<購買前>  <図書室>  <音楽室>  <玄関前>  <初等部>  <化学準備室> 
<鏡の内>  <女子トイレ>  <職員室>  <本>  <鏡の世界>  <教室>  <呪われた廊下> 



                <購買前>              千鳥


  授業中の廊下って、どうしてこんなに静かなのかしら。
  多くの生徒を収容するこの校舎であっても、それは変わらなかった。
  閉め切った教室と、真っ直ぐに続く廊下はまるで別の次元のよう。
  時折鳴るチョークの音も教師の話し声も、ひどく遠い。
  私は、未だ血の止まらない腕を、赤いチェックのハンカチで押えて階段を下りた。

  「アンリ?」

   突然名を呼ばれ、私は吃驚して飛び上がる。何も悪い事などしていないのに、居心地の  
  悪さが抜けない。振り返ると、そこには一人の男子生徒が立っている。隣のクラスの男の
  子だ。同じ図書委員で、親しくはないけれど、お互い名前くらいは知っている。

  「実験で、怪我をしちゃったの。保健室に行こうと思って・・・。貴方は?」
  「馬鹿な教生が、教材ごと階段から転げ落ちてな。自習だ」
  「ふふ、あんまり先生を苛めちゃだめよ」
  「アイツが勝手に嘆いてるのさ。保健室に行ったら会えるんじゃないか?」

   皮肉な笑みを浮かべた顔は、1年にしては随分と幼い。それもそのはず、彼は2年飛び
  級をして、中等部から上がってきたのだ。

   彼と別れると、そこは再び静かな廊下に逆戻りした。
   曇りガラスの向こうでは、彼のクラスの人たちが自習をしているところだった。皆、気
  ままな時を過ごし、談笑しているのだろう。若者特有の熱気が、ここまで届きそうだ。

   でも、遠い。近くて、遠い。

   そんな中で、一つの教室の扉が開いていた。滅多に使わないその準備室は、人気がなく、
  暗い。その中から、名を呼ばれた気がして私は足を止めた。
  「誰?」 
   先ほどまで、遠く感じた世界が、再び現実を取り戻した。足を、踏み入れる。

  「・・・誰?・・・」

   -----

   購買のパン屋の前で、一人の女教師が恍惚とした表情で何やら呟いている。

  「やっぱり、教師っていいわよね〜」

   白衣の下には白いパンツと黒のタートルネック。化粧も薄く、マニキュアすら付けてい
  ないその姿は、世の人々が『女教師』という甘美な響きから連想するものと随分異なって
  いる。
   ローズグレイの瞳、白い肌、白衣にかかる銀髪は消え入りそうな淡い色彩だが、その整っ
  た中性的な造作に、白衣から零れるほどの豊かな胸が、生徒たちに彼女の存在を強烈に
  印象付けた。 
  ―――2年化学担当、エンジュ教師である。

   視界の端に、学ランの黒いズボンが映り、エンジュは身を固くした。
   予想したのは、彼女に劣らぬ大食漢と有名のある男子生徒。そして購買部の混雑時には
  彼女の好敵手となる。口数の少ない無愛想な性格だが、「無口なところがヌイグルミみた
  いで可愛いv」と一部の女生徒に人気で、“彼に餌付けし隊”などが結成されているらし
  い。餌付け中に鈴を鳴らしたり、着信音を鳴らしたりと、色々頑張っているそうだ。

   しかし、実際にいたのは別の生徒。彼女と同じ銀髪に、珍しいオッドアイの少年だった。
  エンジュの授業には出ていないが、名前は知っている。
  (たしか、ニーツ君・・・ね)
   自分によく似た生徒がいる。と誰かが教えてくれたのだ。一体何処が似ているのだろう?
  (私はあんなに可愛らしくないわ、背だって小さいし。・・・でも)
   見られている事に気付いているくせに、こちらを向こうともしない。馴れているのか興
  味がないのか・・・。
  (気が強そうね)

  「ちょっと、少年」
  「俺に何か用なの・・・ですか」

   相手が教師だと気付いたのだろう、無理やり口調を変える。それが面白くてクスリと笑
  うと、相手の顔が不機嫌なものに変わった。

  「苺クリームメロンパンと、牛コロッケ焼きそバーガーどっちが好き?」
  「・・・・はぁ?」

   両方とも生徒に大人気の商品である。実物を見たことの無いニーツは戸惑いながらも律
  儀に答えを返した。

  「苺クリームメロンパン・・・」

  (意外に堅実派ね)
   何となく分析してみる。

  「でも、全部私が買ったから、売り切れなのよね。君に一つあげるわ」

   そう言って有無を言わさず、苺クリームメロンパンを少年に押し付ける。

  「欲しいなんて言ってないぞ?」
  「そうね」

   授業終了10分前。

   途端に辺りが騒がしくなり始めた。

  ―――バタンッ!!

   何処かで、不自然に、ドアの閉まる音がする。耳の良い二人は思わず顔を見合わせる。
  しかし、それも束の間。思い起こせばそれは、普段から耳にする音ではないか。日常のヒ
  トコマ。それでも、胸に何かモヤモヤとした不快感を抱きながら、二人は、互いに背を向
  けた。

   終了5分前。

  「あぁぁぁ!!俺の牛コロッケ焼きソバーガーがぁぁ!!」

   挨拶も終わらぬうちに、その俊足を生かして一番乗りした生徒が購買の前でそんな悲痛
  な叫びをあげる。しかし、その声も、砂糖に群がる蟻のように生徒が押しかけてきたため、
  直ぐに消された。そこは戦場と化した。

   授業終了。

   ----

   結局、アンリは保健室には寄らなかった。
   そして、再び教室に戻る事も無かった。 

   日常的な音が一つ。――――ポロン。





              <図書室>               架月


  日常的なもの。
  たとえ初めは怖がられても、度重なればいつしか感覚は鈍り、麻痺し、忘れ去られるもの。  


  −ポロン…ポロン……−


  『テラロマ学園』の音楽室からは、弾き手のいないピアノの音が、時折聞こえてくると言
  う−

  それは、日常と化した、そう、どの学校にもある、七不思議のようなものに過ぎなかった。

   -----

  図書室には、口煩く頑固な司書がいる。
  図書委員の仕事とは、基本的な本の貸し借りの管理、蔵書の整理、そしてそれに加えて、
  この司書の宥め係、というのがこの学園での暗黙の了解だ。よって、余程の本好きでなけ
  れば、引き受けることはない。
  その余程の本好き…ニーツは、その厄介な司書が急病で休みということで、カウンターの
  内側で一人、悠々と本を読んでいた。
  放課後の図書館は、心地良い程に静まり返っている。ちらりと室内を見回すと、いわゆる
  優等生と呼ばれる種類の生徒達が数人、調べものをしたり、本を読むなりして、自らの世
  界に没頭していた。一般の生徒なら、この時間はもう帰宅、部活など、授業、ひいては勉
  強からの開放感を味わっている筈だ。
  ニーツは更に、自分の隣の席へ目を走らせた。普段なら其処に腰掛けている筈の姿が、今
  はない。
  普通、図書委員は二人で一組で仕事をする。仕事は当番制で回しており、今日のニーツの
  相方となるべき人物は…
  「あれ?此処にもいない…?」
  一人の女子生徒が、図書室に飛び込んでくるなり、落胆したように呟いた。
  「…どうした?」
  「あ。ニーツ君…」
  尋ねたニーツに、女子生徒は頬を紅くする。
  ニーツは、飛び級ということで、周りからの生徒からは、かなり注目を集めていた。
  しかも、その可愛らしさから、女生徒からも、何故か男子生徒からも人気があった。ニー
  ツ目当てで図書室まで足を運ぶ者も少なく無い。
  正直、ニーツにとっては迷惑な話なのだが。
  女子生徒は、慌ててニーツから視線を逸らし、その隣の空席を見た。
  「あ、あの…ニーツ君。あの、アンリって、まだ、来てないよね?」
  「ん?ああ。来ていないが?」
  ニーツも、彼女に倣って視線を戻す。そう、今日の当番の相方はニーツが自習の時間に出
  会ったあのアンリだった。
  「いないのか?」
  「うん…午後の授業から…来てないの…」
  「保健室は?」
  どうやら此処に駆け込んできた彼女は、アンリのクラスメートのようだ。アンリが教室に
  戻ってこなかったので心配しているのだろう。
  ニーツが出会ったとき、彼女は実験での怪我で保健室へ行くと言っていた。午後の授業に
  出ていないとなると、怪我が酷くて寝ているのかもしれない。
  だが、女子生徒は、力無く首を振った。
  「保健室には行ってないって…私、先生に確かめてきたの」
  「ふぅん…」
  この学校の保険医は信用して良いのか悪いのか良く解らない人物だが、まあ、そんな事で
  嘘を付くことは無いだろう。
  つまりアンリが姿を消したのは、ニーツと別れ、保健室へ行く途中だったと推測される。
  アンリは、普段は真面目な生徒である。授業や当番をさぼるなど、余程のことでない限り、
  あり得ない。
  しかしニーツは、そんな事もたまにはあるのだろう、と軽い気持で結論付けた。
  「まあ、どうせ夜になれば家に戻るだろう。今焦って探し回っても仕方ないんじゃないか?」
  「ううん…そうなのかなぁ?」
  既に興味を無くしたニーツに、尚も食い下がるように、女生徒は視線を送る。どうやら今
  の彼女の目的は、話す機会を得たニーツとの、少しでも長い対談にあるようだ。
  内心、ニーツはうんざりとする。なので、追い払うように手をひらひらさせた。
  「さ、お前も早く帰った方がいいんじゃないのか?もうすぐ日が暮れるぞ」
  『つれないところがまた可愛い』。年上のお姉様方のニーツに対する評価は、最終的には
  其処に行き着く。
  この女生徒もそう思ったのか否か。名残惜しそうにしながらも、顔を紅くして立ち去った。
  日常的といえば、日常的な一コマ。
  だが、非日常とは、其処から薄壁一枚隔てたところに存在する。

   -----

  −ポロン…ポロン…

   -----

  夕暮れに包まれた学校は、昼間とは全く別の顔を見せる。
  普段は活気にあふれた校舎も、今はそこかしこに闇を孕み密やかに息づいていた。
  司書が休みの日は、職員室へ図書室の鍵を預けに行く。人気のない廊下を歩いていたニー
  ツは、前方に見覚えのある人影を発見した。
  「…アンリ?」
  腕から紅い液体を滴らせた少女は、ただじぃっと、ニーツを見つめた。巻き付いているハ
  ンカチは、既に柄など見分けがつかない程、血の色に染まっている。
  一瞬後、アンリは身を翻して、廊下の角から姿を消した。
  「お、おい…」
  思わずそれを追いかけ、同じ角を回る。そんなニーツの視界を、何かが遮った。
  「うわ」
  「きゃあ」
  その影とニーツは思い切りぶつかり、双方弾き飛ばされる。よく見ればそれは、つい先刻
  出会ったばかりの人物だった。
  「あいたたた…少年、危ないじゃないの」
  「あ…。苺クリームメロンパンの変な先生」
  「変な、は余計でしょう?変なは」
  いきなりパンの好みを訊いて、更に欲しいとも言っていないのにそれを押しつけてくる人
  物を、変とは言わないのだろうか?
  ついつい真剣に考えだしたニーツを、その女教師は手を伸ばして立ち上がらせた。
  「それより少年、そんなに慌ててどうしたの?」
  「え、いや…こっちの方に、女生徒が来なか…来ませんでした?」
  「女生徒…?いや?」
  ニーツの問いに、女教師−エンジュは首を傾げる。どうやら、彼女は見なかったらしい。
  とすると…
  ニーツが口を開きかけた時。

  −バアン!!−

  突然、耳をつんざくような音が、二人の耳を貫いた。ニーツはエンジュの背後を凝視し、
  エンジュは思わず振り返る。
  狂ったような旋律が、奥から響く。

  この廊下の先には−…





              <音楽室>              千鳥


  日常的なもの。
  『テラロマ学園』の人間なら誰でも目にするもの。
  制服、校舎、そして 玄関前の学園長の銅像。

  幼等部から大学院まで、全ての校舎に置かれたこの学園の創立者の銅像たちは、夜な夜な  
  “学長会議”を行っているらしい。

  普段からあるモノを、人は改めて確認したりしない。
  振り返って確かめてみよ。
  そこに銅像は建っているのか?

   ---

   光沢のある実験室の黒いテーブルは、夕方の太陽の光を反射して赤く輝いていた。薬品
  棚の鍵の施錠を終えたエンジュは、鍵の束をポケットに突っ込むと、開かれたままの窓か
  ら顔を覗かせる。
   窓の下は玄関になっていて、その玄関の屋根の下から姿を現した女生徒が、エンジュに
  気が付いてペコリと頭を下げる。先ほどまで彼女に質問をしに来ていた生徒だ。長い黒髪
  が肩から零れ、再び顔を上げると軽やかに跳ねた。
  (あら、銅像が無い・・・)
   そんな女生徒のちょうど隣、そこに普段あるはずの銅像が無い。代わりに正方形の穴が
  ぽっかりと開いている。上から見ると異様な光景だが、彼女は全く気がつかない。―――
  普段注意深い彼女であっても。

   エンジュは銅像たちが集まって、会議を開く様子を想像してみた。
   全く同じ顔の銅像が5つ、円になって話し合っている。しかし、この高等部の銅像だけ
  は誰の目にも見分けがつく。何故なら、頭がないのだ。
   1年前の春であっただろうか。ある一人の男子生徒が、入ってくるなり学園長の銅像を
  爆破したのだ。エンジュがそれを覚えているのは彼が金髪碧眼の綺麗な顔をしていたから
  と、爆破の理由が愉快で気に入ったからだった。

   ―――落書きされた顔が見るに耐えられなかったから。

  もちろん大問題になったが、その少年が学園に多額の寄付をしているとある貴族のご子息
  だった為、『学園長の顔の落書を哀れに思った故の行動』というよく分からない解釈に落
  ち着き、彼は今も堂々と廊下を歩き爆破行為を繰返している。もっとも、破壊行動に勤し
  むのは生徒だけとは限らないが・・・。

   とにかく、そんなワケで、高等部の学園長の銅像には顔がなかった。

   ---

   太陽は逃げるように姿を隠し、刻は夜へと近づく。グラウンドからも、部活に精を出す
  生徒の声が次第に少なくなっていった。化学実験室を出たエンジュは、帰り支度をするた
  め職員室に向かった。
  「うわ」
  「きゃあ」
   廊下の角から何かが急に飛び出してきた。ぶつかって来た相手が生徒だと知ると、彼女
  は慌てて助け起こす。
  「危ないじゃないの、少年」
   それから言葉を幾つか交わすが、彼はどうにも気がかりな事がある様子。自分のさらに
  後方をちらちらと気にしている。
  (女生徒ねぇ・・・。彼女か何かかしら)
   この少年が意中の、恐らく年上の少女の後を追っている姿は、なかなか可愛らしいもの
  である。好奇心も手伝って、彼の言葉を待っていたエンジュは、突然響いたピアノの音に
  表情を硬くした。
  (まさか!?)
  「そっちにいるのか、アンリ!?」
   ニーツがエンジュの脇を通り過ぎ、音楽室へと走る。そう、その先にはグランドピアノ
  が置かれた音楽室があるのだ。エンジュも後を追う。
  「くそッ。開かない!」
  「居る筈無いわ。さっき鍵がかかってるのを確認したのよ」
   口悪く罵りながら、ニーツは閉じられた扉を開けようと苦戦していた。彼の慌てた様子
  からして、女生徒の身に何かただならぬ事が起きているようだ。
   閉ざされ無人のはずの教室。しかし、そこから聞こえるピアノの旋律が、二人に存在を
  主張し、解放される時を待っている。
  「どいてッ!」
   エンジュはその長く細い足で思い切りドアを蹴破る。教室内に蹴飛ばされたドア。それ
  に埋められたガラスが散らばり、キラキラと音を立てて床に広がった。
   ――――ピアノの音はやんでいた。
  「やっぱり、誰もいないわね」
   辺りを見回して、エンジュはそう結論づけた。先ほどの音も幻聴だったのかもしれない。
  夕方の校舎ほど、狂った旋律の似合う時間はない。しかし、ニーツはかぶりを振った。
  「・・・・いや」
   ピアノの蓋は開けられ、白と黒の鍵盤がなんの変哲も無く、規則的に並んでいる。そし
  て、その上に
  「血だ・・・・」

   その時、エンジュは隣の準備室から微かな物音を耳にした。足音を忍ばせ、素早く準備
  室とを繋ぐ扉を開け誰何する。
  「―――誰なの!?」
   暗い部屋に佇む黒い影。その人物の顔を認識するのにエンジュはかなり時間を要した。
  皆が知っていて、それでいて存在しないその顔。

  「学園長・・・・今日は会議じゃなかったんですか?」
   頭のない銅像が、まるで以前からそこにあったかのようにエンジュの方を向いていた。





              <玄関前>              架月


  首なし幽霊は、夜毎、無くした首を求めてさ迷う…

   ------

  「学園長・・・・今日は会議じゃなかったんですか?」
  エンジュの問いかけを聞いて、ニーツもようやく、今自分の見ているものの正体を知った。
  音楽準備室と言う、おおよそ不釣合いな場所に鎮座する銅像。
  無い筈の顔が、こちらをじっと見つめているような錯覚に、ニーツは陥った。
  そしてその横。ニーツが吸い寄せられるように視線を移した先には…
  「―――――っ!!」
  エンジュが、声にならない叫びをあげた。ニーツも思わず息を呑む。
  目に飛び込んで来たのは、床に広がる、いっそ鮮やかなまでの、紅。
  今も、まるで壊れてた水道のように紅色の水滴が、ポチャン、ポチャンっと音を立てなが  
  ら、床の水溜りに落ちていく。
  その水溜りの中心には、銅像の台座に寄り添って置かれた椅子と、そこに座った一人の女
  生徒。背筋をピンと伸ばし、見覚えのあるハンカチの端から血を滴らせた腕を前に差し出
  している。―まるで、今の今までピアノを弾いていたかのように。
  そして、その首から上は―…
  「寄るな!!」
  何かに見られている気がして、ニーツはその不気味なオブジェに駆け寄ろうとしたエンジュ
  を止めた。エンジュが振り返る。
  その瞳は、『でも…』と告げていたが、ニーツはゆっくりと首を振る。
  エンジュはどうして良いか分からずに、其処に立ち尽くした。ニーツも、表面上は冷静に
  していたが、内心、どうして良いのか途方に暮れる。
  いや、顔無しの人間を見せ付けられて、途方に暮れない者などいるのだろうか?
  −ドクン…ドクン…−
  耳のすぐ横に心臓があるかのように、鼓動の音が、うるさかった。
  「兎に角…救急車を…」
  呼ばなければ、そう言いかけた時。
  準備室に置いてある、楽器と言う楽器が、一斉に音を立てた。
  それぞれの音が全く噛み合っておらず、それは、単なる雑音として、教室中に響き渡る。
  「うわ」
  「きゃあ」
  特に耳の良い二人は、思わず耳を塞ぎ、目を閉じた。それでも、奏でられた不協和音は、
  指の間をすり抜け、二人の脳に突き刺さる。
  時折、その音の間に、少女のような、少年のような、子供の笑い声が混じる。
  遠く、近く、キャハハと無邪気な笑い声。
  永遠にも思える時間が過ぎ、耐えられない、とニーツが思ったとき、ピタリと音が止んだ。
  子供の声も、フィードアウトして、消えていく。
  ガンガンと痛む頭を押さえ目を開くと同時に、エンジュの声がまず、飛び込んできた。
  「ニーツ君…!」
  その声の理由は、すぐに解かった。ニーツも、目を見開いて、それを凝視する。
  先程まで女生徒がいた場所。其処には今、何もいなかった。
  彼女がいたと証明できるものは、其処に溜まった血溜まりのみ。
  「き、消えた…?」
  そんな馬鹿な、と思いながらも、実際に、今広がる光景を否定はしない。見たままに、
  ニーツはそれを分析する。
  首無しの女生徒−恐らくアンリ−は消えた。では、何処に?
  それに、先程の笑い声。一体、誰の?
  広がるのを止めた血溜まりの中に佇んだままの学園長像が、二人を嘲笑っているように、
  ニーツは感じた。

   -----

  −クスクスクス−

  夜中。
  学園に掛けられている鏡に、幼い子供の影が映って、消えた−・・・

   -----

  翌日、ニーツな何事も無かったように登校した。
  あの後、他の先生たちを呼びに行って、もう一度音楽準備室へ戻ったのだが、既に血溜ま
  りもピアノの上に残った血も消えており、学園長の像だけがポツンと残っていたのだ。
  「まあ、夢でも見たんだろう」
  愛用の煙草をふかしながら先生の一人が言い、結局は、単なる悪戯と言う事で片付けられ
  てしまった。
  だが…
  「ニ・イ・ツ・君♪」
  「うわぁぁ」
  突然背後から抱きつかれ、ニーツは不覚にも声を上げると共に、思考を中断させた。思わ
  ず殴り倒しそうになった所を、すんでの処で自制する。
  …相手の声が聞き覚えがあり、かつ自分より目上で本来なら敬うべき存在だという事を思
  い出さなければ、迷わず殴っていた処だろう。
  「おはよう〜♪」
  「…おはようございます、先生。ついでに言うと、すこし離れて頂けると嬉しいのですが」
  「あら、つまらないわね」
  名残惜しそうに離れるエンジュに、周りの生徒からの視線が突き刺さっている。
  女生徒達からは羨望と嫉妬。男子生徒からは、悪意と好意が半々。
  ニーツに対して嫉妬の眼差しを送っている男子生徒もいる。
  だが、そんなものを気にする二人ではない。一人、異様なオーラを発して、周りから引か
  れている女生徒もいたが、それすらもニーツの興味の対象にはなり得なかった。
  ニーツは半眼で振り返り、声の主をしっかりと確かめる。
  「先生、なにか用でしょうか?」
  「朝の挨拶よ」
  「挨拶にしては、行き過ぎのように思われますが?」
  「気にしちゃいけないわ、少年。今からそんな事を気にしてばかりいたら、すぐ老けちゃ
  うわよ」
  エンジュの言葉に、ニーツは眉を寄せた。
  「ほらほら、可愛い顔が台無し!」
  「別に可愛くなど…」
  「あら、私の審美眼を否定するの?ひとつ言っておくけど、可愛くなきゃパンなんてあげ
  ないわよ」
  「……」
  思わず沈黙するニーツ。エンジュは、そんなニーツに視線で合図を送った。ちらりと示さ
  れた方を見ると、玄関の脇に、いつも通り鎮座する顔無しの学園長像が目に入る。
  恐らく、昨日あの後、誰か力自慢の先生によって降ろされたのだろう。
  ニーツは、エンジュの用を悟った。
  「と言うわけで!」
  「うわぁ!」
  再び抱きついてくるエンジュ。突き刺さる視線がより一層強くなった。エンジュが、ニー
  ツの耳元で何かを囁き、離れる。
  「じゃあね」
  そのまま嬉しそうに去っていくエンジュを見守りながら、大変な先生と関わってしまった
  事を、今更ながら、強く後悔した。

   -----

  『話したい事があるので、放課後、化学準備室へ来て頂戴』
  つまらない歴史の授業を受けながら、ニーツは先程エンジュが囁いていった言葉を思い出
  していた。
  生徒達が大勢いる前で公言できるような内容の話ではないので、あのようにふざけた接触
  の方法を取ったのだろう。
  恐らくは。多分。…そう信じたい。
  「ですから……停戦協定はこうして破られて…」
  教壇を見ると、歴史の教生が、メモと睨めっこをしながら、必死で授業を進めていた。昨
  日負った怪我が痛々しい。
  なにもわざわざ、出てこなくても良い気もするが、真面目な彼の辞書に、休むと言う言葉
  は無いのだろう。
  彼の黒板の中に、間違いを見つけて、ニーツは声を上げた。
  「センセイ、そこ、年代が間違ってます」
  「え?あ。本当だ。すみません!!」
  クスクスクス…
  慌てて治す教生に、教室から忍び笑いが漏れる。
  「あんまり苛めちゃ駄目よ」
  隣の席の女生徒が、笑いながらも、ニーツを咎めた。
  「本当の事を教えてるだけさ」
  そっけなく答えながらも、ニーツは隣の生徒の言葉を、頭の中で反芻した。
  『ふふ、あんまり先生を苛めちゃだめよ』
  昨日も同じ台詞を聞いた。
  恐らく、今日以降は、二度と聞けないだろう声で。
  (アンリ…。一体、何があった?)
  それに対して答える声は、今、何処にも無い。

   -----

  放課後。
  ニーツは言われた通りに化学準備室へ来ていた。
  気が進まない。
  気は進まないが、仕方が無い。
  暫く其処に佇んでいたニーツだったが、意を決して扉を開けた。





              <初等部>             葉月瞬


   月が中天を割る刻限。

   『テラロマ学園』の女子トイレに掛けられている鏡を、覗き見てはいけない。

   何故なら、鏡の向こう側に引き込まれてしまうから――。

  ――クス。
  ――クスクス。
  ――クスクスクス。

  ―― ◇ ――

   わたしはそのひ、なぜだかきょだいなすいまにおそわれたの。とてもねむくて、がまん  
  がならなかったわ。
   だから、わたしはやすみじかんちゅうに、かおをあらいにいくことにしたのよ。ねむけ
  ざましにね。このがっこうにはとうぜん、せんめんしつなんてきのきいたものはないから、
  わたしはじょしといれにむかうことにしたの。
   やすみじかんにはいって、きょうしつというきょうしつからせいとたちがおどりでて、
  にわかにかっきづいたろうかを、じょしといれにむかってあるいていったわ。ときどきう
  わさばなしをこみみにはさんだりもしたけど、ぜんぶざれごとね。わたしにはかんけいな
  いし、きょうみもそそられないわ。
   ゆくえふめいちゅうのじょしせいとのうわさばなしをみみにするまでは。
   そのうわさばなしをひろめているのは、あまいろのうぇーぶがかった、しょうしょうか
  わいいぞうけいのしょうじょだったわ。ま、おおきいひとにはかわりないけどね。
   そのこが、こうとうぶにかよっているかっこいいおにいさんからきいたはなしによると、
  アンリというなまえのじょしせいとが、とつぜん、なんのまえぶれもなくきえてしまった
  らしいわ。で、よなよなはいかいしているんだって。むかしも、おなじようなことがあっ
  たらしいけれど……。
   そのうわさばなしは、わたしのことせんにふれるのにじゅうぶんだったわ。
   このがくえんで、なにかがおこっている。それは、まずまちがいなさそうね。そうかん
  がえただけでも、なんだかこころがおどってきたわ。おもしろくなりそうなよかんが、ひ
  しひしとつたわってきたの。
   わたしはそのとき、こころにきめたの。わたしがこのじけんをかいけつして、みんなの
  ふあんをとりのぞいてあげようと。そして、てんじょうにむかってこぶしをふりあげて、
  けついをかためたのよ。
   ……でも、いまはとりあえず、ねむけさましね。

   わたしは、6ねんせいのじょしといれのとびらをひらいたわ。
   つん、とにおってくるほうこうざいのにおいが、なんともいやみたらしくていけないわ
  ね。わたしは、まえまえから、このにおいがきらいできらいでがまんがならなかったわ。
  でも、がまんしてるんだけどね。
   ふしぎなことにここのといれだけ、せっかくのやすみじかんだというのに、だれもいな
  いかのようにしんとしずまりかえっているの。そう、ふだんならきこえてくるはずのじょ
  しせいとたちのわらいごえや、はなしごえなどはもちろんのこと、ものおとひとつきこえ
  てこないのよ。

  「ふしぎねー」

   わたしはそういって、おそるおそるはいっていったわ。

  ―― ◇ ――

  ――クスクス。
  ――クスクスクス。

  『――また、一人来たわ』

  ――クスクスクスクスクス。

  ―― ◇ ――

   かおをひととおりあらいおわってねむけがさめたところで、ついでにぜんしんよくもし
  ようとかおをあげたとたん、しろいかげがめのまえのかがみをよこぎったの。そのうごき
  はなめらかにすべるようで、まるでゆうれいさんのようだったわ。
   わたしは、なぜかそのしろいかげからめがはなせなくて、それのうごきをおっていった
  の。こわくてふるえているのに、それをとめようともしないで……。
   いりぐちから、ふたつてまえのかがみにさしかかったところだったわ。しろいかげが、
  ぎょろりとこちらをにらんだの。そして、わたしのしせんとぶつかってしまったのよ。こ
  わかったわ。こわくて、しばらくかなしばりにあったように、うごけなくなってしまった
  の。
   いつのまにかふるえがとまっていたのも、きがつかなかったぐらい。
   こわかったけど、でも、しろいかげとめがあったおかげで、それをいくぶんかかんさつ
  することができたわ。
   そいつは、すべてにおいてしろい――しょうじょだったわ。そのしょうじょをかたちづ
  くっているぱーつというぱーつすべてが、しろでとういつされていたの。
   しろいはだ。
   しろいろんぐへあー。
   しろいどれすに、しろい、しろいひとみ――。
   まるでいしきのへんりんをみせない、そのりょうのひとみが、じっとこちらをみつめて
  いるの。まるで、わたしにみいられたかのように……。ううん、ぎゃくね。わたしが、か
  のじょにみいられているのね。

  『――私と友達になりましょう』

   じっとみつめあっていると、しろいしょうじょはそういって、かすかにほほえんだの。
  くちのはしをゆがめただけのほほえみだったけれど。そして、おもむろにこしをくのじに
  まげると、わたしのほうにむかってちかづいてこようとするの。そこに、かがみというしょ
  うがいぶつがないかのように。かがみのなかから、でようとでもするかのごとく。
   ううん、あれはめのさっかくなんかではなかったわ。あとからかんがえてもあれは、ご
  くしぜんなどうさだった……。
   かのじょはそのとき、たしかにかがみのなかからでてきたの。
   かがみのなかからでてきて――。

  ―― ◇ ――

  『――私と友達になりましょう』

   白い少女は確実性を伴ってその言葉を紡ぐと、微かに微笑んだ。その笑みには、純粋さ
  が込められていた。純粋に友を求める想いが。
   そして、その想いを具現化しようとでもするかの様に、両の腕を自分に魅入っているま
  め族に向かって伸ばす。まるで、最初から目の前に鏡という名の障害物が無いかの如く。
  その腕は、確実に相手に近付いていく。
   最初は指。
   指が、水の様に波紋を広げる鏡を素通りしたかと思うと、次の瞬間には手首が覗いてい
  た。
   ゆっくりと、だが確実に腕は伸びてゆく。手首が完全に露になると、徐々に二の腕がそ
  の存在を出現していく。
   肘の辺りが完全に鏡の外に出ると、上腕、肩と順を追って鏡の外側に現れてくる。冗長
  的に、恐怖を乗長するかの様に。肩甲骨が露出する前に、白い仮面のような顔が出て来た。
  高い鼻、餅の様な頬、彫りの深い眼窩、薄紅をひいた唇、白い長髪……。
   上半身が表出し終わった時は、既にまめ子は彼女の掌中にあった。気を失い掛けている
  まめ子を腕に絡め取ると、再び鏡の中に戻って行く白い少女。微かな微笑を口元に浮かべ
  ながら――。

   彼女が鏡の中に完全に姿を隠したとき、鈴の音が一振り鳴り響いた。
   それは長く尾を引いて、誰も居なくなった女子トイレの中に余韻を残していった――。

  ―― ◇ ――

   科学準備室の前に佇む、ニーツ少年。
   彼は、意を決し扉を自らの力で開けて、中に入る。そこには、エンジュ先生が待ち構え
  ている筈だった。
   室内に入る為、一歩目を踏み出す。
   と、その時。
   眩いばかりの光が、科学準備室を覆った。
   ニーツはその光の出所を突き止めようと、目を凝らして見た。その光は、顕微鏡の反射
  鏡から発していた。そして、その光の中に浮かび上がったのは―― 一粒の大豆だった。
  いや、手足が付いているから大豆ではない。大豆ではなく、大豆に似て非なるもの。それ
  は、まめ族だった。
   まめ族が一人――正確には一粒――科学準備室の室内に転がり出た――。





              <化学準備室>             千鳥


  ――――『テラロマ学園』高等学部、西舎3階『化学準備室』。

   当然の如く、化学実験の準備の為に置かれた一室である。
   怪談は、とくに、無い。

   しかし、その階に棲まう教師たちというのが、かなりの曲者揃いであった。
   種族のルツボである『テラロマ学園』の生徒たちの細胞を、職権乱用とばかりに強制提  
  出させる『恐怖の収集家』やら、自分好みの生徒を迷惑なほど溺愛する『大食女教師』や
  ら・・・。曲者教師なら吐いて捨てるほどいるこの学園だが、<遭っただけで危険>な教
  師が密集するのが、この理科系特別教室の隣接する西舎3階である。
   放課後、好んでこの地帯に足を踏み入れる生徒は少ない。出遭ったら最後、拘束されて
  実験体にされるか、腹を空かせたハーフエルフに手持ちの食料を奪われるか、分かったも
  のではない。

   そう、放課後この西舎を訪れるのは教師当人か、物好きか,
   ・・・・・・幽霊くらいではないだろうか?

  ------------

  「オリヴァ先生、今日の放課後は私がこの階の見回り担当しますわ」
  「おや、珍しい」
   エンジュの申し出に、向かいの席に座っていた男性教師が顔を上げた。深い紫色の瞳で
  探るようにエンジュを見る。そんな彼にエンジュは軽く笑ってみせた。
  「個人授業がありますのよ」
  「なるほど、実に興味深い」
   伸び放題の黒髪に指を入れ掻きながら、オリヴァは心にも思っていない様子で言った。
  空いた手を使って三角フラスコの中の液体をビーカに移し替えて、飲む。
  「・・・・」
   そんなオリヴァ教師の様子をほっと溜息をつきながら見下ろすと、再び椅子に腰掛ける。
  「で、そのお相手は?」
   専門書に視線を落としたままオリヴァは再び尋ねた。表情とは裏腹に、意外にも興味を
  持ってしまったようだ。エンジュもその表情を見習って無関心な様子で答える。
  「普通の、生徒ですよ先生」
  「貴女のお相手が『普通』なんて、ご冗談を」
  「あら、わたくし冗談は得意じゃないんですのよ」
   近くにいた教師たちが青ざめながら遠のく。触らぬ神に何とやら、である。しかし、二
  人にとってはいつもの事なので、険悪なムードも直ぐに消滅した
  「あ、そう言えば、エンジュ先生、例の結果、もう少しで分かりそうですよ」
  「結果・・・?」
   首を傾げたエンジュだったが、途端に表情が強張る。
  「あれは・・・いいです。もう」
  「知りたかったんじゃ無いですか?」
  「結構です」
   普段の彼女とは異なった狼狽振りに、オリヴァはチラリとエンジュを盗み見た。
  「貴女の場合、エルフ体のみで合成される特殊ホルモンが・・・」
  「オリヴァ先生!」
   素早くオリヴァの言葉を制してエンジュは彼の傍らに移動した。
  「私、とっても重要なことに気がつきましたの」
  「ほぉ」
  「『美人薄命』って言葉ご存知?」
  「アハハハ」
  「ウフフフ」
  「イテッ」
   白衣を翻して、つねられた頬をさするオリヴァから背を向ける。最後に「化学準備室に
  は立ち入り禁止ですからねッ」と念を押してから、彼女は職員控え室を後にした。

  --------

  「ハーフエルフの寿命なんて知ってもねぇ」
   自分自身の命を測る事は出来ない。愚かな事を訊いてしまったと今更になってエンジュ
  は後悔していた。この世には予測不可能な出来事であっけなく死んでしまう運命だってあ
  る。
  (あの子はまだ生きているのかしら)
   昨日の事を思い出してエンジュは軽く身震いした。
  (可愛い子だったのに・・・)
   肩より上で揃えた亜麻色の髪、控えめな笑顔に赤いカチューシャが似合っていた。
   学級写真にあったアンリ=パネットの顔を、あの首なし少女の上に乗せてみる―――そ
  して、一人の完全な少女が出来上がる。

   3階の端にある、化学準備室の鍵を開けた。暫くすれば、哀れな子羊、もとい可愛い
  ニーツ少年が不満そうな顔でやってくるだろう。
  「あら?」
   窓際の棚の上に一台の顕微鏡が放置されている。誰かが片付け忘れたのだろうか?近づ
  いた彼女は、その小さな反射鏡の中に白髪の少女が映るのを目にした。思わず振り返った
  瞬間、狭い準備室に眩い光が広がった。光の出現時間は極短時間なもので、扉の前には目
  を見開いてこっちを見ているニーツが居た。彼の目を釘付けにする先を追ったエンジュは、
  同様に目を丸くした。
   そこに転がっているのは・・・・

  「――――マメ?」





              <鏡の内>               架月


  むかしむかし、一人のさみしがりやの少女がいました。
  少女は、だれも相手にしてくれる人がいなかったため、いつも鏡にむかって、お話をして  
  いました。
  「ねえ、鏡さん。いつまでもわたしの友達でいてくれる?」
  ある日、少女は鏡に向かってそう言いました。
  すると、鏡の中にいた少女は、こう答えました。
  「ええ、いいわよ。こちらへおいでないさい」
  それをきいた少女は、その鏡に向かって手をのばしました。
  少女のその後を知る人は、だれ一人としていませんでした…



   --------------------------

   鏡を夜中に覗いてはならない。

   其処は、この世界でない場所と繋がっているという−


   --------------------------  

  「――マメ?」
  エンジュの言葉を最後に、化学準備室には沈黙が落ちた。
  マメ、そう、それはまさにマメだった。
  確かに普通のマメとは違って手足があったり初等部の制服を着ていたりするが、間違って
  もそれは、顕微鏡の鏡から飛び出してくるような代物ではない。
  例え、大きさ的には可能であろうとも。
  奇妙な緊張感を破ったのは、その、転がり出てきたマメだった。
  「ふ…ふああ…」
  マメは、二人が注目する中で、声を上げて立ち上がる。
  「あら?あらあら?ここはいったいどこかしら?」
  キョロキョロと辺りを見回していたマメは、やがてエンジュに目を向けた。
  「まあ、おおきいひとね!わたしをこんなところにつれこんでどうするつもりなの?
  たべるつもり?そうはいかないわよ!ええい!」
  叫んで不思議なパワーを溜め始めたマメを、無言で歩み寄ってきたニーツが、ヒョイッと
  摘んだ。尚も暴れるマメを手に、ニーツはエンジュを仰ぎ見る。
  「捨てて来ようか?」
  「そうね。其処の窓からでも捨てましょうか」
  間髪入れずに頷くエンジュ。『きゃー、はなしなさいよ』とか、『ひとでなし、まめでな
  し!』等という言葉が飛び交うが、一向に気にせずにニーツは窓の方へ向かった。
  だが。
  「わかったわ!あなたたちもあのしろいひとのなかまね。すがたをみられたからしまつし
  ようとしているんだわ!かわいいかおして、とんだあくとうね!」
  その言葉が、ニーツの琴線に触れた。ピタリと歩みを止める。
  「白い人?」
  「そうよ。あなたたちよりももっとしろかったかしら。といれのかがみからきゅうにでて
  きてびっくりしたわ」
  「へえ。それで?」
  エンジュも興味を持ったのか、近づいてきて、腕を組んだ。
  「わたしをぎゅっとつかんで、なすすべもなくひきずりこんだの!ひっしにあばれて、て
  とてのあいだからなんとかすりぬけてきたんだけど…
  おちたところにもなかまがいたとはね!」
  後半は聞き流し、ニーツはエンジュを仰ぎ見た。その目は、どう思うかと問い掛けている。
  「音楽室の次はトイレの鏡ね。まるで何処かの七不思議みたいね」
  「ああ。何だかくだらないものに振り回されている気分だ。幽霊なんて所詮は虚像に過ぎ
  ないというのに」
  「あら、でも実際、行方不明者が出ているわ。そこのおマメさんも、何者かに出会ってい
  る…」
  「おまめさんじゃないわ!まめこよ!」
  すかさず訂正を入れるまめ子。だが二人とも、それを無視するように話を進める。
  「だとすると、誰かが虚像に実体を与えた、または、何かがきっかけで実体を持ってしま
  った、か…?」
  「引き金はアンリちゃんかしら?」
  「彼女を恨んでいた人物かもしれない」
  「ちょっと、きいてるの!?」
  余りにも無視される状況に腹を立てたまめ子が、その小さな腕を振り上げる。
  だが、それが振り下ろされる事はなかった。
  「あ、あ、あ、あれ…」
  振り下ろす代わりに、部屋の中心を指差すまめ子。その先を見た二人は、其処に奇妙な物
  体を見つけた。
  時は夕暮れ。
  紫に侵食されかけた茜色の空の端に、血の色をした太陽が、名残惜しそうに一筋の光の腕
  を伸ばしている。
  光はガラス越しに化学準備室に投げかけられ、部屋の中に置き去りにされていた鏡―生徒
  の忘れ物で、そのまま放置されていたもの―に反射し、その表面を白く照らし出していた。

  ―その浮かび上がった光の中に、白い腕が一本。

  それは、手招きしているようにも、もがいているようにも見える動きをしていた。
  「あ、あのうでよ!」
  まめ子が震えながら、二人に訴える。
  そうしている間にも腕は動き続け、バンッと音を立てて机に手のひらをついた。
  まるで、鏡の中から這い出て来ようとしているかのように―。
  「――――!!」

   ―シャッ―

  エンジュが、勢い良くカーテンを閉めた。
  反射するものを失った鏡が、元の落ち着きを取り戻し、拠り所を失った腕が、光と共に消
  えうせる。
  「な…」
  エンジュは一言だけ漏らした後、二の句が紡げなくなる。
  そんな彼女を横目に、ニーツはまめ子を持ったまま、鏡に歩み寄った。
  「な、なにするの!?」
  我に返って見上げるまめ子を机の上に置き、ニーツは先程の鏡を手に持った。
  特に、普通の鏡である。変わった所など何もなく、腕が生えていた痕も何もない。
  変哲のない鏡。だが先刻、この鏡を取り巻く世界が変質していた。
  鏡が世界を変質させたのか、それとも、鏡が世界の変質に巻き込まれたのか。
  「何か、変な所ある?」
  ようやく立ち直ったのか、エンジュが近づいて、ニーツの後ろから鏡を覗き込んだ。
  「いえ、特に」
  「ふうん…」
  疑いの眼差しで、エンジュは鏡を見つめる。だが当然のことながら、彼女の目にも、ただ
  の鏡としか映らない。
  「一体、何が起こっているのかしら?
  アンリちゃんの行方不明。音楽室の出来事。そして今…
  こんなに出会っているのに、何も見えてこない。…もどかしいわね」
  エンジュが、唇を噛みしめながら、悔しそうに呟く。だが、そんなエンジュの苦悩を振り
  払ったのは、まめ族の少女の、あっけらかんとした一言だった。
  「じゃあ、こちらからせめこめばいいのよ!さあ、いまからこのじけんをしらべましょ
  う!!」





             <女子トイレ>            葉月瞬


   その日の夜は、特別だった。
   無駄に広大な校庭も、教室の窓硝子も、トイレの琺瑯(ホウロウ)敷きの床も、何もかも  
  が紅く染められていたの。
   血よりも紅い満月が、皓々と紺碧の夜空を照らしていたわ。いつもと同じ風景だけど、
  いつもと違う所が一点だけあった。それは――満月の真丸い盆の中に髑髏の顔が浮かんで
  いたという事。
   世界が全て朱で染め抜かれたような、そんな錯覚さえ抱いてしまう夜だったわ。
   私はその、赤い月に見守られている最中、“鏡”の中の彼女とお話していたの。
   その子とお話している間は、とても楽しかったわ。まるで夢見心地だった。いつまでも、
  ずっと、この“友達”関係が続けば良いと思っていたのよ。
   私には、友達と呼べる人間が居なかったから――。

  ――― ● ―――

   私は良く、苛められていたの。
   酷い仕打ちは何度も受けたし、誹謗中傷を流布されるなんてざらだったわ。最初、この
  世の中は地獄の延長線上にあるのではないかと思っていたぐらいよ。私が今居るこの世界
  は、本当は地獄で、死んだ後もその世界がただただ続くだけ――ううん、地獄の更に奥の
  方へと連れて行かれるだけなのではないかと思っていたのよ。
   その頃の私は良く、この女子トイレを駆け込み寺にしていたわ。最初は、こことは別の
  女子トイレに駆け込んでいたけどね。泣きたい時とか、どうしても我慢がならなくなった
  り、肉体的な危害を加えられたら、ここに逃げ込むの。すると、不思議な事に奴等は絶対
  に此処のトイレには立ち入る事が出来ない様で、私が駆け込むのを見届けると舌打ちして
  立ち去っていくのよ。他のトイレには――勿論女子トイレに限るけど――簡単に入って来
  れたのに、よ。
   私が扉を閉めると、奴等顔を顰めて立ち去っていくの。苦し紛れに舌打ちしてね。その
  様子を確認すると、気味が良かったわ。未練がましく振り返り、振り返り、立ち去って行
  く彼女達を見ていると、知らず知らずの内に笑いが込み上がって来たものよ。
   其の“鏡”は、丁度その時私が逃げ込んだ女子トイレにあったの。其のトイレに普遍に
  存在しているかのように、まるで違和感無く掛けてあったわ。
   最初其れを見た時、私は逆に違和感を覚えたの。
   だって、他の無機質な鏡と明らかに造りが違うんだもの。
   その鏡には、金色に光り輝く装飾が施されていたわ。こんな場所には似つかわしくない、
  アールヌーヴォ調の金細工。何故、それがこんな殺風景で消毒剤の臭いに塗れた所に掛け
  られているのか。その疑問こそが、先程感じた違和感の正体だったのかも。
   その鏡は大昔からそこにあったかの如く、当然といった風体で他の無機質な、ただ四角
  いだけの鏡達と同様に並んでいたわ。
   その、余りにも当たり前の様に普遍的な存在である鏡に、私は段々心惹かれていくのに
  気付いたわ。
   そして私は、意を決してその鏡――一番奥に掛けられている――を覗いて見る事にした
  の。恐いけど……でも、好奇心の方が勝っていたのね。消毒液――どうしてこれが毒を消
  すのかしら。この臭い自体が毒だと思うわ――の臭いがきつくて今直ぐにでも出て行きた
  かったけど、どうせ外に出たってあいつらが未だ待っているかもしれないもの。いいえ、
  絶対に待っているに決まっているわ。そう、思い直して、私は奥の方に進む事にしたの。
   例の、鏡の前までね。
   女子トイレの小さな窓――換気の為に取付けてあるらしいその小窓から差し込む月光は、
  眩いほど最大限に明るさを増していて、その光の加減で私は今夜が満月だって解ったの。
  「ああ、今夜は満月かぁ」って朧気に心中で呟いた後、俄かに不気味な予感が胸中を支配
  するのを覚えたわ。だって、満月の夜には不可思議な出来事が起こるって良く謂われるで
  しょ? 私はその謂れを信じていた方だったから……。
   だから私は、恐る恐る鏡を覗いたの。
   鏡には――私が映ってた。
   只、それだけだったわ。
   私であると認識し得る、白い影が映ってたの。
   私と寸分違わず同じ容姿で、でも、鏡の向こうの私だけが微笑んでた。
   私は、段々恐ろしくなって来たの。恐怖が増大していって、顔を背け俯いてしまったの。
  その場から逃げ出したい衝動に駆られたからよ。目尻に薄っすらと涙が溜まっていたのも
  知ってる。でも、例え怖くても、大きな声で泣き喚くような子供みたいな事はしなかった
  わ。だって、その頃の私は、涙を流す事を忘れて久しかったから。
   それに――。
   それに、誰かがずっと囁いていてくれたから。

  ――大丈夫だよ。

   誰かが私の心の中だけに響くように、囁いていてくれていたから。別に不安に思う事な
  んて無かったの。それまで感じていた恐怖も、別にそれ程気にするほどのものじゃないっ
  て、考える事が出来たのよ。

  ――安心して。絶対、大丈夫だから。

   その言葉を聴いた途端、何だか勇気が湧いてきて、私は顔を上げたわ。ううん、上げる
  事にやっとの思いで成功したの。そして、やっと“鏡”を直視する事が出来たのよ。
   勇気を振り絞ってよくよく見ると、鏡の向こうの私は未だ笑っていたわ。限りなく、何
  時までも。声も無く、微笑を更に歪めて。まるで、恐怖を際限なく増長するかのように。
  ううん、違うわね。“アレ”は私なんだから、やっぱり恐怖を払拭したのかもしれない。
  でも……それにしても……アレは可笑しな笑い方だった……。
   不思議……。
   不思議だった。本当に。
   その影は、口だけしかないのに、何故か私だと判るの。
   ――彼女、友達になってくれようとしているようだったわ。
   だから、友達になる事にしたの。
   私の、今現在唯一無二の友達。
   この学校に来て、初めての、そして恐らく最初で最後の友達――。

  ――― ● ―――

   その日を境に、私は例の鏡が設置されている女子トイレに入浸る事になったの。私が彼
  女に会いに行くのは、決まって真夜中だったけどね。スリルが有って、楽しかったわ。下
  校のチャイムが鳴り終わるまでこっそり何処か――だから屋上なり体育用具室なり理科準
  備室なり何処でも良かった――に隠れていてね、あいつ等には勿論の事、誰にも見つから
  ない様にして例の女子トイレに駆け込むの。
   “彼女”は私に様々な事を教えてくれたわ。
   学校では絶対に教えてくれない事。
   鏡の世界の事とか、月の魔力の事とか、紅い満月の事とか、“儀式”の事とか……。
   兎に角、私の知らない世界の話を然も嬉しそうに語ってくれたわ。
   楽しかったぁ。
   あの時の事は、一生忘れられない思い出になったわ。
   楽しい思い出。
   私を苛めていたあいつ等の知らない知識がどんどん増えていく事に、快感すら覚えてい
  たわ。気が付いたら、“あの子”の口頭以外の所からも知識を吸収するようになってた。
   魔術の本や、不可思議な事象全般に関する本、神話学の本も漁ったっけ。
   兎にも角にも、あの頃の私は夢中だった。
   だから私が到底知り得ない所で、あの子の密かな計画が進行しつつあったのを、その時
  の私は気付く事が出来なかったのよ。

   出会ってから幾日か過ぎて。
   私と“あの子”の立場は何時しか、逆転していたわ。とっても可笑しな事なのに、その
  時はそうとは気付かなかったの。

   その日――だから紅い満月が皓々と周辺を照らしていたあの晩のことよ。私はいつもの
  通り、“あの子”に夢中で語り掛けていたの。紅の月の事、月の魔力が最大限に増大する
  一瞬の事、それから今からやろうとしている儀式の事……。

  ――さあ、儀式をやりましょう。

   “あの子”はそう言ったわ。
   いつもの微笑みを見せて。
   だから私は、嬉々として儀式を披露する事にしたの。“あの子”の直ぐ目の前で。
   “あの子”が望んだ事だから。“あの子”にせがまれたから。
   “あの子”の望む事ならば、自分の回りで何が起こっているか分からない、私は何だっ
  て出来る。少なくともその時はそう思ったのよ。そう、思えたの。

   考えても見れば、あの時の私は“あの子”にずっと操られていたような気がするわ。
   あの微笑みに。
   あの巧みな言葉遣いに。

   儀式は滞りなく進んで、紅き髑髏の月が中天を割った頃、突然鏡面が眩いばかりの光に
  満ち溢れたの。私は思わず目を瞑ったわよ。だって、眩しかったんですもの。
   “あの子”も、鏡も、紅い月も、トイレの壁面も何もかも見えなくなって段々心細くな
  って来たの。突然何もかもが消えてなくなって、闇の世界に独りぼっちで取り残されたよ
  うな、孤独に塗れた世界に迷い込んだような気がしたから。身に危険が及ぶ事よりも寧ろ、
  世界から完全に隔絶される事の方が恐怖心が増幅されるという事が良く分かったような気
  がする。
   私には、耐えられなかった。
   私は今まで、世界から隔絶されても良いと思ってた。そういう節があったのは認めるわ。
  この世の地獄から切り離されるのだったら、孤独に死んでいった方がましだと。友達も、
  両親も、知人も、親類縁者も、何もかも凡そ人と呼べるものは何もかも要らない。私は一
  人で孤独に生きていく。生きていけると、そう考えてた。
   でも、そんなのはまやかしだと思い知らされたの。
   強がりを言っているだけだったんだと。
   私は、真の孤独になる恐怖に耐えられなくなって目を見開いたわ。
   最初に目に入って来たのは、光り輝く白――銀色の壁。
   それは私と“あの子”の周囲を取り囲んでいて、360度全てその光の壁一色だった。
   最初、目がどうかしちゃったのかと思ったわ。
   だって、ありえないもの。
   この世では。
   だから私は、次の瞬間には此処が天国かと思ったの。
   私のそんな思惟を読み取ったかのごとく、“あの子”は小さく微笑むと――実際は口を
  歪めただけ――「此処は天国じゃない。此処は、私の世界。鏡の中の世界よ」と私に言っ
  たの。

  「鏡の中の、世界?」
  「そう。私の、私達だけの、世界」
  「外に……外に出れないの?」
  「もう二度と。儀式は、終わってしまったもの」
  「……終わった?」
  「紅の髑髏の月は西の空に落ちつつあるわ。もうこの世界と、貴女が居た世界とは完全に
  分離してしまった――。……貴女、望んで此処に来たんでしょう?」
  「……お父さん。……お母さん」
  「……そう、怖いのね。独りになるのが。……大丈夫よ。私が付いているから」
  「…………私達、ずっと、友達でいられる?」
  「そう、ずっと友達よ。これからずうっと、友達。……でも、駄目。このままでは」
  「……えっ!? 友達でいられなくなるの?」
  「そうよ。私と貴女は、元々一つの存在。貴女がこちら側の世界に来てしまった以上、私
  はもう直ぐ消えてしまうの。だから、ずっと友達でいられるけど、ずっと一緒には居られ
  ない」
  「そっ、そんなの嫌!! ずっと、友達でいて! ずうっと、ずうっと、一緒に居て! 
  独りはもう、嫌なの!!」
  「そう、嫌なのね。……じゃあ、私と一つになりましょう。そうすれば、私達はずうっと
  一緒に居られるわ。これからもずうっと、永遠に、ね」

  ――クスクスクス。

  〜アカシアの回顧より〜

  ――― ○ ―――

  「かがみのなかにいた、アカシアってこがわたしだけにおはなししてくれたの。いままで
  おこったことと、これからおころうとしていること。どうしてわたしにこんなはなしをす
  るのかしらって、ふしぎがってたけど」

   図書室の一室。
   ニーツの提案で、三人――ニーツ、エンジュ、まめ子達は取り敢えず鏡の置かれていな
  い安全な部屋、図書室に移動する事にしたのだ。当面の間は此処で対策を練る事になりそ
  うだ。

  「あのこはともだちだけど、ともだちじゃない。あなたのほうがずっとともだちみたいだ、
  ともいっていたわね」

   大きいのも、小さいのも合わせた本ばかりが並んでいる棚の群れを、朱色の陽光が染め
  上げていく。この大広間には、今現在三人しか居ない。当の昔に下校時刻は過ぎているし、
  元々図書室は人が寄り付かない部屋として有名な所だからだ。

  「じゃあ、その“紅の髑髏の月”ってのが鏡の世界への道を開く、鍵の一つだってのか
  い?」

   “肉食エルフ”という通称の方が有名なエンジュ先生は、銀色の髪を掻き上げ馬の尻尾
  風に一つに括りながら言った。これから行動に移さなければならない事を薄々感じている
  からであろう彼女は、その両の瞳に喜びの色を湛えていた。髪を掻き上げたため、少し尖
  った感じの両の耳が外気に晒される。

  「そのようですね。俺も鏡の世界の話ぐらいは聞いたことがありますよ。その、儀式の事
  も。……確か、此処の図書室にその儀式の事が記述されている本があったと思ったけど……」
  「それね! それじゃあ、早速探してみましょ。その儀式が書かれた本とやらを……」





              <職員室>              千鳥


  1足す1が1になるなんて、思ってもなかったの。
  私の寂しさを埋めるものは、私ではなかったの。
  そして、また独りぼっち。
  再び、私は・・・私たちは探さなくてはいけない。――――新しい仲間を。

   ------------

   昔から、資料を探すという作業は苦手だった。 
   そして、片付けるのも嫌いだった。

  「・・・無いわねぇ・・・」

   既に興味を失い始めたエンジュが、手に持っていた本を投げ捨てた。そして彼女が背後  
  に築き上げた本の山の一部となる。

  「先生。本は丁寧に扱ってください。というか、その本の山を片付けてください」

   梯子の上に腰を下ろして、本を捲っていたニーツがそんな様子を目ざとく見つけて口を
  尖らせる。

  「まぁ、ニーツ君。そんなこと言わないで。司書のジジイに似てきたわよ」
  「・・・・・・・」
  「ないわ!どこにもみつからない。あなたほんとうにここにあるんでしょうね」
  「俺も話に聞いただけだから…」

   本の上でまめ子がピョンピョンと跳ねて抗議する。ニーツは肩を竦めながら壁に掛けら
  れた時計に目をやる。
   既に教室の殆どから明かりが失われ、図書室はまるで忍び寄る闇から隔離された―――
  いや、闇に閉じ込められた小さな世界のようだった。

  「君達!遅くまで何をしてるんだ」

   そんな切り離された世界が、一人の男の声によって破られた。呪文を短く唱え、身構え
  たエンジュは、相手の顔を確認すると、同時に素早く窓の月を確認する。大丈夫。今宵は
  満月では、無い。
   ほっした顔で後ろを振り返れば、ニーツも窓から男へと視線を向けたところだった。

  「……エンジュ先生。何でこんな所に」
  「えぇ。授業で使う本を図書委員の生徒に探してもらっていたんです。先生は見回りです
  か?」

   見慣れぬマメ族の少女に視線を向けていた男――――黄土色の背広を羽織った歴史教師
  は、梯子から降り、無言で頭を下げたニーツに納得したような表情を浮かべる。

  「さ、あとは職員室に戻るだけですよね!私も西舎の鍵を返さないと。ご一緒しますわ」
  「しかし、ここの施錠が……」
  「そんなん鍵を使わなくたって出来ますわ」

   教師にあるまじき発言を微笑とともに口に乗せると、男性教師の背中を押してエンジュ
  は図書館を出た。

  「今日はもう諦めましょう。私が来るまでに本を片付けて頂戴」

   扉が閉まる寸前にこんな言葉を残して。

   --------

   暗い廊下を二人の教師が足音だけを響かせて前に進む。光の魔法により生み出された照
  明が、不具合からかジジジと頭上で嫌な音を奏でる。最初に口を開いたのは、エンジュだ
  った。

  「先生、この学校で何かおかしな出来事が起こっているとは思いませんか?」
  「それは……どういうことかな」
  「生徒の周りでおかしな出来事が、立て続けに起こっているような気がするんです」

   少女が忽然と姿を消し、首なしの姿で現れ、また消えた。アンリ=パネットが居なくな
  ってまだ数日だか、そろそろ人々は異変に気がつき始めている。

  「元々、人の多く集まる場所では、普通じゃないことが起きるものですよ。貴女が学生だ
  った頃と、恐らくここは何一つ変わっていない」
  「何一つ……?」

   この学園の教師の殆どは、本校の卒業生により構成されている。エンジュもまた、同様
  であった。今は同僚であり、かつては師であった男に、エンジュはまるで少女時代に戻っ
  たかのような、邪気の無い顔で疑問を乗せる。

  「君が子どもの頃にも、消えた人間は居なかったかな?アージェント君」
  「そんなはずは・・・」

  エンジュの頭に一人の少女の姿が浮かぶ。
  同じように魔術を学んだ少女。真っ白な肌の美しい少女だった――――彼女は今、何をし
  ている?

  「やはり、この謎を解くのは私では無いようね……」

   学校の不思議は生徒たちの心から生まれる。
  それは、自分たち大人にとっては他愛無い、戯言でしかない。
  それでも、この学校という場所では、魔法のように、不思議が一人歩きを始めるのだ。

  不安定で、未熟な子供たちの無限の心を糧にして。





               <本>                架月


  -貸出禁止の本の中には、呪いの本が混じっているー

  エンジュが歴史教師と共に図書室から姿を消した後。
  ニーツとまめ子には、彼女が作った本の山を片付ける、という仕事が残された。
  「まったくなにをかんがえているんでしょうね。こんなにちらかしちゃって!あとかたづ  
  けをするわたしたちのみにもなってほしいものだわ!」
  エンジュに怒りをぶつけるまめ子だったが、実際に作業しているのはニーツである。
  お前は何もしていないじゃないか…と軽く心の中でまめ子に対して突っ込みながらも、
  黙々とニーツは作業を続ける。
  余計な会話は時間の無駄だ。
  「そもそもあのせんせいはと〜ってもらんぼうそうだわ。わたしもいつかあのせんせいに
  おしえられるたちばにたつのかしら。なげかわしい」
  人を見た目で判断するのは子供のやることだ、とは思ったが、ニーツはあえて否定をしな
  い。
  「ああいうせんせいがいるから…」
  尚も言い募るまめ子の言葉を聞き流しながら、ニーツは丁寧に本を分類していった。エン
  ジュがごちゃ混ぜにした所為で、一冊一冊元の場所を調べながら片付けていたら夜が明け
  てしまう。
  気の遠くなるようなその作業も終わりにさしかかった頃。ニーツの目に、ふと一冊の本が
  飛び込んできた。いや、本というよりも、それに付けられていた印が。その他の、どの本
  にも分類されない一冊の本。ニーツは、その『禁帯出』の印が付けられた本を手に取った。
  「貸出禁止の本まで持ち出すとは…」
  だがそこで、ニーツははたと思い直す。エンジュとニーツは見境無く本を調べていたが、
  どちらも一度として、貸出禁止フロアーには足を踏み入れていない筈。無論、まめ子は問
  題外。
  では一体、この本は誰が此処へ持ってきたのか。
  何時の間にか存在していたその本に多少の気味の悪さを感じつつも、ニーツはそれを手に
  とった。ずしりと、異様なほどの手ごたえに眉をひそめる。
  「どうしたの?」
  まめ子が、ニーツの異変を察知し、顔を覗き込んでくる。
  「いや…」
  ちらりと一度まめ子に視線を移し、本に戻す。何かがある、その直感が正しい事を、ニー
  ツは知っていた。
  恐らくこれが、探していた儀式の本だろう。だが、何故か、この本自体に不思議な魔力が
  感じられた。
  繋がっている。そう、感じた。
  「おい」
  「なに?」
  「何が起こっても、俺を恨むなよ…」
  「へ?」
  まめ子がニーツの言葉の意味を解りかね、目を丸くしているその隙に。ニーツはサッとそ
  の本を開いた。
  …何も起こらない。
  本はただ、乾いた音を立てて、捲れていく。ゆっくりと。
  「なに?さっきはなにがいいたかったの?」
  不思議そうなまめ子の言葉を聞きながら、ニーツは窓のほうへ視線を移した。今、この図
  書室はカーテンが全て閉まっている。だが。何処からか風が流れ込み、そのカーテンを跳
  ね上げた。一瞬出来た、その隙間から差し込むのは、月の光。
  光は、まっすぐにニーツの持っている本を目指し、本に纏わりつく。まめ子は、月の光が
  作り出す光景に、ゆっくりと目を瞠った。
  「あ…あ…」
  淡い燐光を纏った本。そこから伸びた、一本の手。
  「大当たり、か」
  「おおあたりって…!」
  冷静にそれを見つめるニーツとは対照的に、まめ子は声を上擦らせて叫ぶ。
  そうしているうちにも、白い腕はゆっくりと、彼らを手招きした。
  ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと…
  「ひぃ――」
  そしてその手は、ニーツの腕を掴み……

  「あら…?」
  帰ってきたエンジュは、無人の図書室の入り口で立ち尽くしていた。
  そこにあったのは、未だ散らばったままの本と、ゆっくりと風で捲られ続ける一冊の本。
  エンジュは、ゆっくりとその長い髪を掻き揚げる。
  「全く…一体何をやったのよ、あの子達は」
  小さく独りごち、エンジュはゆっくりと、その本に近づいた。
  眺めると、探していた儀式の本のようだ。何故か、魔力の残り香が感じられる。
  どうやら、生徒達は一足先に、鏡の世界に行ってしまったようだ。
  満月は、明日。
  (さて、これからどうしようか…)





             <鏡の世界>             葉月瞬


   締め切った室内で風が吹く訳も無いのに、“本”は音も無く捲れて行く。そして、魔法  
  陣のページで漸く止った。
   音も無く。
   暫く月光を浴びていたその魔法陣は、突如淡い光を放出した。
   エンジュが気付き振り向く暇も有らばこそ、 その月光色の淡い光はエンジュを呑み込
  むとそのまま光源が失われたが如く光は収縮して行った。
   後に残されたのは開かれた魔法陣のページと、月光に浮かび上がった図書室と、不気味
  な少女とも化け物ともつかない笑い声だけであった。
   笑い声が収まると同時に“本”は再び音も無く閉じられ、表紙が露になった。その表紙
  には、題名が書かれていなかった。ただビロードの表紙に質素だが上品な装飾が施されて
  いるだけだった。

  ――名も無き呪いの本には手を出すな。世界は繋がり、引き込まれてしまうから――

    ◆◇◆

  『ウフフフフ。私と友達になりましょう』

   引き込まれる寸前、誰かの嬌声が聞えて来たような気がした。

   気が付くと其処は見慣れぬどころか、現実の世界では絶対にあり得ない風景が広がって
  いる場所だった。いや、風景というのもおこがましい。敢えて言うならばそう、背景だろ
  う。何処からとも無く付近を照らし出している、光源も定まらない光が乱反射している。
  現在ニーツが尻に敷いている、地面とも付かない部分も淡く光っていた。それも乱反射の
  せいなのか、それとももっと別な光源なのか。見回してみると、空間とも付かない四方八
  方にニーツの顔が複数刻まれていた。
   そう、ここは鏡の世界なのだ。
   咄嗟にニーツはそう、悟った。
   自分達は鏡の世界に引き込まれたのだ、と。
   ふと、何やら呻き声が聞えた気がしたので、ニーツはそちらに視線を移す。が、直後に
  視線を四方八方に散らせた。
   どうやら、呻き声の主が見当たらないらしい。

  「しつれいしちゃうわね! れでぃにたいして、なんてらんぼうなのっ!!」

   先程の呻き声が漸く言語に切り替わったので、ニーツはやっと声の主を捜し当てること
  が出来た。
   其処には一人の――いや、一粒のまめがあった。

  「……まめ子……。なんだ、お前も引き込まれたのか」
  「なんだとはあいさつね! あんなにしきんきょりにいたら、ひきこまれるにきまってる
  わっ!!」

   一通り捲くし立てておいてから、まめ子は自分の言動の中に不可解な部分を発見して
  「ん?」と首を傾げる。

    ○●○

   あら?
   “ひきこまれる”?
   ひょっとしてわたしたち、ひきこまれたの?
   あの、なぞのほんのなかに……。
   どうして? だって、あれはどっからどうみてもかがみじゃなかったのに。
   あの、かがみのおんなのこはいったい……。
   !?
   そうだわ!
   かがみのおんなのこよっ!
   あのこをはやくさがさなくちゃっ!!
   ともだちになるって、やくそくしたもの。
   あのこ、ずっとさびしそうなめをしてた。
   わたしとはなしているあいだじゅう、ずっと。あんないいこに、あんなめをさせておけ
  ないわっ!
   わたしがともだちになってあげなくちゃ。そしたら、もうにどとあんなさびしいおもい
  はさせないんだから。
   わたしもひとりはさびしいから、よくわかるの。
   ひとりはいや。ひとりは、ひとりは、なにもかたりかけられるものがいなくて、なにも
  きくことがなくて、なにもきょうみをそそられることがないもの。そんなの、ぜったいい
  やよ。ありえないことだわ。
   だから、ぜったいにあのこをさがしだして……。

   ……あの、ひかり……。
   あの、いってんのひかりだけしゅういのひかりとはちがうようだわ。
   あそこだけ、なんだかこうげんがはっきりしているみたい……。
   ああ、なんだか、さそわれているみたい……。

    ○●○

   まめ子が一点の曇りも無い其の神聖な光点に、誘われるままに進むのをニーツが見逃す
  筈は無かった。

  「おい、まめ子。何処へ行くんだ? トイレか?」

   ニーツの会心のギャグも、虚しく宙を舞うだけだった。
   まるで人の話を聞いていない、ある意味まめ子らしい行動にニーツは不信感を抱く。自
  分の放ったギャグを無視されたからで無く、明らかに疑念に満ち満ちたこの空間で勝手に
  動き回ることがどんなに無謀な事かを熟慮した所以[ゆえん]である。

  「おい! まめ子!! 勝手に歩き回るなっ!」
  「……あのひかり。あのひかりのむこうに、“あのこ”がいるのよ。そんなきがする……」

   そう言い残して、今にも光に吸い込まれそうなまめ子。

  「……ちっ! しょうがねぇなっ!」

   ニーツに選択の余地は無かった。
   一つ舌打ちすると、まめ子の後を追って光点に向かって駆け出すのだった――。





               <教室>               千鳥


  人々が異変に気がつくのは早かった。
  授業の始まらない教室。
  空いた机。
  返ってこない声。

  彼等が鏡の中に吸い込まれたことなど、誰も知るはずがない。
  それでも不思議な世界へと続く穴は少しずつ広がっていたのだった。
  ------------------------------

   白銀の世界から追いやられた後に広がるのは、原色の絵の具をぶち混ぜた頭の痛くなる  
  ような世界だった。
  「どうすれば、いいんだろう」
   出血は既に止まっていた。血を吸ったハンカチは固くなり、鉄の臭いがした。
   制服をまとった少女は、途方にくれた様子で、歩き続けた。

  ―――アンリ。私のところに、いらっしゃい。――――

   耳元で凍りのように冷たく囁かれた声が、未だに拭えなかった。

  ―――貴女はとっくに死んでしまったのよ。―――

   首を無くした自分が、ニーツとエンジュの前に姿を現した時、アンリはそのあるはずの
  無い顔で彼等の様子を見ることが出来た。彼等の恐怖に彩られた表情を忘れることは無い。
  どんなに叫んでも彼等には聴こえない。
  「あるわ、私の顔は無くなってなんか無い・・・・・・」
   恐る恐る顔に手を伸ばす。少し肉がつき過ぎて不満に感じていたはずの頬の柔らかい感
  触に、初めて安堵を覚えた。
  「私は、生きてるの・・・・・・?」 


  「アンリ=パネット?」
  「は、はい!」
   突然呼ばれた声に、アンリは慌てた声で顔を上げた。こんな状況だというのに、まるで
  出席の返事のように答えたのは、その声も同様に名簿を読むような声だったからだ。

   これが全て夢の中で、気だるい教室での白昼夢だったらどんなに良かっただろう。しか
  し、彼女の居る世界は未だ絵の具のパレットの中であった。
  「エンジュ・・・・・・先生?」
   しかし、目の前に立っているのは、彼女が心の奥底でずっと助けを求めつづけていた少
  年ではなかったが同じ色の髪を持った、頼もしい女教師の姿であった。

   ★☆★

   本から眩い光が発せられると同時に、エンジュはおかしな世界にいた。
   沢山の色が膨張縮小を繰返す、まるで生きた細菌の入った顕微鏡の中のようだった。
   時間も、自分の存在すらも失いかねる空間。

  「これが・・・・・・鏡の世界?」

   予想との違いに戸惑いつつも、エンジュは足を進める。ニーツもマメ子も見当たらない。
  それどころか、あの幽霊の気配すら感じられない。そんな中でエンジュは一人の女生徒―
  ――アンリを見つけた。
  「・・・・・・先生?エンジュ先生!!」
   涙に濡れたその顔で、写真とは違った生きた姿でアンリが駆け寄ってくる。途中疲労の
  せいだろうか、足をもつれさせながらもエンジュに抱きついた。
  「良かった、無事だったのね」
   彼女が本物である確証など無かったが、それでもエンジュは少女を優しく受け止めた。
  「一体何があったの?」
  「私にも、分からないんです。でも、鏡の世界から追い出されて」
  「追い出された・・・・・・?じゃあ、ここは鏡の世界じゃないの?」
   途端に表情を引き締めたエンジュに戸惑いながらもアンリは頷く。
  「私は、断ったんです。あと、これが守ってくれたから」
   アンリは首にかけていた小さな水晶の首飾りを出した。
  「魔除けってわけね。でも、困ったわね、まめ子とニーツ少年が来てるのよ」
  「ニーツ君が!?」
   アンリの頬が仄かに赤らむ。そんな少女を意味ありげに見下ろしながら、エンジュは顔
  にかかった長い髪をかき上げた。
  「まめ子・・・あの子が随分と鏡の霊に共感してたからね。危ないわ・・・・・・」
   しかし、大人であるエンジュと、少女を拒否したアンリは彼女の世界から追い出されて
  しまった。何とかして入ることは出来ないのだろうか・・・・・・。
   そう、頭を悩ますエンジュの傍に立っていたアンリが急に驚いたように目を見張った。
  「せ、先生!?」
  「ん?」
   知らぬ間にアンリとの目線が近くなったような気がする。
  「その姿・・・・・・」
   白衣に身を包んでいたはずの自分がいつの間にか制服を着ていた。今のアンリが着てる
  ものとは異なったデザインだが、そのエンブレムは間違いなくテラロマ学園のものである。
   アンリが先ほどより赤く顔を染めている。
   ペッタンコになった胸と、短くなった髪――――その姿は、スカートさえ穿いていなけ
  れば立派に美少年であった。
  「あー・・・もしかして若返った?」
   声も今までの柔らか味が減った若々しいものであった。この信じがたい現象にエンジュ
  は全く動じなかった。むしろ好都合とばかりに腕を組んで不敵に微笑む。
  「来るわよ」
   短い髪から覗く耳が異変の前触れを察知し微かに動いた。

   ―――キィィィン。

   鋭い金属のこすれ合うような音とともに、一切の色彩が流れ出した。その奥に眩い光の
  漏れ出す光源が浮いている。
  「ご招待ってわけね♪」
   アンリがエンジュの後を追う。


  ――エンジュ。あの子を、私たちを助けて・・・・・・―――

   光の中へ踏み出す寸前に聴こえた懐かしい声。
   振り返ってもその顔を思い出すことは無かったが。





            <呪われた廊下>             架月


  忘れ去られた廊下に掛かる、存在するはずのない鏡には、身体の無い少女の首が映るとい  
  う―…

  最初に異変に気が付いたのは、まめ子が何かに引きずられるように歩き出して、しばらく
  してからだった。
  耳をすませていなければ気付かない程の変化。
  何かの恨みの声のような、微かな声が、遠く、近く響いてくる。
  「…ビヲ…エシテ…」
  意味の繋がらない言葉に、ニーツは目を細めた。まめ子はまだ目を覚まさず、ふらふらと
  声の方へ向かって歩いている。
  「…コ?…シノ…ビ…」
  「何が言いたいんだ?」
  ボソリと呟いたニーツの言葉は、思った以上に響き、空間に反響する。
  ぴたりと、まめ子の歩みが止まった。
  同時に、声も。
  訝しむように眉を寄せ、ニーツは周りの気配を伺った。ピンッと空気が張り詰める。
  「……――!」
  其れは、突然だった。黒い大きな影が、光の方向から、二人、いや、まめ子に向かって襲
  い掛かってきたのだ。
  ニーツは、咄嗟に障壁を張り、それの影を弾く。弾かれた影は、悶えるように蠢いた。
  「な、なに…!?」
  まめ子が正気に戻り、周りを見回した。状況を把握できないながらも、蠢く影を見て、喉
  の奥で悲鳴をあげる。
  「…オトモダチ…ワタシノ…ソバニキテ……イッショニ…」
  影は、ゆっくりと集まり、何かを形作る。その正体を知った時、まめ子が再び悲鳴をあげ
  た。
  首の無い、少女の姿。
  「ワタシトイッショニナリマショウ…ソシテ…ワタシノクビヲ…」
  不意に、少女の姿が変わった。きちんと首を持つ、髪の長い、可愛らしい女の子へ。
  「ねぇ、探して。返して。お友達でしょう?お願い」
  上目遣いに見つめてくる少女の表情は、普通の男の子なら、思わず赤面するほど可愛らし
  く、魅力的だった。だが、ニーツは冷たく言い放つ。
  「それが、お前の取り込んだ少女の姿か」
  「うふふ…そうよ。でもね、いくら取り込んでもどうしても首が取れてしまうの…ほら」
  そう言った、少女の首がポロリと外れた。ニーツ達の後ろから、か細い悲鳴が上がる。
  「自分の首を補うために、少女達を取り込んでいたって訳ね?」
  「アンリ。…エンジュ先生…?」
  悲鳴を上げた主は、ペタリと床に座り込んでいた。その横では、姿は変われども、いつも
  と変わらぬ独特の雰囲気をもったエンジュが佇んでいる。
  「あらぁ♪よく解ったわねぇ」
  「アンリ、大丈夫か?」
  今にも抱きつきそうなエンジュから距離を取りつつ、ニーツは座り込んでいたアンリに手
  を伸ばした。アンリは、頬を染めつつ、立ち上がる。
  そのままニーツの腕にしがみついたが、ニーツは面倒なのか、振りほどく事はしなかった。
  そうしている間にも、少女はまたしても姿を変えていた。三つ編みの女の子だ。
  「あなたがわたしをよんでたの?」
  まめ子が、少女に問い掛ける。
  「そうよ。私、お友達が欲しかったの。みんなも、お友達を欲しがってたの。だから、一
  緒になったの」
  「友達が欲しいと願う少女達の心と、あなたの願いが繋がって、あなたという怪異が具現
  化したのね…」
  「私、寂しかった。鏡の中で一人きりだから。痛くて、暗くて、寂しくて、友達が欲しか
  った。私の首を、探して欲しかった」
  「くび…?」
  「そう…私の首、取れちゃったの。何処かに置いて来ちゃったの。痛くて、苦しかったの。
  歩いていただけなのよ?なのに、なのに…」
  「……呪われた廊下の物語、ね」
  エンジュが呟いた言葉に、少女を除く全員の視線が彼女に集まった。
  「そういった話を聞いたことあるわ。今の今まで忘れていたけどね」
  そう言って、エンジュはその話を始めた。
  昔、テラロマ学園の何処かの廊下には、大きな鏡が掛かっていたらしい。その下で、少女
  が死亡する事件が起こったそうだ。
  少女は、ただ歩いていただけだった。少女がその鏡の下に差し掛かったとき…
  鏡を支えていた金具が外れ、鏡が凶器になって、少女に襲い掛かった。
  割れて鋭い刃物と化した鏡の破片は、少女に次々と突き刺さり…
  最も大きな破片は、少女の首に埋まった。そして…
  「発見者が人を連れて戻ってきた時、その少女の首は無かったそうよ。そして、しばらく
  して、学園の生徒が次々といなくなる事件が起こったらしいわ」
  「それじゃあ…」
  「その時死んだ少女が、あなたなのね?」
  エンジュの問いかけに、少女は虚ろな視線を向けた。
  「そうよ…痛いの…苦しいの…こんな所に独り…
  お願い、一緒にいて…」
  「ごめんね、それはできないの」
  それまで、黙って聞いていたまめ子が、顔を上げ、呟いた。少女は、泣きそうな、それで
  いて怒ったような表情を浮かべる。
  「どうして!?あなたも私も、友達を求める心は一緒じゃない!」
  「ひとりでいるのはさみしいわ。それはわたしもよくわかる。わたしもね、ひとりだった
  から」
  「それじゃあ…」
  「でも、いっしょにはなれないの。わたしはわたし。あなたじゃないわ」
  「誰にだって、自分として生きる権利がある。それは、誰も土足で踏みいることを許され
  ない絶対的な権利だ。それを侵すことは、罪を犯す事と同じだ。
  取り込まれた少女達は、少女達であって、決してお前にはなれない」
  諭すようなニーツの声と瞳に、少女は気圧されたように後退した。
  そんな少女に、一瞬、ニーツは表情を緩める。
  「…だけど、お前にも、お前であるという、権利は、少女達と同等にある」
  「そうね。あなにも、あなたに戻る権利はあるわね。
  …私達も手伝うわ」
  エンジュが、短くなった髪を掻き上げて、ニーツの意見に同意した。
  「どういうこと?」
  不思議そうに、アンリがニーツを見る。ニーツは一瞬だけアンリに視線を走らせて、少女
  に戻した。
  少女も、意味が解っていないらしく、ニーツとエンジュを交互に見遣った。そんな少女に、
  エンジュが一歩前に出て、手を差し伸べる。
  「行きましょう。あなたを取り戻しに。あなたの首を探しに」