千鳥
職業柄、死に逝く人間を山ほど見てきたが、幽霊とか、怨霊とか、そういった類のもの
には一度として出遭った事がなかった。死際に幾度と呪いの言葉を浴びせられたが、特に
実感した覚えも無い。
死者になど用は無い。生きている者だけが全てなのだと思うようになったのは、いつの
頃だろうか。心の臓が止まってしまえば、砕け散ったガラス球のように魂も粉々になって
しまうのではないだろうか。それは二度と戻ることなく、心とか思いとか言うものは全て
停止して、残ったものは唯の肉塊でしかない。幽霊なんて者も存在はしない。
―――とか言いながら、もし自分が死んだら純白の翼を背負った綺麗な姉ちゃん達に連
れられて極楽浄土で楽しみたい何て思うのは虫が良すぎる話だろう。
そう言えば、昔よく言われたもんだ。
――――「地獄に落ちやがれ」ってな。
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その町は、小さな商店が寄り集まってやっと最低限の生活物資を揃えられる程の、辺鄙
な田舎町であった。ただ、町の中央に据えられた集会広場には大きな噴水が水しぶきを上
げ、ある高名な芸術家が作ったらしい(あくまで町の人々の噂でしかない)女の像が、控
えめな様子で噴水の傍らに鎮座していた。それだけが彼等の自慢であったのだから、その
像に人々が寄せる感情は並みのものではなかった。
その美しい女の顔が老朽化にともない哀れな姿に変貌した時も、人々は悲しみに暮れ、
取り壊し計画に反対する者はいなかった。「こんな姿をさらしつづけるのは可哀想だ」と
彼等は言うのである。
とり壊しの一週間前、何処からか雇われやってきた年老いた巫女が、像の魂を静めるた
めに神木の枝を振って祈りを捧げていた。
「ぬぅああああああ。のぅえええええええ。きえぇええええ―――!!!!!」
奇声を発する老婆を囲む群衆。その様子はたまたまその町の宿屋に宿泊していたユーク
リッドがワザワザ足を運ぼうと思うくらいには愉快な光景であった。
「何してるんだ?これは」
「これは銅像の魂を静める儀式なんですよ」
ユークリッドの問いに答え、軽く後ろを振り返った少女は、一瞬彼を見上げて頬を染め
た。町の田舎娘にはユークリッドの容姿は刺激的であったようだ。中性的な容姿に真っ直
ぐ伸びたブロンド。切れ長の鈍色の瞳は冷やかな造りだったが、それを補うだけの愛嬌が
彼の表情にはあった。少女は慌てて服の乱れを直し、何度もそのはねた髪を撫で付けた。
最も、そんな少女の変わりようにもユークリッドは意に介さぬようで軽く礼を言うと、像
を見るために人込みへと紛れた。
銅像は若い女を象っていた。顔は大分崩れ落ちていたが、風にそよぐ服の皺まで再現さ
れたどこか品のあるものだった。確かにこの田舎町には似つかわしくない。
(像の魂ねぇ・・・)
ユークリッドは半ば呆れがち表情で周りを見たが、人々が女の像を見る表情は作り物に
対するもの以上の感情が宿っており、彼もそれを嘲笑うほど無粋ではなかった。一心不乱
に声を上げる老婆の様子に見飽きると、ふとユークリッドはその斜め上空に目を向けた。
シクシクシク。
そこで、女が泣いていた。
空中で、女がすすり泣いていた。
病的な青白い肌に同色のワンピースを纏い、長い髪を後ろで三つ編みにした、彼より年
上の女だった。儚げな、さもすれば風に飛ばされそうなほっそりとした面。伏せられた目
は長い睫で覆われ、その目から零れる涙は形のいい顎を伝ってポロポロと落ちていく。身
体も、雰囲気もまだ未成熟な印象を受けるその女の顔をユークリッドは細部まで見て取る
ことが出来た。
なのに。
それなのに、同時に女の後ろに広がる青い空と流れる雲も、彼女を通して見ることが出
来たのだ。その顔は今まさに取り壊されようとしている、銅像のに似ているようにも、見
えた。
「もしかして、アレか?銅像の幽霊とか、そんなん?」
それは呟きだった。しかし、その小さな言の葉はヒラヒラと風に乗り、円らな瞳を濡ら
す女の元に届いた。顔を上げ彼女がこちらに顔を向ける。
その瞬間、噴水の勢いが増し、老婆の濁声をかき消した。水のせせらぎが心地よいリズ
ムとなって二人の間に流れる。本来ならば、ここで二人の男女の鼓動が一体となり加速す
るのであろうが、残念ながら女の心の臓は既にここには無く、男も初めて遭遇した未知の
存在に鈍色の目を軽く細めただけだった。
『私が見えるのですか?』
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後、ユークリッドは少しだけ考えを改めることになる。
砕け散ったガラス球の破片は、依然としてそこにありつづける事に変わりは無いのだと。
やがて破片が粉々になり、塵と同化するまでは長い年月がかかり、時として生きている人
間に鋭い傷や、甘く切ない痛みを残すのだと――――。