<購買前> 千鳥
授業中の廊下って、どうしてこんなに静かなのかしら。
多くの生徒を収容するこの校舎であっても、それは変わらなかった。
閉め切った教室と、真っ直ぐに続く廊下はまるで別の次元のよう。
時折鳴るチョークの音も教師の話し声も、ひどく遠い。
私は、未だ血の止まらない腕を、赤いチェックのハンカチで押えて階段を下りた。
「アンリ?」
突然名を呼ばれ、私は吃驚して飛び上がる。何も悪い事などしていないのに、居心地の
悪さが抜けない。振り返ると、そこには一人の男子生徒が立っている。隣のクラスの男の
子だ。同じ図書委員で、親しくはないけれど、お互い名前くらいは知っている。
「実験で、怪我をしちゃったの。保健室に行こうと思って・・・。貴方は?」
「馬鹿な教生が、教材ごと階段から転げ落ちてな。自習だ」
「ふふ、あんまり先生を苛めちゃだめよ」
「アイツが勝手に嘆いてるのさ。保健室に行ったら会えるんじゃないか?」
皮肉な笑みを浮かべた顔は、1年にしては随分と幼い。それもそのはず、彼は2年飛び
級をして、中等部から上がってきたのだ。
彼と別れると、そこは再び静かな廊下に逆戻りした。
曇りガラスの向こうでは、彼のクラスの人たちが自習をしているところだった。皆、気
ままな時を過ごし、談笑しているのだろう。若者特有の熱気が、ここまで届きそうだ。
でも、遠い。近くて、遠い。
そんな中で、一つの教室の扉が開いていた。滅多に使わないその準備室は、人気がなく、
暗い。その中から、名を呼ばれた気がして私は足を止めた。
「誰?」
先ほどまで、遠く感じた世界が、再び現実を取り戻した。足を、踏み入れる。
「・・・誰?・・・」
-----
購買のパン屋の前で、一人の女教師が恍惚とした表情で何やら呟いている。
「やっぱり、教師っていいわよね〜」
白衣の下には白いパンツと黒のタートルネック。化粧も薄く、マニキュアすら付けてい
ないその姿は、世の人々が『女教師』という甘美な響きから連想するものと随分異なって
いる。
ローズグレイの瞳、白い肌、白衣にかかる銀髪は消え入りそうな淡い色彩だが、その整っ
た中性的な造作に、白衣から零れるほどの豊かな胸が、生徒たちに彼女の存在を強烈に
印象付けた。
―――2年化学担当、エンジュ教師である。
視界の端に、学ランの黒いズボンが映り、エンジュは身を固くした。
予想したのは、彼女に劣らぬ大食漢と有名のある男子生徒。そして購買部の混雑時には
彼女の好敵手となる。口数の少ない無愛想な性格だが、「無口なところがヌイグルミみた
いで可愛いv」と一部の女生徒に人気で、“彼に餌付けし隊”などが結成されているらし
い。餌付け中に鈴を鳴らしたり、着信音を鳴らしたりと、色々頑張っているそうだ。
しかし、実際にいたのは別の生徒。彼女と同じ銀髪に、珍しいオッドアイの少年だった。
エンジュの授業には出ていないが、名前は知っている。
(たしか、ニーツ君・・・ね)
自分によく似た生徒がいる。と誰かが教えてくれたのだ。一体何処が似ているのだろう?
(私はあんなに可愛らしくないわ、背だって小さいし。・・・でも)
見られている事に気付いているくせに、こちらを向こうともしない。馴れているのか興
味がないのか・・・。
(気が強そうね)
「ちょっと、少年」
「俺に何か用なの・・・ですか」
相手が教師だと気付いたのだろう、無理やり口調を変える。それが面白くてクスリと笑
うと、相手の顔が不機嫌なものに変わった。
「苺クリームメロンパンと、牛コロッケ焼きそバーガーどっちが好き?」
「・・・・はぁ?」
両方とも生徒に大人気の商品である。実物を見たことの無いニーツは戸惑いながらも律
儀に答えを返した。
「苺クリームメロンパン・・・」
(意外に堅実派ね)
何となく分析してみる。
「でも、全部私が買ったから、売り切れなのよね。君に一つあげるわ」
そう言って有無を言わさず、苺クリームメロンパンを少年に押し付ける。
「欲しいなんて言ってないぞ?」
「そうね」
授業終了10分前。
途端に辺りが騒がしくなり始めた。
―――バタンッ!!
何処かで、不自然に、ドアの閉まる音がする。耳の良い二人は思わず顔を見合わせる。
しかし、それも束の間。思い起こせばそれは、普段から耳にする音ではないか。日常のヒ
トコマ。それでも、胸に何かモヤモヤとした不快感を抱きながら、二人は、互いに背を向
けた。
終了5分前。
「あぁぁぁ!!俺の牛コロッケ焼きソバーガーがぁぁ!!」
挨拶も終わらぬうちに、その俊足を生かして一番乗りした生徒が購買の前でそんな悲痛
な叫びをあげる。しかし、その声も、砂糖に群がる蟻のように生徒が押しかけてきたため、
直ぐに消された。そこは戦場と化した。
授業終了。
----
結局、アンリは保健室には寄らなかった。
そして、再び教室に戻る事も無かった。
日常的な音が一つ。――――ポロン。