「君影草の花が揺れて」 悠々
今宵は上弦の月。
遙か霊峰がその薄光に霞み、湖水へと影を落としている。半月もまた、朧な姿を水面に
映していた。影と光が重なり、小波が二つを混ぜる。
そして今宵は上弦の月。
月光が泡沫の夢の如く湖畔に降りて、群棲する君影草を仄かに照らしていた。頭を垂れ
て咲いている君影草の白い花達は、まるで闇を飾っているかのようである。
その花の中程に、花と同じように俯き加減に座っている少女がいた。月光に映るその柔
肌は、纏っているシルクとの境すら分からぬほどに透いた白。肩ほどの黒髪には小さな髪
飾りが一つ、銀色に輝いていた。
僅かな風に乗って、君影草の香りが湖水に流れる。少女は顔を上げると、まるでその香
りの行方を追うかのように、水色の双眸を漂わせた。
色の薄い瞳は、感情すら色を浮かべることを拒絶しているかのようである。端正な顔は
人形の如く。そう感じさせるほどに、少女の顔には心の動きは浮かんではいなかった。
その時、人影が少女の背後から近付いてきた。弱い月光に映ったその影が、白い花の上
に落ちる。少女は相手の気配を感じ取るかのように、僅かに首を動かした。
「リュリュ様」
その声は少女と変わらぬほど、若い女のものだった。
リュリュと呼ばれた黒髪の少女は、再び湖水へと視線を戻す。相手の次の言葉を待つつ
もりなのか、唇はきつく結ばれたままである。背後の女も彼女が返事をするつもりが無い
ことが分かっているのか、更に近付くと、少女の横へと膝を付いた。
「リュリュ様」
「……何?」
「お父上がお呼びです。儀式の事でお話があるそうです」
「そう、ありがとう」
リュリュは静かに立ち上がり、そして暗闇へと消えていった。残った少女はその姿を追っ
て振り返る。顔に浮かんだ表情は、哀れみとも同情ともつかぬものである。
「まるでお人形のよう……」
今更ながらの感想を述べてから、
「でも感情を消さないと、私ならきっと堪えられないわね。だって水竜様の花嫁なんて…
…」
「ご用でしょうか、お父様?」
静かに開いた扉から、リュリュが音もなく入ってきた。
ここは古い神殿に隣接する屋敷の、その一室だった。部屋にいるのは、神殿の神官であ
り、リュリュの父親でもある、壮齢の男である。白い神官服は少女の服と同じくシルク製
のものだったが、襟元は金の刺繍が縁取られている。首から下げている大きな首飾りには、
竜のようなものが象られていた。
「また湖に行っておったのか?」
「はい。あの場所は心が落ち着きますから」
そう言いながら、リュリュは手にした花を、サイドテーブルに置いてあった花瓶へと挿
す。その一瞬、白い花達が鈴のように小さく揺れた。
そんな娘の様子を、父親は黙って眺めている。お互いに“運命”だと諦めたことは口に
はしない。だから父親も娘が湖に行くことを、それ以上咎めはしなかった。
「あと半月。わかっておるな?」
「ええ。ずっと待っていましたから」
「待っていた?」
「水竜様の花嫁となってこの魂を捧げるのは、素晴らしいことなのでしょう、お父様?」
見返した淡いブルーの瞳には、哀しみはなかった。挑戦的な言葉はあるが、その声色は
穏やかで、決して父親に棘を出したわけでは無さそうだ。いや、そう繕っているだけかも
しれない。
リュリュは口を噤むと、ただ柔らかに微笑んだ。今宵、彼女の顔に初めて浮かんだ表情
である。
「ご用というのは何でしょうか?」
一瞬にして真顔に戻ったリュリュが、再び尋ねた。
「儀式の時に着る衣装だ」
「衣装ですか……」
リュリュは纏っている服を見下ろし、小首を傾げる。細かなドレープが重なった白いワ
ンピースだ。一見一枚布で作られたようなその形は、神官の娘という地位をそのまま表現
する神秘的なシルエットで、リュリュはこの服が気に入っていた。
それに、白は素敵な色だとリュリュは思っている。紅く縁取られた運命さえも、純白に
染めてくれそうだからと……。
「やはり新しい物を用意した方がいいだろう」
「百年前はどうだったのですか?」
「花嫁の衣装までは書いてはいない」
「そうですか」
死装束。その言葉が一瞬、二人の間に浮かんだかもしれない。
花瓶の花が頭を垂れて、二人の会話を聞いているかのようであった。リュリュの気持ち
を代弁しているかのように、哀しげに、そして儚く。
君影草の花が揺れる。
香りに鈴の音を忍ばせて、君影草の花が揺れる。
君影草 ─ 鈴蘭の白い花が……。