマロウの心は、さぞ痛めたことでしょう。

  「父さんに言われたよ。『あんな娘と一緒になって、幸せになれるものか』って――でも、
  僕、思うんだ。誰かが誰かの幸せを決めることなんて、できない。幸せかどうかを決めら
  れるのは、本人だけだ。
  僕の幸せは、僕が決める」

  マロウの言葉には、強い意志のようなものが感じられました。

  「僕の幸せは、ミモザと一緒にいることなんだ」

  私は、マロウの背中に頬を当てました。
  温もりと一緒に、心臓の鼓動が聞こえてきます。
  ――生命の、脈動。

  「あの、ね……」
  「ん?」
  「私も……同じ」
  マロウの心臓の鼓動を聞いていると、なんだか安らかな気持ちになります。
  私は、そっと目を閉じました。

  「私の幸せもね……あなたと一緒にいること、なの……」



  ただお願い事をするだけではいけないのは、わかっています。
  私だって、マロウの側にいられるように努力します。
  大好きなこの人に、ふさわしい人間になれるように。


  ――だから。


  幸せに、なれますように。





                                葉月瞬


   ここ数十年、私は幸せでした。

  「僕の幸せは、ミモザと一緒に居る事なんだ」

   そう言ってくれたあの人は、もうこの世の人ではありません。
   永遠の親友であり、永遠の恋人であったマロウ。その彼は、永久[とこしえ]の床につい
  て幾年か経っていました。



   *■□*



   村を出た私達が先ず目指したのは、永住するのに相応しい土地でした。村の者達に見つ
  からなくて、住み心地の良い土地。村から遥かに離れていて、辿り着くのに困難な土地。
  方位で言うと、村から見て北北西の方角を目指していました。そこが一番村から遠かった
  からです。
   森を抜けた私たちは、今度は沼地に入ります。私がマロウの心の欠片を探す旅に出た時
  と、同じ道を辿っていました。私はその道を辿っているとき、不思議な面持ちでした。最初
  はマロウの心の欠片を探す旅に出る時に、象に乗って通った道です。でも今は、マロウと
  一緒に馬に乗って通っています。これは、何か運命的なものを感じずにはいられませんで
  した。
   沼地を抜けると――沼地は半日で通り抜けられました――そこは私と母さまが旅した、
  砂漠でした。私は母さまと方々を巡ったときの記憶が呼び起こされるのを覚えました。そう、
  他でもない、マロウの心の欠片を集めていた時の記憶を――。そして、懐かしさの余り目
  が潤んだ私を、マロウが気遣ってくれました。優しいマロウ。どこまでも労わってくれる
  マロウ。愛しいマロウ――。あの時とは違って、今度はその愛しいマロウと共に砂漠を越
  えようとしているのです。感慨深げに一つ頷いて見せました。大丈夫、という意味も込め
  て。
   そうして馬に乗った私達は、幾つもの町を越えて、いくつもの遺跡を越えて、いくつも
  の砂丘を越えて旅しました。それは苦難と疲労との戦いでも有りました。ある街では街の
  中にさえ入れてもらえませんでした。ある町では水を分けてもらえませんでした。あの猫
  が沢山いた町では、もうあの不思議な出来事に遭遇する事はありませんでした。私はマロ
  ウと一緒にあの不思議を体験できない事に、がっかりしました。
   あの砂航船も通過しました。
   マロウは砂航船の事を知っていたようで、指差して説明してくれました。中に入ってみ
  たけれど、船長室にあったはずのマロウの日記は消えていて、ただの廃墟と化していまし
  た。私は、マロウの日記を見た事を黙っていました。だって、人の日記を勝手に読んだと
  知られたらマロウになんて思われるか。
   砂航船を出た私達ははるか北北西を目指して、再び旅立ちました。
   途中、あの動くオアシスも通りました。中央部の泉にオカリナはもう無く、ただただ静
   かに水が湧き出ているだけでした。
   動かないオアシスで水を汲んだり飲んだりもしました。
   そうして旅をして、幾日か、幾年か経ったころ再び湿地帯に入りました。恐らくこの湿
   地帯は砂漠をぐるりと囲っているのでしょう。私の憶測でしかないですが。
   数日をかけて湿地帯を抜けると、緑に覆われた道ならぬ道に入ります。この鬱蒼と茂っ
  た森は、村の付近の森と同種のように思えてなりません。恐らく湿地帯と同じく砂漠の周
  りをぐるりと囲っているのでしょう。同じ森が。
   その緑のトンネルを抜けると、突然草原が広がりました。そこは、私達が目指していた
  北北西の草原です。ちょうど村と対角の位置にあたる場所です。この大陸で、村から一番
  離れている場所。そこが私達の新天地になる予定でした。
   私達は疲れきった馬をとりあえず近くの木に縛って、休ませてあげる事にしました。つい
  でに私達の休息も。

  「ふう。やっとここまで辿り着いたね。ミモザ」

  「ええ。貴方が居てくれたから、私、ここまで旅して来れたわ」

   私達は静かに見詰めあいました。
   まるで、今この幸せをいつまでも噛み締めていたい、とでも言うように。
   追っ手は恐らく完全に撒いたと思います。というか、私達の足取りを追えるかどうか。
  とにかく急いで来たのだし、きっと母さまが何とかしてくれていると思います。
   ふと遠くを見遣ると、遥か彼方に薄っすらと町らしきものが見えました。私は自身の目
  を疑うわけではありませんが、手を翳して薄めでようく見てみました。やはり、町がある
  のは事実のようです。それも、海岸線沿いに沿って形成されているようでした。
   私はその時、その町が終の棲家となることなど知らずにマロウに耳打ちしました。

  「ねぇ、マロウ。あそこに町があるようだけれども」

  「……ああ。本当だ。町がある。港町のようだね」

   マロウは、さあ行こうかと、私に手を差し伸べてくれました。
   あの町ならば、何とか生活できそうだと。
   馬の手綱を解いて、私達は港町へと進みました。



   その日から私達の楽しい生活が始まりました。
   楽しくて幸せな日々。
   あの村に居たら絶対に味わえない日々を。
   港の市場でお買い物をしたり、井戸端会議に参加したり、マロウが休日の日は決まって
  二人揃ってどこか楽しめる場所へ出かけました。
   そうそう。マロウは仕事に従事してるのですよ。何でも船大工の見習いだとかで、充実
  した彼を見たのは初めてかもしれません。
   私達は幸せでした。
   幸せという文字を噛み締めていました。
   まるでメリーゴーランドのように人生が目くるめく過ぎ去っていきました。
   その港町に辿り着いて、二、三年が経った頃、私達は結婚しました。
   結婚して、お金をためて町から少し離れた崖っぷちにある館を買い取りました。
   そうして私達は、私は、今ここに居ます。



   *■□*



   マロウと共に過ごしたここ数十年、私は幸せでした。

  「僕の幸せは、ミモザと一緒に居る事なんだ」

   そう言って微笑んでくれたあの人は、もうこの世には存在していません。
   私はただ安らかに窓の外の景色を眺める日々を過ごすだけです。
   マロウと共に過ごした数十年を思い起こしながら。

   私は、本当に幸せでした。



   *■□*



   そうして、静かに本は閉じられた。
   そこで、手記は終わっていた。
   その後、彼女がどうなったかは、誰も知る由も無い。


     Fin.