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                                          夏琉


   鳥が鳴いている。
   耳障りな声だ。それほど高い音ではないが良く通る。あまり似ていないのに、人間の呻
  き声を連想させる。

   その姿を探して顔を上げてみたが、大きく広がる枝の重なる影とその切れ目に覗くくっ
  きりとした星空が見えるだけだ。

  「何かみつけたのか?」

   明らかに期待を含んだ声で、エルガの隣にいた男が尋ねる。

  「いえ」
 
   鳥が。エルガが言うと、男はああと頷く。

  「普段は夜にはいないんだろうが…、人がたくさん入っているからな。おちつかないんだ
  ろう」

   鳥の名前。男の言葉には出てこなかったので、エルガは僅かに落胆する。生まれたとき
  からこの島に住んでいるだろう彼なら、きっと知っていると思ったのだが。知っているの
  かもしれないが、質問を重ねたいとおもうほどの好奇心はエルガにはなかった。

   湿った土と柔らかい苔のにおいがする。こういうことを「豊か」というのかと、エルガ
  はちらりと思う。

  「…何か、わかったことはないのか?」

   手にもったランプの明かりをたよりに、道なき道をじりじりと進みながら男が再び尋ね
  る。

  「あんた、魔法使いなんだろう。星を見たり空気の感じとか、そういうのでなんかわかっ
  たりするんじゃないのか?
   そうじゃなかったら、子どもらの持ち物から居場所を探ったり」

  「星見は私は観測ならたまにしますが、そこから特定多数の運命を読み取るような技術も
  能力も私にはありませんし、この島で私にわかる類の魔力が働いた気配はありません。
   といっても私の感知力は頼りになるものではありませんが。
   あと、探索の魔法は存在はしますが、私には使えません」

   日付の変わる前から同じようなことを何回もきかれてきたエルガは、よどみなく答える。

   この島から、何人かの子どもが失踪してからまだ一日もたっていない。

   漁業で生計を立てているような小さな島だ。大陸からの船は一日に朝と夕の二回。その
  夕方の船が出たあと、子ども達は消えた。  

   ことが起こってからまだ夜も明けていないのだ。情報は混乱している。どれくらいの子
  ども達がいつどんなふうにいなくなったのか、いろんな人がエルガに説明してくれたが、
  まとまりがなかったのですべて忘れた。
   とりあえず確かなのは、残された大人達は心当たりのある場所を探して、ついにはこう
  して山狩りまではじめたということだ。

   エルガがこの島に今日いたのは、本当に偶然だ。このあたりの島の水質を調査するため
  に、この島には二日前から滞在している。明日か明後日には一旦大陸に戻るつもりだった
  が、魔法の使い手がいたほうがわかることが多いだろうからと、謝礼も出すからといわれ、
  探索に加わってしまった以上、それは難しいだろう。

   めんどうくさいなぁ。

   眼鏡の位置を直すふりをして、あくびをした口を隠す。もっとも、待機ではなく実動の
  方を期待したのはエルガ自身だ。夜出歩くのが好きだからとか、じっと座っていて居眠り
  をしているところを見られたら体裁が悪いとか、その程度の理由からだが。

  「…だな」

  「はい?」

   ぼそりと言われた男の言葉を反射的に聞き返して、すぐに後悔する。相手はこの村の人
  間で、40代かそこら。たぶん結婚しているのだろうし、それなら子どももいるだろう。

  「魔法使いって案外何もできないんだな」

   やっぱりだ。
   あまり開けていない土地に行くと、こう言われることが多いのだ。純粋な驚きからだっ
  たり、揶揄や嫌悪や親しみや嫉妬がこめられていたりするが、この場合は失望といらだち
  だ。

  「魔力というのは人間の能力のひとつでしかありませんから。繕い物が得意だったりする
  ことと、魔法が使えるということに大した違いはありません」

  「…そうか」

   感情を押さえ込んで、男はそれだけ言った。

   優遇されているのだな、とエルガは思った。こういうときに理不尽に激昂するような人
  間と組まされていないということは。

   外套のポケットに手を入れて、紙に包まれた飴玉を二つ取り出す。一つは男に声をかけ
  てから放って、もう一つは剥いて自分の口の中に入れた。

  「甘いものは疲れがとれますから」

   困惑している男にそう言ってみたが、彼は結局手の中のものを口にいれずどこかにしまっ
  た。

   体温で飴が溶けて、唾液とまじって口の中に甘酸っぱい味が広がる。果物の汁が混ぜて
  あるのだ。この半透明の糖分のかたまりは、味も香りも柔らかく曖昧なのに、時には舌の
  表面が裂けてしまうのではないかと思うほど存在が硬質だ。

   あの鳥が鳴いているのが、再び遠くで聞こえた。





                             フンヅワーラー


   部屋の窓を開ける。
   薄暗い光が霧によって拡散される様[さま]を見て、マックスは素直に幻想的だと思った。
   だけども、これでは朝の計画が台無しであった。どうせこの霧では、朝の船の便はなく
  なっただろうから、急ぐ理由も無くなったのだが。
   寝なおそうかとも思ったが、昼には霧が晴れるかもしれない。ならば、気持ちをシャン
  とさせていた方が……気分的な問題ではあるが、そっちの方がいいと思った。
   マックスは、思い切り伸びをした。

   墓参りには、やはり花が必要だろうか?


   1階に下りると、まだ目覚めきっていない、自分のだらしない顔とは違い、主人は
  「おはよう」と挨拶をしてくれた。
   へらりとした顔を作り、マックスは「おはようございます」と返す。
   主人の顔は笑顔を作っているが、顔色はすぐれない。昨日の夜は寝ていないのだろう。
   マックスは、「あー」などと、無意味な間を埋める言葉を発し、答えが分かっている問
  いかけをした。

  「やっぱ……見つかってないんですかね? まだ」

   返って来たのは無言の首振り。まぁ、分かってはいたのだが。
   そうですか、と、マックスもなにやら神妙な顔つきを作って相槌を打った。
   そこで、会話が終わるはずだった。

  「……そのことなんですがね、あとから村長からお話があるんですけど……お願いが」

  「はぁ……」

  「あ、ですから、あの……、あとから来ると思うんで……あの、ちょっと、外出は……」

  「あぁ……はい、わかりました」

   主人から内容が伝えられないということは。……まぁ、だいたい察しがつく。
   あぁ、こんなことなら、さっさとしておくんだった。
   大した後悔の念も無く、マックスはそう思った。


   昨夜、主人から子供がいなくなったと聞いて、マックスはいいきっかけだと思った。勿論、
  心配する気持ちも無くは無かったが、所詮は他人事である。自分の事情が一番である。
   何にもないこの島に3日ほど滞在し、なんとなく先延ばしにしていた墓参りを、とっと
  と済ませて、やっかいなことに巻き込まれないうちに帰ろう、と思ったのがマックスの正
  直な思いであった。
   だから、それを聞いた時、マックスは決めた。朝のうちに済ませて、朝の便に乗って帰
  ろう。
   そう計画していたのだが、今朝は生憎の霧。まぁ、晴れていたとしても、ここで引き止
  められるわけなのだから、墓参りにも行けず、朝の便にも乗れないわけだが。
   村長からの話というのは、だいたい見当がついている。
   村の意向と、普通の人なら言いにくいという事柄。
   ならば、内容はもう決まっている。


  「特に、お急ぎの用事が無いようであれば、もうしばらく……三日ほどでいいので、滞在
  していただいて欲しいんです」

   あぁ、当たってしまった。
   なかなか、自分の判断力も悪くないらしい。

  「……えっと……何故でしょう?」

   理由を確認したいのではない。相手の出方を見たかった。
   しかし、言った後に、相手がどう返答しようと、自分の返事は変わらないのだから、無駄
  な質問だったかもしれないとも思った。

  「ご存知のとおり、今、子供が3人、昨日から見つかっていないのです。勿論、どこかで
  迷ったり怪我をして動けないでいるのかもしれないですけども……。
   なにせ、見かけられなくなった時間帯が、それぞれにバラバラでして。3人が別々に、
  同じ日にそのような事が起きたとは考えられにくいでしょう。
   ですから、今、あなたに島から出られてしまわれると……疑っても、仕方ないことになっ
  てしまいます。それはあなたとしても本意ではないでしょう」

   白髪がやや混じった頭髪をしている、壮年の男。優しげな目つきをしているが、瞳には
  知性の輝きがある。
   このような閉鎖的な環境では、だいたい老人が村長を務めているのが妥当であるから、
  マックスは最初、小さく驚いた。
   だがこの返答を聞いて、マックスは納得した。
   この賢さを持っているのならば、村からの信頼は厚いのだろう。

  「勿論、こちらの都合ですから、滞在費……食事などは、こちらで無料で用意させていた
  だきます」

   ムチを振っての、アメ。順序が良い。
   このような言葉の効果とか分かるのに、マックスは自分ではそのテクニックを使うこと
  が出来ない。だから、村長の賢さには「すごいなぁ」と素直に感心してしまった。
   そんな感情が、呆けた顔に出てしまったのだろう。
   村長は、短く、真っ直ぐに言葉を重ねてきた。これもまた、効果的だ。

  「要は、安心させていただきたいのです」

   要は、万が一の時の、容疑者だということを、丁寧に宣言されているのだ。
   気分は……いいはずがない。
   マックスは、返答した。

  「はぁ、数日くらいであれば別にいいですよ。
   特にこれといった急ぎの用事もありませんし」

  「ありがとうございます」

   気分が良くなかったが、だからといってマックスには断る気力が無かった。
   村長は立ち上がって、笑顔で握手を求めてきたので、マックスは手を差し出して握らせる。
  申し訳程度に握り返し、マックスの手は上下に数度、軽く振られた。

   断ってもよかった。嫌な顔はされるだろうが、恐らく、船には乗せてくれるだろう。乱暴
  なことをされてまで拘束されるということは無いはずだ。
   本格的に危ない立場になりそうになってから、動いてもいいだろうし。それに、と、マッ
  クスは心の中で付け加える。
   自分は人畜無害な存在に見えることを、マックスは知っていた。
   ただ、この島の小さな村で、どこまで通じるのだろうか、という不安はある。小さな集
  落では、余所者というだけで十分、不振な人物となる。

   さて。
   期限は延びた。
   また、墓参りが延期されるということだ。
   実は、自分はそうなることを望んだから、滞在の延長を受け入れたのかもしれないと、
  マックスは思った。
   行きたくないということではないんだがなぁ、と思っているのだが、何故だか億劫になっ
  てしまう。
   マックスは大きな欠伸[あくび]をする。

  「……少し、寝なおそう」

   小さく呟いて、マックスは部屋に戻った。 





                                 夏琉


   エルガがもう一人の滞在者の部屋を訪れたのは、昼を少し過ぎた頃だった。

  「はじめまして」

   ノックの音にドアを開けた男性に、軽く会釈して言う。

  「エルガ・ロットといいます。この島には数日前から滞在しています。ソフィニアの魔法
  使いですが…えっと子どもたちが失踪したって話は知ってますよね?」

  「今朝、村長さんがこられたので」

  「少し中でお話させていただいてもよろしいでしょうか?」

   男性が返答をとまどうのが感じられて、「別に尋問ではありません」と付け加える。男性
  は、身体の位置をずらすと、エルガを部屋に招きいれた。
 
   自分が宿泊していた村長の部屋と、配置は違えどさして変わらない部屋だ。エルガが椅
  子ではなく床に直にぺたりと座り込み男の顔を見てにっこり笑うと、彼は結局何も言わず
  にベッドのふちに浅く腰掛けた。

  「霧が晴れないんです」

   男を----というよりその背後にある窓を見上げながら、エルガは口を開く。

  「おかしいですよね。もうお昼近いのに。しかも島の周りを取り囲むみたいに、海の上だ
  けに」

  「はぁ」

  「まるで魔法みたいですよね」

  「はぁ…、そうですね」

   エルガが意味もなく始終にこやかに話すのに対して、男の反応は薄い。薄いが無反応と
  は違う。見知らぬ人間に対する適度な警戒と受容。非の打ち所のないほどのバランスだ。

   口の中にある飴玉を転がして、喉を湿らせるとエルガは再び話し始める。

  「あと…もしかしたら聞いてるかもしれませんが、子どもたちがまた3人ほど消えたらし
  いんですよ」

  「またというのは…昨夜の3人からさらに?」

  「ええ。それで、今回は子どもたちの消えるところを見た人がいたんです」

  「消えるところを?」

  「はい。他の2人に関してはわからないのですが、親と朝食をとっている途中で文字通り
  姿を消してしまった子が一人いて。姿が陽炎みたいに揺らいで、母親が手をのばしたとき
  には、もう」

  「それは…」

  「魔法みたいですよね」

   男の言葉尻を引き取ってエルガはそう言って、口を閉ざした。相変わらず男のほうをに
  こにこと見上げていたが、沈黙に耐えかねたのか彼のほうが口を開く。

  「えっと、それで何なのでしょうか?」

  「あ、私抜け出してきたんです」

  「は…?」

  「だって、面倒じゃないですか」

   エルガが今までなく力をこめてきっぱりとそう言い切ると、男はとっさに反応できず口
  ごもる。その隙をついて、エルガはさらに言葉を重ねた。

  「私昨日から、ほとんど眠ってないんです。あっちにいると全然休ませてもらえなくて」

   そして「少し眠らせてください」と言うと、了承もとらずにそのまま横になる。あっけ
  に取られた男が、気持ちを立て直して何か言おうとしたときには、エルガはすでに寝息を
  立てていた。





                            フンヅワーラー


   マックスはしばらく、寝息を立てているエルガを眺めていた。
   一体彼女は、何をしにここに来たのだろう?
   突然やってきて、情報を与え、一人で愚痴って、眠りこけた。
   意味が不明すぎる。意図が分からない。
   ……しかし、意図は無いが、行為に一貫性は見られることに気づいた。
   彼女の心理を簡単に述べると「何故自分がやらなきゃいけないのかとまでは言わないけ
  ども、面倒くさい、放り投げたい、眠たい」というところだろう。
   ならば、見知らぬ者への情報提供は、愚痴の一環ということか。
   対象が自分ということには、同じ部外者だから気兼ねなくできるからということであろ
  う。

   そう考えれば、納得はいく。
   が、理解は出来ない。
   まぁ、この場合、理解は求められていないのだから、理解出来なくてもよいのが救いだ。

   スガガ、という音が聞こえた。エルガの鼻が鳴った音だ。
   見知らぬ男の目の前でいきなり無防備に眠りこける心理とは一体どのようなものなのか。
  と、思ったが、すぐさま、きっと何も考えていないんだろうという結論に達した。
   それを踏まえて、自分の感情の行き着いた場所は「男扱いされていないのが少し悲しい」
  という程度のものだった。

   マックスは、状況整理を終えて、ようやくベッドから立ち上がり、床に転がっているエ
  ルガの傍らにしゃがんだ。

  「とりあえず……」

   ベッドに運んでやるのが、人として当たり前の行為なのだろう。
 
  「あ。メガネ……」

   マックスは、恐る恐るメガネの柄に触る。爪の先でカツンと硬質な音が鳴った。
   マックスにとって、メガネは未知の道具だった。きっと高価なものなのだろう、という
  認識程度だ。
   とりあえず、取り外そうと、柄を掴んで軽く引っ張った。が、引っかかりを感じ、マッ
  クスは思わずパッと手を放す。無理に動かして歪んだりしてはコトだ。高価なものなのだ
  から。

  「……どうやって外すんだろう、これ」

   今度は上に持ち上げてみる……駄目だ。
 
  「……せめて外して寝てくれればいいのに……」

   人差し指で二つのレンズの連結部の柄をつつく。と、メガネが大きく動いた。

  「あ。これ、下にスライドさせれば……」

   両脇の柄を再び掴み下へと傾けながら引っ張る。ススス、とメガネが動く。
   そのままゆっくりと動かしていくと、ようやく手ごたえが軽くなった。
   小さいが、実に濃密な満足感を得て、マックスはしばらくメガネを見つめる。

  「あぁ、なるほど。先がこんな風に曲がってたから……。へぇー」

   今度はメガネの柄をたたむ部分を倒したり起こしたりする。
   思い切って、興味本位にメガネを装着しようとした時、

  「ぬぉーぐぁ…ね………ぬ……」

   エルガの聞き取れない寝言が聞こえた。……なんとなく「メガネの……」とも聞き取れ
  る。気のせいか。うん、気のせいに違いない。
   マックスは、エルガの存在を思い出し、メガネを備え付けのテーブルにコトリと置く。
   そういえば、エルガをベッドに移動させるのが当初の目的であった。
   こういう場合、抱え上げて運ぶのが女性としては嬉しいのだろう。が、エルガは痩せ型
  ではあるものの長身だったので、マックスはそれを早々と諦めた。だいたい、誰も見てい
  ないのにそんな無理をして頑張る必要は無い。
   エルガの脇に腕を差込、肩を抱え、ガニ股で後退してエルガを抱え動かす。エルガの足
  が床の上で引きずってしまったが、エルガは起きなかったので、マックスはそれで良しと
  した。
   毛布をエルガの上にかけてやり、マックスは一息ついてベッドの縁に浅く腰をかけた。

   窓を見ると、今朝より霧が濃くなっていた。
   そういえば、さっきエルガがこの霧と子供の失踪がなにやら関係あるようなことを言っ
  ていたのを思い出す。

  「……ってことは……この霧が晴れない限り、船は出せないから……」

   いや、この霧が続けば、自分の個人的な事情だけではすまないだろう。島にとって大き
  な損害にもなるのではないのか。
   まずは、外からの物資が届かない。小さな島だ、衣料品や雑貨などは外から調達しない
  とやっていけないはずだ。
   また、食料などでも、自給自足でやっていくとしても、日の光は霧に遮られ、農作物は
  育たない。漁で生計を立てるとしても、この状況で船を無理に出せば自然と失踪や事故を
  起こし、だんだんと働き手の男達が減っていく。
   そして、この島はひっそりと霧に侵蝕されて……。

  「……まぁ、この霧と子供の失踪に関連性が絶対にある、とか、言い切れない……だろう
  けども……」

   声に出したのは、そうであって欲しいからだ。
   自覚しなければ楽なのに……。そう思う時、マックスはいつもそんな自分の馬鹿さ加減
  を憎む。

   ぎゃぁ ぎゃぁ

   突如響いた音に、マックスは身をビクリと竦[すく]ませる。
   赤子の泣き声のようでもあり、男の叫び声のような声でもあった。
   恐る恐る、窓に近づいてゆっくりと覗く。
   島民の様子は特にその音に反応していない。では、あれは何の声だったのか……。
   再び、同じ声が聞こえた。聞こえた方向に目を向けると。

   霧の中、悠々と旋回している鳥がいた。
   不吉な予兆を抱えた島を嘲笑うように、鳥は鳴いた。 





                                 夏琉


   ドアの閉まる音で、エルガは目を覚ました。

  「ん…」

   自分がいつの間にかベッドの上に移動していることに気づいて、毛布をのけて身体を起
  こす。窓の外を見やるとわずかに空気が青みがかっていたが、それもまもなく闇が払拭し
  てしまうだろう頃だった。

   部屋にはエルガ以外誰もいなかった。さっきの音は、男が部屋をでたということか。
  テーブルの上のランプに火が入ったままだから、すぐに戻ってくるつもりなのだろう。

   ランプのそばにはずした記憶のない眼鏡が置いてあるのに気づく。視力が弱いわけでは
  ないので無くても支障はないのだが、掛け始めてからはないとなんとなく落ち着かないよ
  うになってる(といっても大抵眠るときははずすが)。エルガはベッドから降りると、眼鏡
  を手にとってかけた。

  「あれ…?」

   そのとき、感覚にふっと違う色合いが入り込んだような気がして、エルガは片手でこめ
  かみに触れて目を瞑ると耳を澄ました。

   ぴんと張った純白の絹が何枚もわずかに隙間を空けて重なってできている層に、一枚だ
  けほんのわずかに色づいた生地が入りこんでいるような違和。その絹と絹の間の隙間に手
  を入れて、目に見えないほうの布の端がどこにつながっているのか、手探りで検討をつけ
  る。

  「窓の…」

   呟いて、エルガはベッドの上に乗ると窓を開け放つ。そのまま頭の中で布の上に手を滑
  らせて、窓の下に目をやった。

  「あら」

   そこには、十を少し過ぎたくらいの少年がいた。エルガのいる部屋の窓を見上げている
  が、その視線にも出で立ちにもどこか現実感がない。輪郭や細部がぼやけてみえるという
  わけではないのだが、手で触れたらそのまま突き抜けてしまいそうな印象がある。エルガ
  は少年の足元を見て----単に外が暗く部屋からの明かりが弱いというだけの理由かもしれ
  ないが----影がないことを確認した。

  「さっきまで何も感じなかったんだけどなぁ…」

   ふと、思いついて眼鏡をずらして裸眼で少年のいるところを見てみる。すると、なんと
  眼鏡の硝子を通して見たときにだけしか少年の姿が見えないことがわかった。

   そのとき、ドアノブがカチャリと音をたて、エルガが振り返ると男が部屋に入ってくる
  ところだった。

  「あ…目が覚めましたか」

  「ええ。あのちょっとこっちに来て窓の外を見てもらえますか」

   エルガの申し出に男は「はぁ…」と答えると、ベッドの上にひざで乗って窓のほうにに
  じりよる。

  「とくに変わったことはないようですが…」

  「あら、そうなんですか」

   確かに窓の下に十を過ぎたくらいの少年が立っているというだけでは、とくに変わった
  こととは言えないだろう。
   しかし、現在この島は子どもたちがこんな時間帯に外を出歩くことを許すような状況で
  はなく、おまけに窓の下の少年には影が無くて、その上どうもはじめに消えた3人の子ど
  ものうち一人と年恰好が同じときては、「とくに変わったこと」に限りなく近いと、エル
  ガは思う。

   つまり、彼にはあの少年の姿が見えないのだ。

   意外だった。何故なら、彼が部屋に入ってきたときにわかったのだが、ほんのり色づい
  た一枚の布のエルガに見えないほうの両端の、片方はあの少年に、そしてもう片方がこの
  男につながってるのを感じたのだ。

  「貴方、魔法を使ったことってありますか?」

  「生まれてこのかたそのようなものを使ったことはないですが…」

   男は怪訝そうにそう言ったが、「それが何か?」とは尋ねなかったので、エルガもそれ
  以上何も説明しない。飴の包みを一つとりだして中身を口に含むと、再び外に立つ少年を
  見下ろす。

   村長に報告すべきなのだろうなぁ、とは思う。だが、気が進まない。
   「異邦人」への不審が「魔法使い」への期待に変化しただけでもわずらわしかったのだ。
  それが「役立たず」への嫌悪となり、「見知らぬもの」への憎悪に変わり始める気配を感
  じて、エルガは島民の集まりから抜け出してきた。

   そのまま、男に黙っていようとも思った。だが、頭の隅でちりちりと小さな火が燃え続
  けているようなこの感覚がわずらわしいという気持ちも強かったので、エルガはベッドか
  ら降りると、男に向かってこう言った。

  「ちょっと、着いてきていただきますか。そんなに遠くには行きませんので」 





                             フンヅワーラー


  「えーっと……」

   部屋を出て行くエルガを数秒見つめた後、マックスはベッドを簡単に直し、ランプを消
  す。投げ置いていた上着を取って、ドアを抜け、扉を閉める。
   上着を着ながら、ドアの出口の側に立っているエルガに問いかけた。

  「なんで、でしょうか」

  「は?」

   レンズ越しに、純粋無垢な瞳を向けてくる。マックスはそれに、ほんの少しだけ、引く。
   あぁ、少しだけ苦手かもしれない。
   あと……何かと似ているのだが。……何だっけ。
   マックスは、脳の裏側でそんなことを思いながら、まっすぐ……よりも少しだけ上を見
  て、質問を重ねる。

  「いやぁ……なんで、私がついて行かなきゃいけないのかなぁ……と」

  「嫌ですか?」

   首を少しだけ傾げる。
   あぁ、やはり似ているのだが。なんだ。

  「や、そういうことではなく……。いや、どうせヒマですからいいんですけどもね」

   首は更に横に落ちた。
   目が純粋だ。純粋に「じゃぁ、ついてくればいいんじゃないの?」という気持ちを放出
  している。
   あぁ、なんだろう。よく見る、何かに似ているのだが。

  「私が聞きたいのは、ですね。純粋に、理由を……と」

   首が起き上がった。ようやく、質問の意図を理解してくれたようだ。 
   しかしそれから、エルガは数秒止まった。
   なんとなくだが、それで分かった。今、彼女が考えていることが……あくまで、恐らく、
  だが……マックスは分かったような気がした。

  「……あぁ。すみません。
   物騒な事件も起きてますし、それに普通に夜、女性一人で歩くのは心許無いのは当たり
  前ですよね」

   助け舟を出してみる。

  「あぁ……はい。じゃぁ、そういうことで」

   助け舟はあぶくを立てて沼底に沈んだ。

   あぁ、そうだ。と、マックスはそこで思い当たった。
   彼女は、子供に似ているのだ。



   マックスは迷いの無い歩みのエルガの後ろをついて歩いていく。
   自分がついて行かなければならない理由は、確かにあるのだ。あの、何かを考えていた
  数秒の間がそれを証明している。
   ただ、あの時説明しなかった理由は「ついてくれば分かるのに、前もって説明するのは
  めんどくさい」というのが理由だろう。十中八九、きっとそうだ。

   霧のせいか、よく冷える。
   部屋を出る時から数分ほどしか経っていないというのに、すでに外は真っ暗だった。それ
  がまた、空気を冷やしていく。
   腕をさすりながらマックスは背中に問いかけた。声が少し張っているのは、冷たい風の
  せいだ。

  「どこ行くんですかぁ?」

   これもまためんどくさがられるかな、と思ったが、彼女は答えてくれた。

  「村長のところへ」

   自分の声とは対称的で、彼女の声は変わらなかった。震えてすらいない。
   寒くないのだろうか。あんな細く薄い身体であれば、あっという間に熱を奪われるだろ
  うに。
   しかし……霧でこんなに寒くなるものだろうか。海からの風が、こんなところにまで来
  ているんだろうか。
   寒いと、自然に視線は下がる。エルガの足を視線の端で見ながらマックスは歩く。

   ぎゃぁ、ぎゃぁ。

   また、昼間のあの鳥の鳴き声だ。耳障りで不快な、あの鳥の声。元気なものだ、こんな
  時間まで。
   寒さに、マックスは鼻をすする。
   いや、待て。……こんな暗いときに鳥の鳴き声だと?
   昼間に活動していた鳥の声が、何故、こんな時に。何故、上空から。何故、こんな暗さ
  で、飛んでいる。
   見上げようと面を上げた瞬間、マックスは鼻をぶつけた。
   ぶつかったのは、エルガの背中。いつの間にか、エルガは止まっていたらしい。
   冷たくなった鼻に、ツンとした痛みが抜ける。なんとなく、その鼻を暖める。
   マックスは鼻声でエルガに質問をした。

  「……どうしました?」

   彼女は、答えてくれない。それどころか、質問を返してきた。

  「男の子……知りません?」

  「は?」

  「いや、心当たり。十過ぎたくらいの年の」

   エルガはようやく、振り返った。やたら目を真っ直ぐに向けてくる。
   最初部屋に現れた時は、こちらなどどうでもいいような視線を投げかけていたくせに。
  いや、あれは眠かったからか。それとも今のコレは、質問をするときの癖だろうか。

  「いや……仕事柄、接する時はありますけども。そんな意味ありげに質問されるような関
  わり方はしていないと思いますよ」

   十歳あたりの少年……旅費が尽きそうになった時の軽業の客に見かけるくらいなものだ。

  「では、十年位前に、女を強姦した上、孕ませてしまい無理矢理堕ろさせたとか」

  「無いですね……。というか、そんなバイオレンスな内容を、普通のトーンで質問するん
  ですね」

   質問するにしても、「強姦」の部分は省略してもいいんじゃないのか。
   むしろその工程を加えることによって条件を狭めているような気がする。

  「じゃぁ、少年を惨殺してしまい、誰にも見つけられず山奥に捨てて埋めてしまったとか」

  「……無いですねぇ」

   ……そんな人生を歩みそうにはなっていたけども。

  「というか、もし、そんなことをしていたとしても、普通素直に答えなくないですか?」

   誤魔化す必要などないのだが、余計な言葉が出る。
   鼻をすすって、誤魔化そうとしたことを誤魔化す。

  「では、したんですね?」

  「してませんよ」

   何故、「したんですか?」ではなく「したんですね?」という、念押しの疑問形なんだ。

  「なら、少年を……」

  「ホモセクシャルでもバイでもなく、少年に性欲を抱く趣味も無く、逆にそういった人か
  ら誘われるようなことも今までこのかた無いですからね。で、殺しもして無いです」

  「……」

   エルガはふぅ、と息を吐いた。
   マックスの質問の先読みはやはり合っていたらしい。
   質問が尽きたらしく、彼女は首をひねる。

  「……あれ? ……おかしいなぁ。
   ……じゃぁ、なんででしょうねぇ」

  「……あ」

   思わず、声が出た。

  「やっぱりしたんですね?」

   だからなんで念押しの疑問形なんだ。というか、どれに確証を持っていたんだろう。

  「いや……別のことです。なんでもないですから」

   そう言っても、彼女はしばらくこっちを見ていた。
   質問をするときの癖。……なるほど、これは質問されている。
   しかし、彼女の質問タイムは数秒で終わった。
   そして、エルガはマックスに後頭部を見せる。
   ……暗闇の中の何を見つめているんだ。

  「いや……宿の主人に、食事二人分用意してもらっていたのに、悪かったなぁって……」

   返答は無い。
   まぁ、宣言通り、なんでもないことを言ったのだから、しょうがないけども。
   ……あまりにも空々しかっただろうか。
   十歳を過ぎた頃……そう、恐らく十一歳の頃だ。自分の人生の大きな転機は。
   その頃、一緒にその転機に、転がってしまった仲間……と呼んでいいのか、未だによく
  わからないが……の墓が、ここにはあるのだ。
   虚飾の名前が刻まれた墓が。
   ……でも、そいつが死んだ時期はその数年後のはずなのだから、おそらく彼女の質問に
  は関係あるまい。きっと、そうだ。
   ……本音は、下手に晒して詮索はされたくないだけなのだけども。

  「あ……」

   と、マックスはまた、あることを思い出した。
   しかし、今度は彼女は反応しない。
   自分はまだ名乗っていないことに気がついた。
   名乗るべきなのだろうか……と思ったが、きっとエルガは自分の名前など覚えないよう
  な気がした。まぁ、名前が必要な時などそう滅多に無いのだから構わないか。
   彼女が振り返った。

  「あのですね……今、いるんですけども。あなたを見つめてるし」

  「は?」

  「いや、いるんですよ、少年が」

   エルガは、暗闇を内包したような林を真っ直ぐと指差していた。
   彼女には、何かが見えているのだろうか。
   魔法使いというものに触れるのは、マックスにとって初めてだった。メガネと同様に、
  未知の世界のモノだ。
   メガネでさえ、魔法によるものでないのに、見えるものが違ってくるらしいのだ。だか
  ら、魔法が使える人は何が見えたって不思議じゃない。
   きっと、魔法使いとはそういうものなのだろう。

  「どうします? 放っておいて村長のとこに行った方がいいですかね?」

  「……さぁ。
   私には見えないし……お任せします」

   マックスのその返答を聞き、エルガはしばらく悩んだ。
   そして、それを突然中断し、マックスに向かって大真面目に言った。

  「……結構冷静なんですね」

   なんと言って答えればよいかわからなかったので、マックスはやはりこう答えた。

  「……はぁ」 





                                  夏琉


  金の粉をまぶしたみたいだと、エルガは葉の落ちた樹の元に立つ少年を見て思った。

   眼鏡のレンズを通して見たときに、少年の姿が輝いて見えるというわけではない。エル
  ガが見ている少年は、影がなく一目でエルガや男とは違う位相の存在だとわかるものの、
  光を放ってもいないし透けてもいない。

   目に映るのではない部分…少し頭の中を傾けて、耳をすませるように感覚を鋭[さと]
  したとき、まるでこの少年の白い肌や柔らかな産毛一面にこの上なく細やかな上質な金粉
  がきらきらと塗されているように感じるのだ。

   エルガは、はじめ男の部屋の窓から少年を見かけたとき、年恰好からはじめに消えた3
  人のうちの一人の少年ではないかと検討をつけた。
   だが、今はそれは誤りだったと思っている。たぶん、この少年は人間----ある一定の質
  量をもった生きている人間ではないのだ。

  「それなら、ちょっとそこで待っていてもらえますか。見てみますので」

   男にそう言うと、返事を聞かずに林のほうへ向かう。

   村長にこのことを報告してもどうにもならないことは、初めからわかっていることだ。
   この霧が続いてる間は大陸の人間がその異常性に気づくまでは船はでないだろうし、この
  島には大陸まで航海するための大きな船はほとんどない。きっと島の人間はエルガに魔法
  で連絡をとったり移動したりすることを期待するだろうが、その魔法はエルガには使えな
  い。

   男に村長のもとへ行くことを提案したのは、はじめに協力を頼まれていたことを思い出
  したから、その程度の理由だ。

   少年の前に立ったエルガは少年の頬に触れようとしたが、すぐに上げかけた手をさげた。
   少年が、男ではなくエルガに視線を注いでいることに気づいたからだ。

  「あら」

   エルガは軽い驚きを覚えた。少年が、男以外の存在を認知できるほどこの場に結びつい
  ているとは思っていなかった。

  「私の声は、聞こえていますか?」

   少年は、その問いには反応しない。ただ、エルガの顔をじっと見つめている。
   そこでエルガはかがんで少年と視線の高さを合わせると、思い切って再び少年の頬に手
  を伸ばした。触れるのではなく、指一本ほどの隙間をあけて少年の顔の輪郭をなぞってい
  く。そして目を瞑って、何かを感じ取ろうとする。

   エルガにとってこのような行為は、魔法を使うことよりもずっと自然なことだ。ただ少
  し物の見方を切り替えるだけで、やっていること自体は赤ん坊が自分の周りの世界を知ろ
  うとして、ひたむきに周囲のものに手を伸ばそうとするようなものだからである。

   ただ、すべての魔法を使う人間がエルガと同じような世界の読み取り方をするわけでは
  ない。それどころか魔力を自分の一部というよりも、まるでただの剣や弓矢のように道具
  として扱っている者も数多くいる。

   最近、試運転が開始されたばかりの空間を切り裂いて移動する汽車。あれの第一回目の
  試運転の日、エルガの知人の一人は髪の毛の根元を抜けそうなほどきつくつかんで、頭が
  痛むのを歯を食いしばってこらえていた。

   エルガは彼女とは感覚の鋭さも感じ方も異なるので、彼女ほどの影響は受けてはいない。
  しかしあの日以来、確かにあの汽車が発車する時間にソフィニアにいると耳の奥でキンっ
  と不快感が突き抜ける。
   彼女のようにソフィニアに住んでいることすら困難なほどではないが、エルガがソフィ
  ニアを離れることが多いのは、ここ数年急にあの街の魔法が今までの秩序を無くしてきつ
  つあるからというのも、理由の一つだ。

   エルガは少年の顎の先までなぞると、目を開いた。
   そして少年の顔をまじまじとみつめると、ほんの少し眉根をよせた。
 
  「…何かわかりましたか?」

   男のところに戻ると、彼は寒さに足踏みさえしながら待っていた。

  「あんまり」

  「…ということは、何かわかったんですよね?」

  「ええ」

  「あの…、説明してもらえるとありがたいのですが…」

   男の言葉をきいて、エルガは俯いて白い息を吐く。その様子には、気の進まないことが
  ありありと表れている。
   が、エルガは2,3回靴先で地面を軽くいじっただけで、顔を上げて話し出した。

  「あぁ…あの、私、自分で言うのもなんなんですけど、結構、力が強いほうらしいんです
  よね」

  「はぁ…」

  「それで、よく『魔法使いとしての有能さと魔力の強さってたいてい相関するのに』だの
  『なんで人間としての形態を保ててるんだ』だの言われたりするんですけど」

  「はぁ」

  「それで、自分もどうしてかわからないんですけれど…」

   エルガはすっと少年を指差した。

  「彼と霧、私がやってるみたいなんです」

  「え」
 
   男の凡庸な造作の顔が、一瞬固まる。

  「自覚はまったくないんですけど、どうもそうみたいなんですよね。
   この分だと、子どもたちを消しているのも私なのかも」

  「えーっと…、それなら魔法を使うのをやめてみれば…」

  「条件が整ってしまってる以上、一度流れ出した魔力って基本的には止まらないんですよ」

   そしてエルガは、男にまっすぐ目を向けると言った。

  「どうしたらいいと思います?」

  「さぁ…」

   ぎゃあ、とあの鳥の声が林の方から聞こえた。





                            フンヅワーラー


  「………条件が整ってしまってる以上、ということは、なにかしらの条件を崩せばいい…
  …んですかね?」

   単純すぎたか。とマックスは思った。だが、エルガはこくりと首を落とした。

  「そうですね。でも、その条件を成り立たせているモノを探るのが」

   彼女は顔を上に向ける。霧によって滲んだ月の光を見ている。
   細くて白い首がマックスに向けられて晒されている。
   頚動脈が見える。そこを……。

  「まぁ、地道に探らなければならないんでしょうね」

   彼女はこちらを向かないまま話しかけた。

  「そうですね」

   マックスは先ほどの態度となんら変わりなく応対する。
   確実な条件は、一つだけ分かっている。彼女の存在だ。
   つまり、彼女を消してしまえば。
   マックスは、その考えを振り払った。
   その理由は、彼女の存在を消すことの罪悪感にではない。あまりに、早急すぎる結論だっ
  たからだ。

   あぁ、まだ染み付いているのか。

   マックスはエルガが見つめている月を同様に見上げた。
   人を殺すと意識する時、マックスは実に冷静になる。
   それは、殺意ですらなかった。どの部分を攻めれば効率的か、致命的かをパズルのよう
  に組み立てて考え、その命の存在の……一般的に表現するところの「暖かみ」などを意識
  できなくなる。
   それは幼い頃、唯一褒められていた部分だった。他の教えられた事柄は、どれも平均点
  しか取れなかったので、なおさら、誇りに思っていた。
   そのことを思い出すと、いつもマックスは悲しくなる。
   それを誇りに思っていた幼い自分に対してではない。それが世間的には、「恐ろしいこと」
  であったと知って20年も経っているのに、未だにそのことにゾッとすることもできない
  でいることにだ。

  「子供が、消えてしまっているんですよね」

   今更ながらのことを口に出す。

  「えぇ、そうですね」

   エルガは素直に肯定した。

  「解決すれば……戻ってくるんですかね?」

   やや、間があって、彼女は答えた。

  「……私には、わかりません」

  「そうですか」

   ふぅ、と自分の吐いた息が白いのをマックスは確認した。
   まだ、体温は存在しているようだ。
   こんなにも冷え切ってしまっているのに、ぬくもりはまだ残っているというのか。
   再び、息を吐いて、白いのを確認してマックスは決意した。

   明朝までに、「彼女の存在」以外の条件が見つからなければ、エルガを殺してしまおう。

  「急ぎましょう。子供達がこれ以上更に消えないうちに」

   算段を同時に考えながら言う。
   眠っている時がいいだろうか。この島の気候で、感覚を失わせる薬草が生えている可能
  性が高い種類はどれか。苦しませない方法はどれが最適か。そして自分が返り討ちにあっ
  た時は、村長にこの状況を伝える段取りを整えておく方法までもを考える。
   だからといって先ほどの言葉は嘘ではない。
   彼女を殺したくないという気持ちも、彼女を殺さなければいけないという決心も、全て
  本心だ。この気持ちは、同時に存在し、マックスの中ではなんら矛盾は無かった。

  「起きている事を、とりあえず挙げていきましょう。そして焦点を狭めれば……少しは関
  連性のあるものに近づけるかもしれませんからね」

   そうですね、とエルガは肯定した。そしておもむろにポケットから何かを取り出す。
   何かの魔法機具だろうかと思ったが、取り出したのは丸いものを紙で包んだものだった。
  先ほど、部屋の中でも同様のものを口にしていたので、何か特別な薬品ということでもな
  いだろう。
   きっと、それは見たまんまの飴だと、マックスは判断して、言葉を続けた。

  「まず、子供が陽炎のように、目の前で消えていくこと。そして晴れない霧。
   そして、私には見えない、少年の存在」

  「正確には、私も、この眼鏡を通してでしか見えないんですけどね」

   飴を口の中にいれ、頬に飴の丸い形が浮き上がっている。

  「……魔法の眼鏡なんですか?」

   マックスは思わず、その眼鏡をかけそうになったことを思い出す。
 
  「いえ、そんなことは全然。
   レンズには度も入っていなくて、正確にはレンズではなく、単なるガラスなんです」

   かけてみます? とエルガは眼鏡を外して差し出した。
   少しだけ躊躇したが、眼鏡をかけることによってその少年が自分にも見えるかもしれな
  いと思ったので、マックスは眼鏡を手にした。寒さで手がかじかんでいる。
   恐る恐る、不器用な仕草で眼鏡を装着し、あたりを見回すが、視界に変化は無かった。
  なるほど、単なるガラス板だと確認できたくらいだ。

  「やはり私にはなにも見えませんでしたね」

   眼鏡をはずし、エルガに返しながら一応報告する。
   それを受け取り、エルガは眼鏡を装着しながら口を開いた。

  「あと、一つ言い忘れてましたけど……言ってませんでしたよね?」

   マックスは、とりあえず、はぁ、と頷いた。この場合、内容を聞き出さなければ言った
  か言っていないかの判断はつけれない質問なのだから、とりあえず聞き出すしかない。

  「その少年と、あなたが……」

   こう、と言いながらエルガは指先で何かをなぞるように描く。

  「繋がっているんですよ」

   この言葉には、流石のマックスも少なからず驚いた。
   この事象に、自分も少なからず関連しているということに。

  「あと、この際、もう一つ報告するとですね」

   エルガが眼鏡をずらして、こちらを見つめる。

  「先ほどより……あなたが眼鏡をかける前より、さらにハッキリと見えるようになりまし
  た。
   それと、あと、確認するんですけども、私が寝ているとき、眼鏡をとりました?」

   つまりは、寝る前までは、少年のことなど見えなかったことを、示している。
   自分も仲間入りだ、と思いながらマックスはエルガの質問に首肯した。
   エルガはずらした眼鏡を指先で押上げた。

  「まとめは、これぐらいのことですかね」

   そうですね、とマックスは肯定する。
   それは、自分が関わっているということを自ら認めているということだ。だからと言っ
  て、先ほどの決意は揺らいだかといえば、そんなことは全く無かった。
   人の命の重さなど量ることなどできない、などと旅先で会った思想家が言っていたが、
  マックスは、それでも量らなければいけないことはあると思った。今がそうだ。
   会ったばかりの彼女の命よりも、見知らぬ村の子供達の複数の命を。子供達の命よりも、
  自分の命を。
   妥当な並びだと、マックスは思っている。
   何事も、基盤の順序を決めておくのは必要だ。そこから他の手段の順序の組み立てが出
  来てゆく。……そう教えられたのも、子供の頃だ、とマックスは思い出す。
   なんとなく、空を仰いだ。
   そこで、マックスはあることを思い出した。

  「あ……。あと……些細なことなんですけどもね。……関係あるか分かりませんけども」

   エルガは、瞳でのみ、先を促した。言葉を使わないとそれができない自分とは大違いだ
  とマックスは思った。

  「鳥。おかしくないですか?
   昼間飛んでいる鳥から、同じような鳴き声を聞いたなんですよ。……いや、そんなに動
  物には詳しくないんで違う種類の鳥かもしれませんけども。
   さっきも、上空から……飛んでいるんだと思うんですけど、そこから聞こえてきている
  し。昼も夜も飛ぶ鳥なんて、聞いたこと無いんですけど。
   どう思います?」

   エルガは空を見上げる。

  「そう、ですね。そういえば昨日の夜も……」

   つられて、マックスも見上げる。
   そこに、タイミングよく朧月を黒い影が横切って、鳴いた。

  「あ」

   エルガは、それを見て、ポケットを探る。そして、ポケットからでた拳を、どうぞ、と言っ
  てマックスに突き出した。
   マックスは彼女の拳の下に手のひらを置く。手のひらに、ぽとりと紙包みの飴を落とさ
  れた。

  「糖分を取れば、少しは体温を作れるかもしれませんよ」

   全く、どういうタイミングだ。
   そう思いながら、マックスはありがたく飴を口にした。味はハッカか何かのハーブで、
  甘いものの、口の中がスースーとした。寒い時に舐める種類のものではないな、とマック
  スは思った。
   口の中に冷たい刺激を転がしながら、マックスは少しだけ、先ほどの決意を変えた。
   それは、自分の中のリミットを、「明朝」から、「明日中」に変えたという、些細なこ
  とだったが。
   しかし、それは本当に限界だった。いや、遅いくらいである。
   今日までに6人。明日となると、それから5、6人以上居なくなるだろう。そうなると、
  こんな小さな村でなくとも、恐怖と混乱が加速するだろう。
   自分は、魔法使いである彼女の巻き添えをくらい、村人の「生贄」になる可能性が高い。
  ……特に、今、行動を一緒にしているのだから仲間とも思われても仕方ない。どうせ、村か
  ら見ると、余所者は皆一緒で、つまりは仲間となってしまうのだ。
   まぁ、知ってか知らずか、両者ともこの現象に関連しているわけだから、その判断は正
  しいのだが。
   マックスは数日滞在して欲しいと願われている身ではあるが、まさか村長もこれ以上の
  子供が消えるとは思っていなかっただろう。あの賢明な彼ですら、きっとそれは止められ
  ない。むしろ煽るだろうか?
   寒い時に貰ったハッカ飴一つで、そこまでの危険性を犯す価値があるのだろうかと、マッ
  クス自身思ったが、既に思ってしまったことはしょうがないと、これ以上考えることをや
  めた。
   つまりそれは、貰ったハッカ飴には、それだけの価値があるということなのだろう。

  「とりあえず、あそこに行ってみますか?」

   マックスは林を指差してエルガに提案した。

  「少年が、ここで待っていたということもあるし。
   鳥の声が近いのも、この付近だし」

   自分で言っていて、なんて心許ない理由なんだろうと、マックスは思った。
   そして、本音を付け足すのだった。

  「あと……止まっていた方が、寒いんで、どこかしら移動したいんですけどね」





                                 夏琉


  「そうですね。そうしたほうがいいと思います」

  そう言った瞬間、エルガはこめかみに細い針が通りぬけるような痛みを感じた。
  思わず片手で、そこを押さえる。

  「どうかしましたか?」

  「いえ」

  感覚が、さらに鋭敏になっている。
  わずかな大気の揺らぎだとか普段は感じることすらできない魔力の高低だとかが、意識し
  なくても情報として入ってくる。
それ
  は明らかにエルガの受け皿の許容量を超えたもので、その影響が身体的な痛みに変換され
  ているのだ。

  だが、おかげでいくつか新たにわかったこともあった。
  情報が自然と整理されるまで言語化できるほど明確な理解には達しないが、そんなに時間
  は必要としないだろう。

  エルガはそのまま何も言わず、林に向かって歩き出す。まるで一人で散歩にでてふいに立
  ち止まり、空を見上げてからまた歩き出すくらい自然な動作で。

  少年の前を通りすぎるとき、彼がエルガと怪訝な顔で追従する男のほうを見上げたが、エル
  ガはそのことに気をとめてすらいなかった。


  林というよりはそこは山の端で、凹凸をもつ地面はすぐに勾配を持った。
  何回かこの島の地図を見ていたエルガは、この島が大体楕円と長方形の間のような形をし
  ていて、その中心よりいくらかずれた位置に頂点があったのは記憶しているが、それがど
  ちらのほうにずれていたのかは覚えていない。

  「襞[ひだ]がよってるんですよ」

  しばらく山道を登って、エルガは急に立ち止まると男のほうを振り返って言った。

  「ヒダ…ですか?」

  「ええ。カーテンやスカートの裾に縒る襞です。
   ちょっと休憩します。疲れたので」

  その宣言通り、エルガは土の上に直に腰を下ろす。
  そして思いついて、持っていたランプを下に置いてポケットに手を入れる。取り出したの
  は飴玉ではなく、同じような大きさの翡翠の球だ。
  エルガが手のひらにのせてその球をわずかに転がすと、はじめはわずかに蛍のように発光
  するだけだったが、すぐにエルガとマックスの顔を照らすほどの明かりとなった。昼間ほ
  どの明るさというわけにはいかなかったが、その光はランプの不安定に揺らぐ炎よりずっ
  と確かで強い。

  「これはありがたいですが…できれば、もう少し早めにやって欲しかったですね。こうい
  うことは」

  平らな石を見つけて、そこに腰を下ろした男が言う。

  「今、できるということを思い出したんです」

  身体を休めると紛れていた痛みがまた感じられて、エルガはわずかに顔をしかめた。
  そこから気をそらすためと退屈しのぎに、続けて口を開く。

  「今、この島は、私の魔力ですっぽり覆われてる状態なんです」

  「…霧はそのせいで?」

  「おそらく。霧自体が私の魔力の形なのではなく、覆いの存在に影響されてあとから霧が
  でたんだと思います。
   水気が多い場所なので、魔力の形のほうが後から変化したのかもしれませんが。
   それで、例えばなんですけど」

  エルガは開いているほうの手を動かして、半球状の物体を表現してみせる。

  「こういう天幕みたいなものって、雨風をさけるための幕とそれをささえる骨組みででき
  ているじゃないですか。
   実際にはあまり詳しくないのですが」

  「まぁ…だいたいそんな感じだと」

  「今回の場合、天幕の幕にあたるものを作り出しているのは私なのですが、骨組みは担当
  してはいないんです」

  「じゃあ、条件というのは…」

  「そのあたりに関わってくることなのでしょうね。
   自然現象なのか人為的なものなのか、それともそれ以外の要因によるものなのかはわか
  りませんが。
   それで、その骨組みなんですけど、それが幕を支えるのに本数が足りなかったり布が大
  きすぎたりしたら、こう布がたわんでしまいますよね」

  架空の半球の頂点から、側面に沿って数本の線を指先で描き、大幅にあいた線と線の間を
  手のひらで押す動作をしてエルガは説明する。

  「つまり、今は魔力がたわんで襞になっている状態だということですか?」

  「ええ。それで、これは予想なんですけど……子どもたちはたぶんその襞になった部分に
  攫われているんだと思うんです」

  説明の役目を終えた片手で今度は近くに生えている草をいじりながら、エルガは絶句して
  いる男に言う。

  「つまり言ってみれば、子どもたちはとばっちりですね」

  土のついた手で眼鏡のズレを直して、エルガはため息をついた。

  「あ、あの、さっき『わからない』って言ってましたよね?」

  「え?」

  「さっき霧の話をしていたときは、子どもたちがどうなっているかはわからないと」

  エルガは今までより比較的語気の荒い男の顔を、数秒の間呆けたように見つめていた。
  だが、すぐに理解して「あぁ」と頷き再び微笑む。

  「あなたが眼鏡を触るたびに、少年の姿以外のものもはっきりわかるようになるみたいな
  んです。
   たぶん、あなたが『条件』側になんらかの関わりがあるのは、間違いないと思います」

  エルガは立ち上がると、自分たちの進行方向に向かって指さした。

  「あっちにもう少し進んだところに、天幕の”支柱”があると思います。
   それがどのようなものか私にはさっぱりわかりませんが…」

  言葉を切ると、エルガは顔を上げる。

  鳥だ。いままでで、一番近い。

  首。
  そうだ。人は首に手をかけられ縊られるとき、もし声を出すことができるなら、あんなふ
  うに啼くんじゃないだろうか。

  「行ってみるしかないでしょうね。とりあえず」

  闇にいくら目を凝らしてみても、エルガにはその姿を捉えるとこはできなかった。 





                            フンヅワーラー         


   緩やかな傾斜を、迷いの無い歩みで進んでいくエルガの後ろを、マックスは黙ってつい
  ていく。光る石は、マックスには使えないので、結局はマックスはランプを持ったままだ。
   ひょろ長い身体から、マックスはひ弱そうなイメージを抱いていたが、意外に彼女の足
  取りは確かであった。歩きだけは得意なのかもしれない。
   その歩調のおかげか、口の中で消えかけている飴の効果か、マックスの体温は戻ってき
  た。しかし、手のひらの温度はまだ戻ってこない。
   奥歯で、小さな飴のかけらを噛んで砕いた。口の中に、濃い味が広がって、溶けていく。
   もしかしたら、彼女はハッカ飴が嫌いで、自分に渡したのかもしれない。と、マックス
  は思った。
   しかし、そんなことを確かめても意味が無いので、マックスは無言のまま、エルガの後
  ろをついていく。

   あぁ、嫌でも思い出してしまう。
   やはり、霧のある夜だった。やはり、自分は後ろをついていっていた。そして、その前
  にはあの子がいた。
   今夜のように、こちらを見ずに、真っ暗な中真っ直ぐ歩いて、こちらなど一切見なかっ
  た。
   ……本当に、彼は死んだのだろうか。
   今さら何だが、未だに、疑っていた。

   ぎゃぁ、ぎゃぁ。

   幾重にも重なる鳥の声。数が増えてきた。
   近くだ。霧濃いのに、数匹、頭上に影が見えた。
   それを見て、マックスは息を飲んだ。
   ……大きい。異常なほどの大きさだ。なんなのだ、あの大きさは。あれを「馬鹿でかい」
  と表現するのだろうか、とマックスは思った。

  「……大きいですね」

   エルガも、それを見たのだろう。マックスと同じ感想を伝えてきた。しかし、マックス
  は、その大きさに唖然となって、結局はありきたりな返事しかできなかった。
   曰く、

  「はぁ……」

   鳥は、こちらを伺っているのだろうか。マックス達の真上で旋回している。……また、
  一匹加わり、5、6匹ほどになる。
   鳥達はまだ仲間を呼ぶかのように、鳴く。

  「狙われてるんですかねぇ……、やっぱり」

   語りかけるも、エルガは返事をしなかった。エルガは立ち止まり、目を細めて、鳥のほ
  うを見つめている。彼女の眉間には、皺が浮かんでいて、少し辛そうだ。
   何かを、視ようとしている。
   マックスは、彼女と鳥を見比べた。
   しばらくそうしていたが、彼女は、ふぅ、とそれをやめた。

  「……あともう少しなのに」

   小さく呟いて、彼女はまた歩き出した。
   マックスは、再びそれに追従する。なにがもう少しなのか、そんなことは気にならない。
  きっと説明されてもわからないだろうから。
   だから、マックスは、差しさわりの無いような会話をするしかない。

  「……なにか、警戒しているようですね」

   エルガは何も反応しない。その間、鳥は鳴く。
   しかし、マックスは返答が無いことを気にしなかった。もとより期待した会話でもない。
   場違いに、マックスは糞を落とされないかと少し心配した。本当に、場違いだ。
   突如、エルガが立ち止まった。

  「どうしたんですか?」

   数秒、間を開けて、エルガは答えた。

  「頭痛がですね」

  「はぁ」

  「頭痛が、するんですよ。あの鳥が近くなって」

   言葉の続きを待つ。……しかし、エルガはそこで終わって、再び歩き出した。マックス
  も、エルガの言動に気にする風もなく、歩く。
   が、その数十秒後……非常に微妙な間合いで……エルガは続きを語りだした。

  「つまりはですね、なんらかの力が、あの鳥に働いているんですけども」

  「ですけども」

   なんとなく、語尾を真似て続きを促す。

  「……もしかしたら、あれは鳥じゃないかもしれませんね」

   エルガの言葉はそれで終わった……のだろう。とても冗長な時間が過ぎて、マックスは
  そう確信した。
   ……じゃぁ、何なのだろう。と思いつつ、思考の端で、「なら、糞の心配はしなくてい
  いかもしれない」と安堵する。
   だから、そんな場合でもないだろうに。
   そんなくだらないことを考えていると、エルガはその場にうずくまった。

  「痛い……」

   マックスは、エルガの側に寄って……伸ばしかけた手が止まる。頭が痛いのに、頭に手
  をやるのは、果たして良い事なのだろうか。
   中途半端に手を出したまま、マックスは無難な質問をする。

  「……大丈夫ですか?」

   エルガは、その返答をしない。その代わり、真っ直ぐと彼女は指をさした。

  「あっちに……」

   そこで、言葉が消えた。
   気づけば、光る石の輝きは失われている。
   ランプの揺らめく光に照らされるエルガの表情は、より儚いように見える。

  「行けということですか?」

   わずかに、顎が動いた。
   しかし、マックスは迷う。目の前でうずくまっている人を置いていくのは……できない、
  と言うよりも、後味が悪い。しかし、その当人が行けと言っている。
   マックスは、再び聞く。

  「大丈夫ですか?」

   わずかに、縦に頭が動いた。ような気がする。そう思うことにした。
   空を見上げる。鳥は、どちらについてくるのだろうか。
   そして、見えない男の子は。
   見えないものは、気にしてもしょうがない。
   マックスは、歩き出した。鳥は、彼女の所にとどまるようだ。それを見て少し躊躇した
  が、それでもマックスは歩きだした。



   それは、すぐだった。視界を塞いでいた木々を抜けると、あったのだ。
   魔力など皆無である、マックスにすら、エルガが指し示していたものが何なのかすぐわ
  かった。

   巨木。
   天に張り巡らそうと伸ばしている枝を、その巨体が支えている。しかし、その佇まいに
  反し、いまにも朽ちそうな、「ギリギリ」のものを感じさせる。

   これだ。これが、支柱だ。
   しかし、マックスには、そんなことは、どうでもよかった。
   マックスは……彼にしては、とても珍しいことに、何も考えないまま、その木に手をか
  け、足をかけ、登っていた。
   彼の頭の中には危険性を考えることなど、まったくなかった。ただ、確かめないといけ
  ないとだけ、それだけが頭の中にあった。
   彼の、言葉が鮮やかに甦る。

  『島で一番の巨木があって』

   魔力に、鈍感な彼だからだろうか、幸いにも、木に登ってもなんらマックスに変わった
  ことは起きなかった。

  『7番目の枝のところに』

   器用にランプを持ちながら、細い身体をしなやかに使い、マックスは登っていく。

   あぁ、忘れていたのに。
   なぜ、鮮やかに浮かぶのか。彼のあの顔の表情が。あの、ちょっぴり後ろめたいことを
  やってのけた時の、あの自慢と、恥ずかしさと、秘密を打ち明ける時特有の、あの輝いた
  目。

  『名前を彫ったんだ』

   そう、故郷を離れる前日に、彼はやったと言った。ぼんやりと生きていた自分とは全く
  違って。
   6番目の枝に手をかける。
   木の傷は、樹液によってふさがれ、皮で覆われている可能性が高い。しかし、マックス
  は登り続ける。傷の跡くらいなら、残っているかもしれないと思って。
   7番目の枝にたどり着く。体は熱くなっており、もう手のひらの冷たさなど無くなって
  いた。
   ランプの光を当てる。
   見当たらない。やはり、埋もれたのか……。
   と、枝に手をやっている手に違和感を感じた。ランプをよせて、よく観察する。

   そこには、あった。
   暗くて、見えにくかったのだ。彫ったあと、ナイフを熱して焼いたのだろう。それはい
  びつな、黒い文字で彫られていた。

   マックスは、それを見て……何故だか、確信した。
   なんの論拠にもならない。が、確かに分かったのだ。

  『そこに、僕がいた証拠を残したんだ』

   彼は死んだ。
   そして、ここが彼の墓なのだ。

   少なくとも、マックスの中では、彼が死んだのだと、ようやく思えた。
   そのとき、マックスの視界の端に、子供の足が見えた。思わずそちらを向くと、燐粉の
  ような輝きをまとった子供が枝に腰をかけて、マックスを見て微笑んだ。嬉しそうにも、
  悲しそうにも見えた。
   彼だ。
   マックスは……名前を呼ぼうとしたが何も言えなかった。そして、子供は消えた。
   感慨に耽る間もなく、マックスは鳥の鳴き声に我に返った。
   見ると、エルガが木の根元まで来ていた。マックスは、するすると降りる。

  「もう大丈夫なんですか?」

  「まだ少し痛いですけど……」

   よく見ると、エルガの目は充血していた。

  「それよりも……子供達は無事です」

  「わかったんですか?」

  「はい」

   エルガは頷いた。

  「この、鳥達が子供達です」

   ぎゃぁ ぎゃぁ ぎゃぁ ぎゃぁ

   呼応するように、多くの鳥がわめいた。
   マックスは、唖然とした。
   その「唖然」が終わるのを待たずに、エルガはマックスに質問した。

  「……ところで、男の子がいなくなっているみたいなんですけど」

  「あぁ……そうなんですか」

   やっぱり、とマックスはどこかで納得した。やはり、彼は。
   マックスは……自分でも気づかないでいたが……一瞬だけ静かに微笑んだ。

  「それより、これが支柱ですよね?」

   エルガは、強く頷いた。

  「えぇ」

  「どうします?」

  「私には、これを抑える手段とかは分かりません……
   ですから……処分しなければいけません」

  「……そうですか。じゃぁ、一度、村長の所へ行かなければいけませんね。人手がいる」

   すぐにでも発とうとしたが、エルガの両足は止まっていた。

  「……どうしました?」

  「……私、やばいですよね」

  「あー……」

   なにが、とかではない。原因の一端……というか、半分ほどが彼女なのだ。彼女の立場
  は……もしかすると余波で自分の立場も悪くなるだろう。

  「……原因は、この木です。
   で、何か条件が重なって、子供達は消えてしまった。
   あなたは、それを突き止めたんです。その、あなたの力によって」

   少しだけ考えるようにして、そしてエルガは答えた。

  「……まぁ、違ってはいませんけど、でも……」

  「それだけです。この木が、原因なんです」

   エルガは、もう、何も言わなかった。
   マックスは木を見上げた。
   エルガも、木を見上げる。

  「……大きいですね」

  「はぁ」

   奇しくも……というよりも、阿呆のように、二人は先ほどと同じ会話を繰り返した。

   眺めながら、マックスは思った。
   この木はきっと燃やされるだろう。『呪われた木』と認識されては、形が残る伐採より
  も、全てを焼いて浄化されてしまうのだろう。
   人間の勝手な都合が、この長年生き抜いた木を殺すのだ。
   ……しかし、しょうがない。今回の事態は、この巨木の責任ではないけども、同様にエ
  ルガの責任でもない。お互い、「垂れ流し」たのだ。マックスにはなにかわからないもの
  を。
   マックスはまっとうな人間だ。どんなに長い時間を生き抜いた木よりも、人間を優先す
  るのは当たり前だと思った。
   そして、死んだ人間の墓標よりも、生きている人間を優先するのもまっとうなことだと
  思った。

   甘いハッカの味を、少し思い出した。





                                 夏琉


   あれほどにエルガを苛んでいた頭痛は、ある距離を越えて支柱に近づいたとたんに軽く
  なり、今ではほとんど綺麗に拭われていた。一度は消えた石の光も戻っている。

  エルガの目にも、大木はただ肉眼に通常見える姿にしか捉えられない。
  しかし、島をすっぽりと覆っている魔力の頂点が、この木のそれと一致するのがわかる。
  見上げても木の全長を見ることができないが、支柱を目にしたことで魔力の高低を掴むこ
  とができた。

  夜の闇のなか、がさがさと葉の擦れ合う音がはるか上のほうで時折鳴る。木の枝の中に、
  他にも鳥がいるのかもしれない。

  エルガは外套のポケットに手を入れると、新たな飴を取り出した。
  紙を剥いて口にいれる。その際に、持っていた光り玉を手のひらで包み込む形になって、
  その間だけ光が遮られる。そのことに億劫を感じて、地面に玉を落とした。
  緑色の丸い石は転がることなく真下に落ち、光はそのままあたりを照らす。

  「その石、手に持っていなくても大丈夫なんですね」

  二人の足元で光るそれを見て、男が言った。
  下から照らされても、その立ち姿----曲がっていないが取り立てて通ってもいない背筋だ
  とか、わずかに心もとない口物だとか----は非の打ち所もなく凡庸だ。

  「ええ。ある程度私の側にあって、私がそれを認知していれば大丈夫なんです。
   ただ力を軽く流しているだけですから」

  そう、どちらも同じことなのだ。
  この翡翠の玉を光らせていることも、子どもたちが次々に消えていることも。
  必要な条件を整えて、適切な力を流す。
  未だにわからないのは、その「きっかけ」だ。
  光り玉は、エルガの意思をきっかけに力を流し込む。
  今回の現象は、しかしエルガの意図したところではない。

  まぁ、エルガにとってはどうでもよいことだ。
  今回のことは、必ずソフィニアの査察が入るだろう。そのとき、何かわかるかもしれない
  し、わからないかもしれない。
  まったくの偶然が重なってエルガの力が引き出されただけかもしれないし、第三者の意図
  があるのかもしれないし、案外エルガが昨日の夕方にしたクシャミなんかがきっかけなの
  かもしれない。

  この島の住民すべてと男の口を何らかの方法で塞げば、自分がソフィニアに帰ってから受
  けるであろう処分だって間逃れられるのかもしれないが、それだって億劫なことだ。

  「村長のところに行くのって、もしかして一番面倒なんじゃないでしょうか?」

  何か言って、再び山を下りようと動きかけた男にエルガは言った。

  「め、面倒…というと?」

  「だって島の人々の手を借りるのに、彼らが納得するように説明しないといけないのでしょ
  う?」

  「この木が原因だと言えば」

  「それで、納得してくれれば動いてくれるでしょうけど…」

  ずっと大木を仰ぎ見ていたので首が疲れて根元を見つめてみると、エルガの作り出してい
  る光のなか露出した太い根に深い緑の苔がまぶれている様が見えた。
  古い、とても古い木だ。この山の中で、この木の存在は突出している。
  木の種類自体は他のものと違わないが、もともとこのあたりの土地の力が溜まりやすい場
  所だったのだろう。

  島の人間たちにとって見れば、自分は異邦人でその上魔法使いだ。
  しかも、さすがに言付けは残したが、村長に黙って調査から一人抜け出て単独行動をして
  いる人間だ。

  これから島の人間たちの群れに戻って、事情を説明して、この木を処分する。説明は男に
  押し付けるとしても、エルガはその一連の流れを考えただけでひどく辟易した。

  エルガは少し前に出て、片手を伸ばして幹に手のひらで触れてみる。すべらかな肌の木で、
  ぺたりと手をつくことができる。温かくはなく、しかしくっきりとした冷たさも伝えない。

  ぐじゅんとやけに水っぽいクシャミが聞こえて、エルガは振り返った。

  「行くなら早く行きましょうよ…。
   木は、処分するしかないんでしょう?」

  「ええ…、それはそうなんですけど」

  確かに木を処分する----燃やすのか、切り倒すのか、とにかく存在をここから撤去する
  ----のが、もっとも単純な方法だろう。
  この土地この場所自体が支柱であったならばどうしようもないが、今回の場合はそれで子
  どもたちは元の形を取り戻すはずだ。
  魔力の覆いが取り去られれば、その影響も消えると考えて問題がないだろう。

  ばさり。

  大きく羽ばたく音がして、近くにある木の枝が大きく揺れた。
  ふたりがそちらを見やると、頭上の鳥たちのうちの一羽がその木の低い位置にある枝にい
  た。
  暗い中はっきりとした色形はわからないが、大きさはソフィニアの街でもよく見かけるカ
  ラスほどだ。しかし嘴の曲線に鷹を思わせるものがあり、色も暗い色ではあるがあのつや
  やかな漆黒ではない。

  はじめの一羽にならって、エルガたちの頭上に旋回していた鳥たちが、次々に周囲の木の
  枝に下りてきた。
  ただ、「支柱」となる大木に落ち着くものはいない。また、大木から下りてくる鳥もいな
  かった。はじめから、その木には鳥はいなかったらしい。
  ばさりばさりと、十数匹の鳥がエルガたちの周りを枝の上から囲んだ。

  「な、なんなんでしょう…これ」

  鳴き声もあげず自分たちを見据える鳥たちに、男がじりっと後ずさりする。

  「鳥、ですね」

  「元は、子どもたちなんでしょう?」

  「ええ。でも今は翼を持っていますから」

  何故彼らはここまで下りてきたのか。おそらくこの高さが彼らが下りられるギリギリの高
  さだろう。
  本来の姿を攫われ、影だけが飛び回っているのだ。地面に立つことができるとは思えなかっ
  た。

  男の脇をすっと抜け、エルガは男より数歩分、鳥たちに近づいた。
  こうして見てみても、鳥は鳥にしか見えない。しかし、これほどに囲まれているのに血と
  肉と熱を持った生き物がまとまったときの、圧迫されるような存在感は感じない。視線を
  向けられているのはわかるが、鳥たちの爪の先や羽の一枚一枚に、そこから解けて消えて
  しまいそうな危うさを感じる。

  「あなたたちは----」

  エルガは、鳥たちに話かけた。

  「あなたたちは、私を怒っているのですか?
   今の状態を嘆いているのですか?
   翼を得られたことを喜んでいるのですか?
   記憶すら失っているのですか?
   あなたたちは----」

  一番近くの木の枝に止まっている鳥。それと目があったような気がした。
  この暗さでしかも鳥自身が暗い色をしている。目玉がどこにあるかすらよく見て取れない
  のだから、それはきっと気のせいなのだが。
  見えた思った瞳には、とくに人間として知性や悲哀は感じられなかった。

  これは、鳥だ。

  「元に、戻りたいのですか…?」

  問いを締めくくって、エルガは鳥たちを見渡す。彼らは、とくになんの反応もしめさなかっ
  た。
  あれほど盛んに揚げていた鳴き声さえなかった。
  ただ、影の集まりとしてそこにいた。

  「あの…」

  鳥たちに目を向けたままのエルガに、男がおずおずと話しかけた。

  「少し、勘違いをされていると思います」

  「勘違い…ええ、そうなんでしょうけど」

  男の言葉を受けて、エルガは嘆息する。

  たとえ、鳥となった子どもたちがどう思っていようとも、この状況は打開しなければなら
  ないのだ。
  霧が晴れなければ大陸との行き来もままならないし、子どもたちが返ってこなければ半狂
  乱になった大人たちが自分たちにどのような態度に出るか、わかないほどエルガは愚かで
  はない。

  「あ」

  ふと思い至って、エルガは思わず声をあげた。

  そういえば、自分があの鳥の声を聞いたときに、はじめからずっと「苦しそう」と思って
  いたのだった。
  少しずつ少しずつ力を入れ続け首を縊られるもののように。
  出せないはずの叫び声を揚げて小さな拳で自分を閉じ込めているドアを何度も何度も叩く。

  それならば、仕方ないなぁ、とエルガは思った。
  姿を変え翼を持ち、人ととして持っていた絆を断たれ、地面にすら降り立つこともできな
  いその子どもたちの姿は、素直に羨ましかったが、自分の憧憬など本当に無意味なものだっ
  たのだ。

  「どうしました?」

  「いえ」

  不思議と愉快な気持ちで、エルガは口の端を持ち上げた。
  くつくつと笑みが沸いてくる。そうだ、今なら----。

  「魔法を使おうと思います」

  「え」

  エルガの突然の宣言に、男の目が丸くなる。

  「できるんですか? さっき、どうしようもないようなことをいってませんでしたっけ?」

  「さぁ…。できるかどうかは断言できませんが」

  今地面に転がっているのと同じ石を、かじかむ片手で持てるだけ取り出す。

  「支柱があって、子どもたちも集まっていますから。
   それに、なんとなくですがカタチは掴めたような気がするので。干渉くらいはできるん
  じゃないかと」

  「失敗するかもしれないってことですか?」

  「どうでしょう」

  ぺたりと膝をついて草の上に座って、両の手の間で転がしていた石を放すと、それらはエ
  ルガの胸のあたりでふわりとばらけて浮かんだ。さすがに地面の冷たさが、じくじくと膝
  や尻から伝わってくる。

  「『失敗』と言っても、戻るか戻らないかですし。
   戻らなかったら、そのとき木を処分するために村に下りたらいいんじゃないですか?」

  「子どもたちが、干渉したことによって永久に戻れなくなるってことは…」

  「それはないと思いますよ、たぶん」

  「たぶん、ですか」

  エルガは照明に使っていた石の力を止める。中空に浮かぶ石の蛍ほどの強さのわずかに滲
  む明かりと、男が持っているランプの炎が二人を照らした。

  「だって、『絶対』なんて言ったら嘘になるでしょう?」

  「それはそうですけど、懸かっているのは人命ですよ?」

  当然のことながら、エルガの感じているゆるんでいた紐をぴんと張ることができたような、
  見えない手ごたえは男には伝わっていない。
  でも、もうすこしなのだとエルガは感じる。

  「あ、それなら」

  男の顔をじっと見上げると、エルガは言った。

  「少し頭の中を貸してもらえますか?」

  「意味が、わからないのですが…」

  「私は、魔法を組み立てるのがあまり好きでも得意でもないので、ちょっと力を貸して欲
  しいんです。
   記憶を覗いたりすることはもちろんできませんから、そのへんは安心してください」

  エルガは片手を男のほうに差し出すと、にこりと笑んだ。

  他者と同調して魔法を使うことは、実はエルガにとってもっとも苦手な分野だ。
  増幅するにしろ補強するにしろ協同するにしろ、エルガは他者に力を合わせることが徹底
  的にできない。
  そういう力のあり方なのだと、その時指導していた教官はため息を吐いていた。

  しかし、この男なら。
  取り立てて特徴のない自分よりいささか年長の、魔法使いですらないこの男となら、エル
  ガははめ絵に必要な最後のピースを一緒に嵌めれるような気がするのだ。

  それになにより、今はもう姿の見えないあの少年は、この男と繋がっていた。

  エルガにとって意外なことに、男の躊躇は長くは続かなかった。
  自分にぴんと伸ばされたエルガの手を見て、それから支柱である大木を仰ぎ、ふたたびエ
  ルガを見下ろす。

  「あの、痛かったり後遺症が残ったりはしませんよね?」

  「ええ、たぶん大丈夫だと思いますよ」

  「また、『たぶん』ですか…」

  「ええ、たぶんです」

  エルガの白い手は、浮かんだ石の光によって翠に染められている。
  男は一度だけ大きく息を吐くと、エルガのその手に自分の手を重ねた。 





                            フンヅワーラー         



   空白だ。





   空白、だった。
   白い。白い。

   空白だ。




   記憶は、無かった。

   名前すら、分からなかった。
   同じようにつれて来られた子供達の中でも、そこまでひどいのは自分だけだった。
   自分の精神構造がヤワだったのか、単に投薬された量が何かの間違いで多かったのか。
  それとも、自分は、名前をあまり呼ばれていない子だったのか。

   ぼんやりと覚えている親を恋しがって泣く子供が多い中、自分は、何も無くて、さびし
  いと思うことはあっても、それは欠如した自分への感想だということをどこかで知ってい
  た。

   それだけしか残らない親だったのか。それとも、自分が親のことをそれだけしか思えな
  かった子供だったのか。


   空白。


   だから、断定できる要素など何も無い。


   名前の変わりに、番号を与えられた。
   そして、あまり呼ばれることの無い仮の名前ももらった。
   そして、多くのことを学んだ。

   情報を操る方法、人にまぎれる立ち振る舞い、利用できる植物の知識、人を殺す技術、
  心の訓練。

   空白だったから、そのまま綺麗に埋まった。

   心の訓練と、人にまぎれる立ち振る舞いは得意だった。
   この、なんだか分からない機構の末端に組み込まれてしまったのだから、仕方が無い。
  その諦めが、中身が虚ろな空洞の忠誠心のようなものとなった。
   「大人達」の命令であれば「殺せ」という言葉でも「死ね」という言葉でも、理由を何
  も聞かずに実行できただろう。事実、そうだった。
   そうしなければいけない、といういう認識ではなく、そうするしかないなぁ、というさ
  ほど悲観的でない諦観によって。

   だけども、力の入れ方が下手だった。
   だから、将来は実行する役の人ではなく、一般の生活にまぎれて生活する諜報か何かに
  当てられるだろうと薄らぼんやりと確信していた。



   あの子と喋ったのは。
   そう、あの子だ。
   名前……は。

   それも白……いや、埋まっている。
   覚えているのだ。覚えている。忘れてはならないのだから。

   なぜだ。
   なぜ。

   そう、そうだ。約束を。
   約束をした。



   あぁ。


   ナンバー9[ナイン]。
   彼は、成績がよかった。
   だけども、いつも、自分には無い、心の炎を燃やしていた。
   とても賢く、汚れた中でも純真さを失わず、冷静に機会を探して。
   存在自体が、とても輝いていて、目立っていた。

   何も無い自分とは真反対の少年だった。


  「逃げよう」

   なぜ、自分なんかにこの声をかけたのか。
   わからなくて、ぼんやりしていたら腕をひっぱられた。
   確かにチャンスではあった。
   大人達は、子供達は押し込めると、あわただしく上に行っていた。
   上はなにやら騒いでいた。怒声と、金属が打ち合う音が飛び交う。
  
   どこかの国かの武力部隊が、踏み込んだらしかったことが分かった。
   いや、それは……。それは、あとから分かった話だ。


   そうだ。 記憶が、渦巻いて、前後が。
   今は……いつだ。

   そう、子供だ。自分は、子供なのだ。

   子供……あれは、ナンバー9だった。
   自分の番号はあまり思い出せないのに、彼の番号だけは覚えている。

   そう、ナンバー9の、彼の話だ。

  「ここにいても、他の場所に連れて行かれるかもしれないし、管理される生活だ。
   もしかしたら、殺されるかもしれない」

   どちらに、と思ったが、考えれば可能性は両方にあった。
   しかし、自分にとってはどうでもよかった。
   だから。
   どうでもよかったから、引っ張られるままについていった。
   一緒に逃げた理由は、ただそれだけだった。

   ただ、流されるように走りながら思っていたのは、何故、自分なのかということだ。
   他にも、沢山いたのに。
   自分はあの中にいて、埋もれていたのに。

   自分が、この手を引かれるほどの存在なのだとは、到底思えなかった。



   逃げたのは、あと数人かいた。
   一晩をそのメンバーで過ごしたその夜。


   約束。

   そうだ。
   約束を。

  「交換をしよう」

   そう、交換をした。

   何を。
   自分が、持っていたものは、何もなかったはずだ。

   交換したのならば……自分は、彼のモノを持っていなければならないはずだ。
   それすら、私は、持っていない……。

   私にあるのは……。


   あぁ………。
   そうか。


 
   自分の名前は……。



     ●   ●   ●



   白……。

   いや、違う。日差しが直接顔に当たって、単にまぶしかっただけだった。
   目が覚めても、マックスは起き上がりもせず、目に当たる光を手でさえぎったまま、しば
  らく呆としていた。
   あらためて確かめるまでも無い。ここは、宿屋だ。自分のとった部屋のベッドだ。 
   顔に当たる暖かな光で、時刻を測る。
   昼前か、と、目星をつけたあたりでようやく気づく。
   霧はすっかり晴れたようだ。
 
  「成功したのか……」

   小さく、呟く。
   そして軽い深呼吸をひとつし、自分の身体に異常が無いかを確かめる。
   多少、身体の筋のところどころが痛いが、わめくほどのことでもない。意識も、ぼんや
  りとしたところはなく、むしろいつもより鮮やかだ。後遺症は……まぁ、無い、とは言え
  ないが、可能性は低いと見ていいだろう。
   ……あくまで、多分。

   しばらく、外から聞こえる、人の声を聞きながら……その中には子供の声も多く混ざっ
  ていた……マックスは呆けてたように天井を見ていたが、一息ついてようやく起きた。
   お腹がすいていることに気が付いた。



   思えば、昨日は夕食を抜いていた。道理でお腹が空いているわけだ。
   昼食にしては少しボリュームのある食事を、淡々とマックスは口に運ぶ。
   起きたら少しびっくりされたものの、お腹が空いたことを伝えると、すぐにあったかい
  食事を用意してくれた。
   静かに一人食事をして、ようやく心地がついたところで、ようやく、彼女のことが気に
  なった。
   彼女は、あの木の所では大丈夫そうであったが、その直前、具合が悪かったのは、確か
  だ。あんな状態で、魔法を使っても大丈夫なものなのか。……よくはわからないが、素人
  から見ても、良くは無いものなのだろうと思う。

  「あのまま気絶するとは思わなかったんだよなぁ……」

   何かにぼんやりと言い訳をする。
   そういえば、自分はどうやって戻ったのだろう。
   スープをすくうスプーンを口にくわえたまま、空中を眺めていると、ドアが開いた。
   あわてて、スプーンを口から出しながら、見ると村長と、その後ろに宿屋の主人がいた。
   道理で、食事を出された後、姿を見なかったわけだ。
   マックスはとりあえず、頭をへこりと下げた。



  「昨夜のことは、お聞きになったと思いますが」

  「はぁ」

  「子供達が戻りました。全員、無事だということも確認できました」

  「それは、よかったです」

   微笑んでみせる。村長も、それを受け、口元に笑みをうかべる。

  「はい、あなたの逗留のお引止めも、もう、いたしません。ありがとうございました」

  「いえ、こちらこそ」

   ……バレて無いのか? あの状況で、夜いなかったのは、怪しまれてもおかしくないの
  だが。
   いや、そんなはずはない。この宿屋の主人が報告していないはずはないのだが。

  「ところで」

   やはり。

  「昨夜、魔術師学院の派遣の方とどこかへ出かけたらしいのですが。
   エルガさんと、どちらに?」

   どう答えたら、状況は悪化しないのか、様子を見るため、しばらく、相手の出方を見る
  ことにした。
   そう、間を待たず、村長は喋りだした。

  「……私は、魔法というものは、まったく分かりません」

   ……こっちもそうなんだが。

  「こんな狭い島ですから、そんなもの見たこと無いですからね。
   子供達が……文字通り、霧のように消えて。子供達が、突然戻ってきて。そして、御伽
  噺のように、魔女にさらわれた子供が戻ってきたように、子供達は消えたときの記憶が無
  いと、みんな口をそろえて言うんですよ。
   今回のように、『魔法のような』という言葉がぴったりである現象があると……どうし
  ても、彼女を疑ってしまうのは……仕方ないものでしょう?」

   やはり、疑っていたのか。
   と、スプーンを未だに握っていることに気づいて、話の腰を折らないようにテーブルに
  さりげなく置く。

  「あなた方がこの島に滞在し始めて、この事件が起きた。そして、あなた方が、昨日の夜
  どこかに行って、子供達が帰ってきた。
   この島は本当に小さいところでしてね。この時期、お客さんが複数いるなんてこと、滅多
  に起きないんですよ。
   マックスさん。終わったこととは言っても、私は、次にもうこのようなことが起こらな
  いように、今回のことを把握しなければいけません。
   本当のことを、おっしゃっていただけませんか?」

   誤解だ。まったくの誤解だ。
   ……きっと、本当のことを言っても信じてもらえないのだろう。
   マックスは、心の中でひとつため息をつき、エルガに少しだけ謝る。

  「あの……誤解です。
   私と、彼女は……昨日が初対面です」

  「初対面にしては、やけにご一緒に行動をされていたようですね」

   笑ってみせているのか、村長は目を細めた。顔の形は笑っているのに、決定的に笑って
  いない。
   あぁ、すごい。こんな挑発的なことができるとは。自分にできることは、愛想笑いだけ
  だというのに。
   だから、マックスは愛想笑いの一種である、厭味に取られないような、苦笑をしてみせ
  た。

  「えーと……。お恥ずかしいんですけども……。
   まぁ……こんな状況だっていう……いや、こんな状況で、不謹慎ではあるんですけども
  ……だからこそというか……。
   ……ああいう状況に無関係な立場で、話せる相手が異性で、閉鎖された環境であれ
  ば……。通常よりは、親交が深まりやすくなってしまうのは、仕方ないことだと……」

   疑っている相手を信じさせるには、相手の推論をまったく否定したものを用いては成功
  しない。「なんらかの関係性があるから、2人は行動をしていた」と思っているのならば、
  それを採用すればいい。
   そして、あとは誰もが興味を持って、そして触れにくい下世話なネタをいれておけば、
  大抵は丸め込める。
   少なくとも「なんとなく、彼女に引き連れられました」とバカ正直に話すよりは、信じ
  やすいはずだ。
   ……この聡明な人に通じればいいのだが。
   そう祈るように思いながら、村長の顔を見ていたが、村長は、ふ、と顔の筋肉を緩めた。
   マックスの心がわずかに浮く。が、彼はマックスの思っていた以上に冷酷な人間だった。

  「会ったばかりだというのに、霧の濃い深夜に……デートですか? こんな事件が起きて
  いたのに?」

   やはり、俗物なことに食いつかないし、遠慮もしない。
   マックスは……正直、感心した。
   こんなにも出来た人が、なぜこんな小さな島に収まっているのか。
   まじまじと、改めて村長を見る。……ただし、表情はまったく変わっていないので、相手
  にはいつも気づかれないが。
   と、そういう場合でないことにすぐに気づき、マックスは我に返った。この沈黙は、長引
  かせてはならない種類だ。

  「彼女は、子供を探しに出たんです。
   で、夜一人で出るのは不安だと、一緒に来てくれるよう、私に」

   嘘ではない。……一応。
   口の端をわざとらしく吊り上げ……自分とは違って、意図的にそう見せているのだろう
  が……スマイルを作りながらも、何かを試すような視線が、無遠慮にそそぐ。
   マックスは、どこを見たらいいのか迷って……結局は、やはり目立っている村長の口元
  辺りを見ることにした。

  「わかりました」

   ふぅ、というため息と共に出てきた言葉。

  「失礼な質問でしたのに、答えていただいてありがとうございます」

   村長は右手をマックスの目の前に差し出した。
   マックスはなんとなく「はぁ」などと言いながら、応えてその手のひらに自分の手のひ
  らをあわせると、握られ、上下に軽く振られ……一般的に言うところの、握手を交わした。
   生ぬるい体温に触れながら、マックスは、村長の意図を理解した。

   別に、どう答えようと、どうでもよかったのだ。この人は。

   あんな吹っかけ方をすれば、万が一真実であろうが、正直に言うはずが無い。なんにし
  ろ、「何かを否定」する答えが返ってくるのは、当然のことだった。
   これは、牽制だ。
   返答を信じるとか、信じないとかそういう次元ではなかった。
   どんな言葉を紡いだとしても、それは流されることは、質問する前からの決定事項であっ
  た。
   この質問は、疑わしい者の滞在を早く切り上げてもらうため……要は「早く帰れ」「二
  度と来るな」と言いたいだけだったのか。
   なんと……なんと、上手なことか。
   マックスは、感動すらしていた。
   そして、ただ握られていただけだった手に力を軽く入れ、握り返した。

  「よければ、お名前を聞かせていただけませんか?
   あ、私は……」

  「いえ、あなたのお名前は存じております。マックスさん」

   彼の握る手に、心なしか力が少し入った。

  「私は、サイラス・ハンフリーと言います」



     ●   ●   ●



  「名前を、交換しよう」

   何故、そんな話の流れになったのかは、覚えていない。
   互いを覚えていようということだったのか。単に、どちらかが死んだとき、追跡者をご
  まかせるためだったのか。それとも、単なるゲームだったのか。

  「20年後、再び交換して名前を戻すんだ」

   ナンバー9は、笑ってそう言った。
   そして、とある、港の名前を出し、そこを待ち合わせの場所に指定した。

  「僕の住んでいた島との連絡船が着く港町なんだ」

   ナンバー9は、故郷への誇りを少し込めながら言った。
   故郷があることをうらやましく思いながら、ナンバー9の思い出話を聞いた。
   ひとしきり話して、ようやく、それに気づき、少し照れたように、ナンバー9はこう切
  り出したのだ。

  「君の名前は……?」

  「………***」

   ……何を言ったのか、覚えていないのだが、組織から与えられた名前を答えてしまった
  ことを覚えている。今、思えば恥ずかしい限りであるが。

  「僕の名前は……ちゃんと覚えていろよ」

   勿体つけるためか、それとも、ちょっとしたジョークだったのか、単に自分が頼りなさ
  そうに見えたのか。……恐らく、3番目の理由なのだろうが……ナンバー9は親愛のこもっ
  た笑いを向けた。

  「僕の名前は



     ●   ●   ●



   オレンジ色に照っている海の上、船が浮かんでいる。
   夕方の便が出航したのだ。
   巨木の枝に腰をかけ、マックスはそれを眺めていた。首には、宿で借りたマフラーが巻
  いてあるものの、やはり、冷えた潮風が寒かった。
   手に持ってある花束の花びらが、一枚ちぎれて飛んでいった。
   彼女はあの船に乗っているのか、とぼんやりと思った。
   マックスは、別れ際の村長、サイラスとの会話を思い出していた。


  「そういえば、あの……エルガ、さんは」

   そういえば、昨日は一度も彼女の名前を呼んでいなかったことに、そのとき気づいた。
   名前とは、目の前にいるときよりも、いないときの方がよく使われるものであるのだ、
  と、マックスは思った。

  「あぁ、エルガさんは、私の家で休んでいますよ。
   ……お聞きじゃないんですか? 彼女、ソフィニアの学院から派遣されているので、私の
  家で開いている部屋を提供してるんですよ」

   道理で、宿では見なかったはずだ。

  「あの……休んでいる、というのは。どこか調子が悪いのですか?」

   ……気分が悪いのは、治ったのだろうか。魔法を使ったので、また悪くはなってはいな
  いだろうかと、さっきからそれが気がかりだった。

  「どうなんでしょう……。すぐに寝てしまわれたので。
   あぁ、そうだ。今日の夕方の便で、大陸に戻られるとか言ってましたよ。ご一緒の便に
  帰られるのですか?」

  「まぁ……不甲斐なく、途中で気絶してしまったんで。……鳥に襲われましてね。
   ですから、きっと、愛想尽かされたと思うんで……」

   彼女に迷惑がかからないように、ここで手をうっておこうと、はは、と力無く笑ってみ
  せる。
   が、しかし。

  「……案外、そうでもないかもしれませんよ」

  「は?」

   予想しなかったサイラスの言葉に、マックスは、一瞬、何を言われたのか理解できなかっ
  た。
   消えてしまった言葉の代わりにもならないのに、サイラスの顔を確認する。彼は真顔だっ
  た。

  「彼女、背負って、ここまで連れて来たらしいそうですから」

  「何……を」

   サイラスは、マックスに視線を向け、その分かりきった答えを示した。
   それでも、マックスはその示している意味が、しばらくわからなかった。
   サイラスは、そんなマックスのことなど気にせず「では」と言って出て行った。


   未だに、あの言葉が信じられない。
   てっきり、人を呼んで運んでもらうように伝えて、自分はそのまま帰ったものだと思っ
  ていたのに。
   体調が悪そうだったし……いや、そういう問題でもない。そもそも、彼女は知り合った
  ばかりの人間にそこまでする人間性ではないはずだ。エルガについて、確信を持って、マッ
  クスはそう言える自信があった。
   マックスは、人間性を見抜くという才能を持っていることを自覚していた。一度、これ
  だと掴んだものは、滅多に外れることがなく、……だからこそ、幸か不幸か相手に過剰な
  期待も落胆も、ほとんど、いや、皆無と言っていいほど、なかった。
   確かに、確かに彼女は、そういう人ではないというのが分かるというのに、事実は違う
  というらしい。
   ……もしかして、自分の知っている彼女と、村長の言っているエルガという女性は、別人
  ではないのか? ……そんなわけあるはずもないのに、そんな滑稽な考えまでが浮かぶ。
   サイラス村長の言っていることが本当だとしていたら……お礼でも言っておくべきだっ
  たのだろうか。
   あぁ、それに、彼女は。

   ―――彼の墓標を守ってくれたのに。

   ……彼女は、そういう意図ではなかったというのはわかっているのだが。
   花束を握る手に、わずかな力が入った。
   宿屋の主人に作ってもらったものだ。墓参りに持っていくつもりで言ったのだが、サイ
  ラス村長との会話をこっそり聞いていたのだろう、なにやら彼女にあげるものだと勘違い
  して、せっせと作ってくれたものだ。幾ばくかの金銭を渡そうとしたのだが、全てを了解
  したような満足げな笑顔で、受け取ることを断られてしまった。
   花束を、両手で握り直し、しげしげと眺める。
   言おうにも、彼女はもう、あの船でこの島を出て行ったのだ。これから再び出会うこと
  も、もうないだろう。
   そう、いつものように割りきる。
   さして熱のない決意をし、マックスは、持っていた花の包装を解き始める。宿屋の主人
  が一生懸命きれいに見えるように包んでくれたことが、少し申し訳なかった。
   そして、しばらく、赤く染まった空を眺め、一呼吸で気持ちを抑えて、花束を空中に放っ
  た。

  「名前を、ようやく返しにきました」

   突如、強風が吹き、その花を空に撒き散らした。
   そして、その風に乗って、どこから現れたのか、大きな黒い鳥が一羽、花を一輪、くわ
  えてマックスの目の前を横切った。




     ●   ●   ●



   半年、あの港町で過ごした。仕事場も、いつでも船の発着場が見れる所を選んだし、朝と
  夕の便には、雨だろうと、欠航でなければ港を散歩するのが日課となっていた。

  「あいつは、死んだよ。
   追っ手とか関係なく、単に人をかばって、事故で死んだんだ」

   一緒に逃げた中に見た人物から、そう聞かされた時。
   あぁ、そうなんだ、と。ただ、そう思った。
   いや、そう思っていたと思い込んでいたのだ。あの時は。

   それを聞いた頃には、もう組織から与えられた名前なんか消えていた。
   だから、彼の名前に縋り続けて、残りの年数を過ごした。
   愛称だけを使って、本当の名前を、大事に取っておいた。
   そう過ごしていたからなのか、約束の20年が近づいた時、「彼が死んだ」という実感
  が無いことに気づいた。


   この名前が生きているのに、彼がいないなんて、おかしなことではないか。


   ただ、ごく普通に、そう思っていた。
   だから、大事に抱えて、無為に半年も、遅らせてしまった。



     ●   ●   ●



   花をくわえた鳥は、何度か何度か旋回し、「ぎゃぁ」と一鳴きすると、そのまま飛んで
  いった。
   ”マックス”はしばらくそれを見送ったあと、のろのろと木から下りた。
   そして、心の中でそっと謝った。

   自分は卑怯である。
   伝えることができるのは、自分だけだというのに、口を閉ざして、自分は、ここを去っ
  ていく。
   保身のためだ。目立つ行動は、もう、これ以上してはいけない。
   自分は、「平凡」であることを鎧としているのだから。

   途中、この巨木に刻まれた名前に一度だけ、触れた。
   そこに刻まれた名前は。

   ”マクセル・ハンフリー”と書かれていた。



     ●   ●   ●



  「あ……おはようございます」

   朝の便の船の前にいたのは……エルガだった。

  「………おはようございます」

   一瞬、間が空いたものの、”マックス”も挨拶を返す。
   なにか喋るのかと、”マックス”は待ってみたが、どうやらこれで終わりらいし。

  「えっと……昨日の夕方の便で帰ると聞いていたんですが……」

   一応、切り出してみる。

  「あぁ……寝坊をして……」

  「……はぁ。……そうですか」

   昨日のあの見送りは一体なんだったのか。……まぁ、勝手にやったものではあるのだが。

  「あぁ……運んでいただいたみたいで。
   あの、ありがとうございます」

  「あぁ……。えぇ……そうですねぇ」

   なんだか分からない受け答えをされ、”マックス”は少し困った。だが、エルガは、それ
  からの何かを求めていないようだったので、”マックス”はその後ぼんやりと横に突っ立っ
  て、出航時間を一緒に待つことにした。
   と、ひょっこりと、3人の子供たちが、少し離れた所からこちらを伺っているのに気づ
  いた。「余所者」を見学しに、というところだろう。
   マックスと目が合うと、内二人の子供……男の子と女の子は物陰に隠れた。が、残る最
  年少の一人の女の子は、目を輝かせ、ぷっくりとした頬を膨らませるように笑った。
   そして、覚束ない足取りでこちらに走ってきた。後ろで、面倒見役の年上の子供達は、
  それを止めようと「おい!」とか言っているが、女の子はそんなものが聞こえないかのよ
  うだ。
   流石に、エルガも気づいたのか女の子を見ていた。
   そして、女の子はエルガの前まで来ると、まじまじとエルガの顔を見て、パッと笑顔に
  なった。
   すると、両腕を横に水平に持ち上げ、上下し……そう、まるで鳥の物真似をしているか
  のような動作を……と思いあたると。

  「ぎゃぁ ぎゃぁ」

   と、鳴き始めたのだ。
   その鳴き声は、あの鳥のものとは全く別物で、可愛らしい声ではあったが、確かに、それ
  は、あの鳥の物真似であった。
   マックスとエルガは、その女の子を見て……そして、ほぼ、同じタイミングで顔をあわ
  せた。
   確か、村長は、子供達は消えたときの記憶は無かった、と言わなかっただろうか。

  「馬鹿! 何してるんだよ!」

   見かねた年長組がやってきて、男の子は女の子をポカリと殴った。
   すると、女の子は、鳴き声を泣き声と変えた。
   男の子は、うろたえ、年長の女の子は「あーあ」という顔をして、男の子を責める目付
  きをする。そして、泣いている女の子の手を引っ張って連れて行こうとするも、女の子は
  頑として動かない。
   まるで、泣いている自分が世界の中心かのように思っているのか、その態度は頑なであっ
  た。
   ”マックス”が目線を合わせてあやそうとしゃがむと、後ろから手が伸びた。
   手のひらには、ピンクに色づいた、丸い「玩具の宝石」のようなものが載っている。

  「飴。舐めます?」

   エルガだ。なにやらガサガサとポケットを探っていたと思ったら、コレを探していたら
  しい。
   女の子は、泣きながらもそれを確認すると、ぴたりと泣き止み、ぐしゃぐしゃの顔で、
  その飴玉をつまんで、口の中にいれた。

  「……甘い」

  「えぇ、飴ですから」

   なんというか、ミもフタも無い受け答えだ。
   しかし、女の子は、満足し、さっきまでの泣き顔がウソのように、満面の笑みを浮かべ
  ていた。

  「……そちらも、いりますか?」

   と、年長組みにも差し出す。こっちは、包み紙がまいたままのものを差し出す。
   年長組みは、恐る恐るそれを受け取り、恥ずかしそうにお礼を言って頭をさげた。
   そして、「そら、行くぞ!」と女の子を促し、その場を離れていった。
   それをしばらく見送っていると。

  「あの……私にも」

   ……。何だ?
   今のは、自分が喋ったのだろうか。
   ”マックス”は、自分が今、何を喋ったのか、しばらく認識できなかった。

  「……なんですか?」

   なんなのだろう。
   そう聞かれても、自分でもさっぱり分からない。
   なのに、分からないのに、口は勝手に答えていた。

  「私にも、飴を下さい」

   ……何を言っている?
   ”マックス”は、内心、ひどく混乱していると、エルガは飴の包みを”マックス”に差
  し出した。

  「どうぞ」

   自分で欲しいと言っておきながら、「やっぱりいいです」と言うわけにもいかないので、
  ”マックス”は、それを受け取った。

  「……ありがとうございます」

   訳のわからぬまま、いじるように包み紙を剥ぐ。中から出てきたのは、無色な、白色の
  飴だった。
   口に放り込もうとしたときだった。

  「そういえば……名前」

   びっくりして、彼女の顔を見る。

  「言ってませんでしたよね」

   はぐ、と彼女は自分用に出した飴を口の中に遠慮なく入れた。

  「……いや。……確か、お聞きしましたけども。
   エルガ・ロットさん、ですよね?」

   どうやら、名乗ったことすら忘れたらしい。

  「あぁ……なら、いいんです」

   エルガは、再び、ぽんやりと、視線を海に向けた。
   ”マックス”も、つられてその方向に目をやる。そして、手の上に乗っかった飴玉を再
  び見る。そして、人差し指と親指でつまんで、口の中に入れた。

  「名前」

   エルガが再び、同じ単語を繰り返した。

  「……聞いてませんよね。私。
   多分、いっつも聞かないから、聞いてないと思うんですけど」

  「……はぁ。
   あの……でも……」

  「何か?」

   海を眺めていた視線と同じものをこちらに向ける。
   ……正直、彼女は覚えてくれるのかどうか。……別れ際という問題を差し引いても、そん
  な不安があったが、流石に面と向かって言う勇気も無かったのでやめた。

  「いえ。なんでもありません」

   いや、それは単なる言い訳だ。
   そう余計なことを考えてしまうのは、もっと単純な理由からだ。
   答えが。まだ、名前が、無い。
   名前を返したものの、自分の名前は返してもらっていないのだから。……いや、返して
  もらったとしても、それもまた「自分の名前」ではないのだが。

  「あー。えーと……」

   ”マックス”の視線がハエのような軌跡を辿る。そして、その虫の視線は、エルガの顔
  で止まった。
   途端、

  「マックスです」

   何も考えもなしに、ポンと思わず口をついて出た。
   それは、20年前と全く同じ愚行だった。

  「船がでるよー」

   船頭が声をかけ、エルガはパタパタと船に乗るべく歩いていった。
   マックスも、それに続く。
   船に足をかけながら、マックスは自問していた。どうも、彼女と一緒にいると、自分の
  調子が崩れてしまうのは何故なのか……。
   だが、その疑問はすぐに投げた。どうせ、この船から再び下りた時、彼女とはもう二度
  と会うこともないのだ。そんな原因を突き止めても、意味の無いことだ。

   マックスは、それ以上考えないことにした。



   ―――数年後。
   マックスは、今現在知る由も無いことだが……彼らは再会することとなる。
   そして、その時に、ようやく、マックスはその問いの答えを見つけることとなるのだが
  ……しかし、それはまだまだ、先の話のことである。



  「あの……」

  「はい」

  「……ハッカの飴って嫌いなんですか?」

  「……いえ、別に」

  「……そうですか」

   マックスの口の中で、あの凍える夜の味がしていた。