<少女と花屋と青い瞳の少年>  <蒼い花と、いい天気>  <雨と蜜蜂>  <女神の涙と、言いがかり> 



          <少女と花屋と青い瞳の少年>       蒼井りせつ


   雨は汚れた石畳を叩き、激しく跳ね返る。
   激しい雨の前に、人々は傘を差すことさえなく、そもそも家の外に出ることさえなく、  
  この雨で家がつぶれてしまわないかという、およそあり得ない不安に駆られながらじっと
  身を潜めているだけだった。
   昼間だというのに世界は青く灰色の世界に包まれる。
   人気のないモノトーンの町は、それ自体が高名な画家が描いたかのような完璧さと、同
  時に空虚さを感じさせる。
   そもそも、空虚であり人間が居ないことが、完璧であることの条件なのだ。
   モノトーンの町に影が一つ。
   それは世界の中で唯一赤いもので、誰が何も云わなくても特別の存在であることを物語っ
  ている。偉い学者が、その特異性を高らかにうたいあげたところで、それが赤色である、
  という事実の前では無意味な説明に過ぎない。
   赤いそれは、モノトーンの世界の中でゆっくりを顔を上げる。
   少女。
   年齢は12かそこいらだろうか。
   赤は彼女の差す傘の色だった。折からの激しい雨に打たれてすっかり弱ってはいたが、
  まだ彼女を守るだけの体力は残っていると見えて、一踏ん張りを見せている。彼女はとい
  えば、そんな傘の努力を気にかけるでもなく、幼さが残りつつも凛々しい面を上げる。

  「お父さん、お母さん」

   町の真ん中で少女は呟いた。激しい雨の音にかき消える彼女の声。弱くか細いその声は、
  しかしながら、彼女の存在までは消し去らなかった。

  「私は……どうしたら強くなれるの?」

   答えが得られようはずもない。
   それは少女にも十二分に理解できることのはずだった。

  「私は……どうしたら一人で生きていけるくらい、強くなれるの?
   お父さんやお母さんが居なくても生きていけるくらい、強くなれるの?」

   答えを求めているのか、問うことそのものが答えなのか、それさえも分からぬまま、少
  女は赤い傘を差す。
   雨は、よりいっそう強くなっていく気がした。

  「私、強くなれるんだったら何でもする。
   一人で生きていけるくらい頑張る。
   頑張るから……。
   どうやったら強くなれるのか、教えて……」

   傘は雨に揺れる。
   それでも少女を守る。
   その健気な赤が、モノトーンの町で霞んでは現れる。
   それは少女の悲しげな表情を隠し、彼女が得たい力を空想させる。

   それが答えだったのかもしれない。

   納得しない。しないが、得られるものがそれしかない以上、彼女はそれを享受するしか
  なかった。

  「……分かった」

   少女は小さく呟くと、再び面を下げる。
   傘は再び雨の中で揺れる。

   エリ・バクスフォード、12歳の祭日。

   その時、彼女の求めるものを与えてくれる存在が、彼女の側に居ることを、まだ彼女は
  知らない。


  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


  「やっほー、エリ」

   奉公先の花屋で大きな鉢を表に出しているエリに声を掛けるものがあった。

  「ん?」

   見上げると、其処には彼女が見慣れた顔がある。

  「あ、ああ!」

   彼女、ニナは短いブロンドを揺らして軽く手を挙げる。
   エリは鉢を置くと、小走りに駆け寄ってニナの手を握った。

  「ニナお姉ちゃん!久しぶりじゃない」
  「うん!久しぶり!」

   傍目に見てもそれが旧知の仲だと分かる二人は、お互いに手を取り合い、再会を祝う。
  「元気だった?」
  「うん。だからここに来れてるんだよ」
  「ああ、そっか……」

   ははと笑いながら、ニナの姿を見る。
   短いブロンドによく似合う、厚手の皮の服と長いマント、ブーツ。腰には彼女の細く綺
  麗な指には不釣り合いな、無骨な剣が差されている。

  「へぇ、まだ冒険者やってるんだ」
  「まだ、っていうのは失礼ねぇ」

   あまり失礼ではなさそうに云う。

  「好きでやってることだからね」
  「うん。分かってるよ」

   エリは微笑んだ。
   何よりも、今のニナの表情が幸せに満ちていたからだ。

  「とりあえず、中で話をしよ?」
  「いいの仕事は?」
  「うん。今日は私一人で店番だし。お客さんもそんなに来ないしね」
  「うん。分かった」

   エリはニナを招き入れる。
   正直に言えば、彼女の幸せそうな顔が、少しばかり羨ましくて、そして、妬ましかった
  のだ。



  「で、何とか無事にローレンの首輪をゲットできた訳なのよ」
  「へぇ」

   楽しげなニナの冒険譚を聞きながら、エリはマルフォリッツの茶葉を深めに煎れる。ニ
  ナの好物なのは知ってたし、エリの好物でもあった。

  「でも、すごいじゃない。そんなものを手に入れちゃうなんてさ」
  「っていっても、私一人の力じゃないしね。セクシーな冒険者のお姉さんがついててくれ
  たから達成できたと思うよ」
  「でもこれでニナお姉ちゃんのギルドランクも一つアップ、ってかんじ?」
  「まだまだよ」

   ニナに合わせてエリも煎れたてのお茶を飲む。舌先を刺激する苦みと、その奥に微かに
  感じる甘みが好きだった。

  「ああ、でもいいなぁ、お姉ちゃんは」
  「なによ、溜息ついちゃって」
  「だって、憧れの冒険家になれたんだもの」
  「うーん、まあそうだけどさ」

   照れたように、と云うよりは困ったように頭を掻く、ニナ。

  「でもまあ、やってみるとやっぱり大変だよ」
  「それでも、やっぱりやりたいよ。冒険家」

   子供の頃から自分も望んでいた未来を手に入れたニナに、エリは正直憧れを持っている。
   今の生活が別段不満に満ちたものではない。

  「毎日毎日花を仕入れて、水をあげて、手入れして」

   その事に不満はない。花は嫌いでもないし、奉公先の花屋の主人はとても気のいい人だ。

  「でも、何かが足りないと思うのよ」
  「高望みじゃないのかなぁ?」
  「そうかな?」
  「それでも、その足りない何かが冒険だ、っていう風には繋がらないんじゃない?」
  「それは、お姉ちゃんは冒険家だから良いけど……。
   私はもう、冒険家にはなれないから」
  「うーん……」

   それを云われると、ニナは次の言葉をどう続けて良いのか分からなかった。
   エリの事情は分かっているし、それが故にエリは自分の夢を諦めなければならなかった
  ことも知っている。

  「でもさ、だったらなおさら諦めないと」
  「分かってて諦められるなら、もう諦めてるよ」

   そういって微かに笑んだエリの表情は、ニナには直視するのも辛いものだった。

   その時、階下の店の方で物音がした。軽やかに鳴り響くベルの音。

  「あ、ごめん、ちょっと行ってくるね」

   エリも自分の言葉がニナをどう思わせているのか分かっているのだろう、ほとんど逃げ
  るように席を立つ。
   ニナも止めはせず、小さく頷いた。
   エリの階段を下りる足音が徐々に小さくなるにつれ、ニナの心には深く重たいものがの
  しかかってくる。

  「なにか、エリが今の現状で満足できるようになれば、夢を諦められるかもしれない。変
  な幻想を追わなくて良いのかもしれない」

   長袖をまくる。
   深く刻まれた線状の傷は、未だ赤く疼いている。おそらく、一生治ることもないのだろ
  う。
   彼女にも覚悟はあったはずだが、それを見るにつけ、自分の選択が誤りだったのではな
  いかと思わされる。

  「エリには、普通に生きて欲しい。普通に花屋をやって、普通に恋をして……」


  ***


  「はい、いらっしゃいませ」

   エリが下に降りると、そこには当然だが人がいた。
   若者、という形容が一番正しいだろうか、少し長目の金髪を後で縛っていたりする。
   青い瞳が、穏やかそうな彼の心を表しているようだった。

  「あ、どうも」

   若者は少し自信なさそうに答える。

  「どの花をお探しですか?」
  「あ、いや、実は花の名前とかってあまり知らなくて……」

   自信のない理由はそれだった。
   つまり、こういう場所に来慣れてないのだ。そういえばこの大きくない町で、彼の姿を
  見たことはあまりない。

  「うーん、じゃあ質問を変えます」

   ご主人仕込みの営業トークを披露する絶好のチャンスだ。

  「どちら様にプレゼントされるんですか?」
  「えっ?」

   驚く若者。青い目が大きく開いて、エリをのぞき込む。

  「どうしてプレゼントだって?」
  「お客様お花に詳しくないようですし、だったら自分で部屋に飾るために買う、ってこと
  はないと思うんですよ。だとしたら、プレゼントしかないじゃないですか」
  「絵を描くために買う、っていう人も居るんじゃないの?」
  「そういう方は、自分で気に入った花を持って行かれますので」

   ここまでは、ご主人のトークの見よう見まね、というか、まるまるそのままだ。

  「でも、残念だけどプレゼントじゃないんだよ」
  「え?」
  「うん、お父さんとお母さんにね」
  「あ、えっと……」

   若者は笑みを浮かべる。笑ってはいるがそこからは喜びは感じられない。
   そして、それは自分がよく浮かべるものと同じだということを、エリは知る。

  「あの、じゃあえっと、この花はどうですか?」

   隅の方に活けてあった花を持ってくる。
   若者の瞳と同じ、青い色の花。大輪ではないけれど、小さくて控えめだけど、見ていて
  安心するものが其処にある。自分をしっかりと見守ってくれているような。

  「ロクスルの花です。去りゆくものを見守ってくれる、という花です。
   私の大好きな花でもあるのです」

   若者は手渡されるロクスルを手に取る。
   きっと喜んでくれるだろうという確信が、若者にはあった。

  「これもらうよ」
  「ありがとう御座います」

   いつもより深く、エリは頭を下げた。

  「それでもう一つお願いがあるんだけど?」
  「はい。なんでしょうか」
  「カードを書いて欲しいんだ。花と一緒にあげるから」
  「分かりました」

   カウンターの方に小走りに走り、一枚の白いカードを出す。装飾も何もない、ただの真っ
  白な紙。

  「どのようにお書きしましょうか」
  「こう書いて欲しいんだ。
   お父さん、お母さんへ」

   云われたとおり、その名を記す。

  「……」

   若者はそこで言葉を止める。
   続きの言葉が出てこないのだ。

  「うーん……」
  「お客さん?」
  「あ、ちょっと待って」
  「あの、こういう時って、変に文章なんか書かない方が良いと思うんです」
  「そう……かな?」
  「はい。私もよく迷うんで」

   エリはにこりと笑う。そこにはうれしさが、少しだけだがあった。

  「そういう場合は、自分の名前だけ書いて終わりにします。それでも、気持ちは多分伝わ
  るだろうし」
  「うーん、そっか。」

   頭をぽりぽりと掻く。長い金髪が少しだけ乱れる。

  「じゃあ、名前だけこう書いておいてください。
   フレーズより、と」





           <蒼い花と、いい天気>         小林悠輝


   その日は朝からいい天気だった。
   遠い蒼穹に刷毛で擦ったような薄い白雲が流れ、心地よい風が穏やかに町を通り抜けて  
  いく。何もなければ、公園で本でも読んで過ごそうか――そんな気分になるような陽気。
  昼過ぎの陽光に照らされた石畳が白く眩しく、彼は目を細めて通りの景色を見遣った。

   のんびりするとしたら、自分の家でもいいかも知れない。
   テラスか、あるいは日当たりのいい部屋。なみなみとココアを満たしたカップをテーブ
  ルの上に置いて。
   そんな風にして過ごし、いつの間にか暗くなっていたことに気がつくのだ。


  「――おい!」

   ぼんやりと考えていたときだった。そう呼び止められたのは。
   警告の声かも知れないほど鋭いその呼び声が自分に向けられていると気がつき、彼は振  
  り返った。
   声の主を探そうという意思は途中で寸断される。声が聞こえた方向を向ききる前に見え
  たのは、石畳を、がらがらと迫ってくる馬車だった。

  「避けろ、あんた!!」

   半ば反射で、彼は道の脇へと身を投げ出した。
   がらがら、がらがら。そして耳障りな音を立て、ひづめと車輪がすぐ真横を滑っていく。
  御者が止まろうとしたのか、それとも、街中を走るには無謀すぎる速さだったせいか。

   擦り剥いた腕が痛む。数瞬遅れて上がった甲高い悲鳴よりもそちらに意識を向けながら、
  彼は立ち上がり、そして、

   見たのは、転倒した馬車と、その下から、広がっていく、赤い赤い、液体。
   その量に即座に血液だと判別できず、彼がそのことを認識したのは、誰かが「血が!」
  と叫んだお陰だった。

   若い女が倒れている。
   御者が真っ青な顔で馬車から飛び降り、彼女を抱え上げた。

  「大丈夫か?!」

   返事はない。ぐったりと垂れ下がり、動かない白い腕。
   御者の顔は青ささえ失って、白く見えた。ここからでも、滝のように汗をかいているの
  が見える。
   爽やかな風が、女と、御者と、彼と、そして見物人――最早、通りすがりじゃない。見
  物人だ――たちの間を駆けていく。

  「殺した?」
  「あの女の人……」
  「なんてこと」
  「死んじゃったの?」

   ざわめきが広がっていく。
   御者は俯いて女の体を抱えていたが、重圧に耐えかねたかのように、やがて顔を上げる
  と、彼の方を見て、震える声で、だがはっきりと言った。

  「あいつが飛び出して来たから――」

   ざわめきが、





   この事件で彼が受けた変化は、彼の家が、元々住んでいたよりも少し小さな町に移った
  ということだけである。早くに死んだ両親の墓参りをするのが面倒になった、そんなこと
  しか、彼は不便を感じない。

   だってあの町じゃなくても別に、生きていけないわけじゃないんだから。
   フレーズが引っ越してからまだ一年が経っていないが、事実、もう、前とあまり変わら
  ない生活を送っている。

   結局、そんなものなのだ。



  ◇◆◇◆◇



  「はい、どうぞ」

   その少女は、にこりと笑って、蒼い花と、白いカードを手渡してきた。長い黒髪が目に
  鮮やかに揺れて、その笑みを彩る。初対面という印象がないのは、この狭い町の中で、何
  度か、すれ違うくらいのことはしたからなのだろう。ここでは、まったく面識のない住人
  同士の方が少ないかも知れない。

  「ありがとう」

   小さな蒼い花。本当は花の種類なんてどうでもよかったけど、“去りゆく者を見守る”
  とは、まったくお誂え向きの花もあったものだ。両親は喜んでくれるだろうか――いや、
  何をしたって、二人は喜ばないし、悲しまない。そして想いも届かない。
   沈黙のうちにただ記憶の中に埋れていくからこそ、彼らは、死人なのだ。

   受け取って、それから初めて気がついたようにフレーズは顔を少ししかめた。

  「悪いんだけど……」

  「え、何かありましたか?」

   少女の表情が曇ったのは、自分が何か、こちらの気分を損ねるようなことをしたと思っ
  たからだろう。すぐ顔をしかめる癖は直さなければならないな、と思いながら、フレーズ
  は苦笑して、首を横に振った。

  「こういう荷物を他の町に送るのは、どこで請け負ってもらえるのかな」

  「それでしたら、そこの通りを真直ぐ行って……」

   教えられた道は簡単だった。小さな町だから?
   外を見れば今日はいい天気。のんびりと、石畳の道を歩こう。

  「ありがとう」

   代金を払って店を出た。「ありがとうございましたー」という快活な声に見送られ、な
  んとなく振り返って、店の前に佇む少女の姿が目に入る。
   ……花屋というのもいいかも知れない。こういう日に、時間を潰す場所として。



  ◇◆◇◆◇



  「ええ、そう。
   送り先はドージャという男」

   あの町に戻るのは面倒だから、だから代わりに花を手向けてもらおう。あの人なら、一
  緒に手紙を送らなくたってきっとわかってくれるだろう。この花が誰へ向けたものなのか
  と、そして自分の名前はカードに書いてある。
   これでわからないはずがない。

  「花だから……なるべく早く届けてもらえると嬉しいですね」

   あの御者の男のもとへ。
   呪いの言葉も添えず。

   今日は本当にいい天気だ。
   これが終わったら、本屋に寄って家に帰ろう。





             <雨と蜜蜂>           蒼井りせつ 


  嗚呼、それを運命というのなら、果たして神の残酷なことか。
  嗚呼、それを偶然というのであれば、果たして人のひ弱なることか。



  少女は少年の背を見つめる。彼の長い金の髪と、彼女の長い黒の髪が同じ風に吹かれてそ  
  よぐ。
  天気はよかった。青く広がる空はどこまでも続き、永遠というその下の人間を全て一様に
  見つめている。太陽は明るく、どこまでも、どこまでも、この世の果てまでもを照らし出
  していた。
  そよぐ風にだけは少し湿り気がある。
  涙の味がした。
  少女は、口許に浮かべた小さな笑みが、少しずつ少しずつ、彼の髪の揺れが分からなくな
  るのと同じくらいのスピードで消えていく。その姿が人混みの中に溶けてしまったときに、
  笑みは消えて、涙味の風に漂った。

  彼も、同じなんだ。

  誰が教えてくれたわけでもない。
  彼が教えてくれたわけでもない。
  ただ、彼女がそう思っただけ。
  彼女の感じる心が、彼女にそれを教えただけ。
  およそ根拠もなければ確信もない。言い切れる自信もない。勇気もない。
  それでも彼女は、自分の考えを疑わなかった。だからロクスルの花をすすめた。彼女は、
  彼、フレーズも自分と同じ、涙味のそよ風を感じていると思っていた。

  フレーズ。

  その言葉が心の中で繰り返される。

  フレーズ。

  その言葉は、はじめは小さく。徐々に大きく。
  彼の名前という以上のものを持って、彼女の中に広がり始める。
  その言葉にどんな意味があるのか。
  彼女は知らない。
  知り得ない。

  蜜蜂が居た。
  黄色く咲き誇る大輪の中に、身体を黄色の花粉に埋めて、半ば立ちつくす彼女を見つめる。
  その数多の瞳には何が映ったのだろうか。



  「へぇ、今の人誰?」
  階下に降りてきたニナがエリに声を掛ける。
  「うわっ、ニナお姉ちゃん」
  少々びっくりする。ニナが降りてくるとは思わなかったから?
  「お客さんだったの?」
  「うん。お花買いに来た」
  「そりゃそうよ。ここは花屋なんだもの」
  「そうだけどさ……」
  次の言葉を紡ごうとしているのが、ニナには分かった。
  「……気になるの?」
  「少し」
  「恋とか?」
  「じゃない……と思う」
  最後の言葉は少しだけ元気がなかった。
  「でも……なんだか他人じゃないみたい。知ってる人、っていうか……」
  「同じものを持ってる?」
  「……わかんない」
  言葉を切ると、エリは俯く。
  その脳裏に、ふっと、すれ違う人の影が覆い被さるように、少年の顔が浮かんだ。
  悲しみに彩られたその笑顔。
  くすりと笑う小さな笑いと、瞳が映す少しの悲しみ。
  「まあ、何にせよ他人に興味を持つのはいい事よ。エリは他人に興味持たない子だから」
  ニナが、まるで本当の姉のようにいう。
  「私はそんなことないんだけどな」
  「そうでもないわよ。他人に対してあまり心を開かないでしょ?」
  「そんなこと……」
  言いかけてその口を戻した。
  ないことはない。
  「……」
  「ほらね」
  その沈黙を雄弁に受け止め、何故か満足そうに頷く。
  「もしエリが、彼に自分と同じものを感じているのなら、そこから心を通い合わすのも良
  いんじゃないかしら?」
  「ニナお姉ちゃんが居るから良いよ」
  「でも、私じゃエリの気持ちの全部は分からないわ。
   エリが、どうしてそんなに『ほしがって』いるのかも」
  「だからそれは……」
  また言いかけて、また止めた。
  その答えは、ニナも知っているからだ。

  私は何も持ってないから、欲しがっているんだよ……。

  「まあ、何だったら冒険者の私に依頼してみなさい。彼の住処と名前ぐらいは調査してあ
  げよう」
  どんと、自分の拳で自分の胸を叩く。
  頼もしいようで、少し格好つけすぎなニナに、エリはくすっと笑った。
  「うん。ありがとう」
  エリも笑みを返す。

  彼も、やっぱり何かを欲しがってるんだろうか?

  「……あれ?」
  ふと、ニナが空を見上げる。
  「どうしたのお姉ちゃん? ……って」
  エリもそれを感じ、空を見上げる。
  雨。
  太陽がさんさんと照るのに、彼女たちには雨が降ってきていた。はじめは勿論すぐに勘違
  いだと思ったが、やがて、そうでない事が分かる。
  雨は、少しずつ少しずつ勢いをます。
  肌に感じるだけだったものが、地面を濡らし、屋根を打ち、草木を揺らす。
  「マースゥの涙……」
  エリがぽつり呟く。
  この地方で太陽の化身である聖母マースゥの、その涙を指すのだ。
  やがて、晴れたまま、マースゥの涙は徐々に強くなる。
  「うわぁ、お姉ちゃんちょっと手伝って! お花を中に入れないと」
  「あ、うん」
  平和な午後は、突然の涙で幕を引く。

  マースゥの涙はこう呼ばれる。それは悲しみの涙でもうれしさの涙でもある。それ故に、
  凶兆でも吉兆でもある。

  マースゥは喜んでいたのか、悲しんでいたのか。




  蜜蜂は、とうの昔に消えていた。
  涙味の風に乗って。





            <女神の涙と、言いがかり>      小林悠輝


   石畳に黒い点が穿たれ、柔らかな陽光の下、やがて本格的な雨が降り出した。
   透明な雨粒が輝きながら視界を縦に細かく切り分け、激しい雨音が知覚の世界をぐっと  
  狭める。

   鼻先を掠める雨の匂い。フレーズは顔を上げて少し表情を曇らせ――かけてやめると、
  晴れ渡る蒼穹に向けて小さく呟いた。

  「買ったばかりの本が濡れてしまいますよ、女神さま……」

   敢えて少々批難がましく。特に意味があるわけではないが。
   フレーズは数冊の本が入った紙袋を濡れないように抱えると、それを持つ手に若干、力
  を篭めた。

   大粒の涙は、やまない。やみそうにない。
   女神は何を悲しんでいるのか、それとも喜んでいるのか――遥か頭上で太陽は変わらず
  輝き続け、空は美しく蒼いまま。穏やかに一日は過ぎていく。

   今日はいい天気だ。



  ◇◆◇◆◇



  「お前も涙にやられたのか」

   そう苦笑気味の声に振り向けば、そこにいたのは茶髪の少年だった。

   フレーズと同い年の、知り合いとか友達とか――悪友、か?――いう連中の一人だが、
  平均よりもやや低い背丈となんとなく雰囲気のお陰で、二、三年年下に見える。

  「奇遇だね、ロッド。
   せっかく買った本を濡らすところだった」

   困惑気味の笑顔でフレーズはそう応える。その途端にロッドの顔がしかめられた。
   目の前を、銀色の雨が降っている。雨宿りに借りた軒先、屋根の端から水滴が滴り落ち
  る。
   フレーズが友達の言葉を直感的に先読みして胸中で返答を練り始めるのと同時に、ロッ
  ドは多少の批難を含んだ眼差しを向けてきた。

  「いいよなー、お前は気楽で」

  「……はははは」

   乾笑。予想通りの言葉だ。
   挨拶代わりにいつも言われる。

  「仕事探したり、しなくていいんだもんな」

  「うちは過保護だから、仕事やらせてくれないんだ」

  「羨ましいよまったく。
   これだから金持ちってのは……」

   この町に来たときから、そういうことになっている。わりと有力な商人の息子。
   そんな恐ろしく上手くいったのは、たぶんその商人に、“ずっと昔から子供がいた”こ
  とにしておきたい理由があったからだろう。そして、たまたま前の町で嫌われ者だった自
  分に目星がついた、というわけだ。

   冗談めかした口調に、わずかな嫉妬の色が含まれているように感じた。
   それが表情に出てしまったのか、ロッドはすぐに「女神さまは、なんで泣いてるんだろ
  うな」と話を逸らす。

  「さあ?」

  「お前、なんか美人を泣かせるようなことしたんじゃないか?」

  「泣かせられる美人がいないよ」

  「じゃあ、女神さまが驚いて泣き出すほどのことをした!」

   ロッドの目は、ただ軽い言いがかりをつけて楽しむ表情に変わっていた。掛け合いをこ
  ちらも楽しもうとフレーズは言葉を探し、

  「そーだなぁ、花屋に行ったくらいかな」

  「それは本当に珍しい。
   本当に、泣かせる美人がいないのか?」

  「いるワケないって。結局、何も買わずに出てきたし」

   言いながら、目を空へとやる。雨は早くも弱まり出していた。
   マースゥの涙と呼ばれるこの天候は、長くは続かない。号泣のあとで静かにしゃくり上
  げるように、しとしとと降る雨に変わっていた。

   もうすぐやみそうだ。それまでもう少し、この場所を借りていよう。
   濡れた石畳に水が溜まり、無音で、或いは微かな音を立てて幾つもの波紋が広まる。

  「花屋だぁ?」

   ロッドが訝しむようなわざとらしい声で問い返してきた。フレーズは頷く。

  「そーか、お前もか!」

  「……なにが?」

  「あそこの店員!」

   彼はいきなり叫び声を上げた。
   びっ、とフレーズに指を突きつけ、

  「黒髪の女の子、お前も狙ってるのか!?」

  「…え?」

   話が読めない。店員は確かに黒髪の女の子で、少し可愛いなと全く思わなかったわけで
  はないのだが、どうして、狙ってる、なんて話になるのだろう? というか、ロッドは彼
  女を知っているのか。いや別に知っていたらおかしいというわけではないのだけれど。

   やがて雨粒による煌きのヴェールが世界から取り払われるまで、フレーズは、まったく
  覚えのない糾弾をされ続けることになった。