熊猫
かりかりかり・・・
ペンを走らせる音が教室の中で響いている。
いつもとは少し違い、教室の机には空席が多い。
そのひとつを埋めているファングは、ペンすら持たずただぼんやりとそこに座っていた。
やわらかい榛(はしばみ)色の髪を、きつい黒のバンダナでとめている。
はだけた学ランの下はワイシャツではなく、どういう神経かTシャツである。
今日は灰色だが、昨日は赤だった。
眠いのを通り過ぎて半眼になりかけている紺色の目は窓の外に向いている――
外はこれでもかというくらいいい天気だ。
ちょうど今、授業が終わって帰宅する生徒で廊下は混雑している。
テストが終わり、これからの数日間をどうやって過ごすかで、皆浮き足立っているようだ。
かりかりかり・・・
しかしこの教室では誰一人顔を上げない。
いや、ごくたまに立ち上がり、埋めたばかりのプリントを持って教壇に向かう生徒もいる。
教壇に座っているのは 矢吹 雪恵――この学園では数学教師として教鞭を振るっている
が、振るいすぎて生徒からある意味一目おかれている存在でもある。
長い黒髪、薄紅色のくちびる、目は怒っているわけでもないのに吊りあがっている。
『女教師』という単語から想像される要素を全て持っている彼女の授業は、無論厳しい。
その傾向は採点にも現れているのか、俗に『赤点』と呼ばれる平均点の半分以下を
取った生徒はもちろん、それ以上の点数を取ったにもかかわらず、彼女に呼び出されて
こうして追試を受けている者もいる。
テストというよりは、自習と言ってもいいだろう。
――ただし『合否』があるわけだが。
彼女の採点で高得点を取れば、この追試は終了となり、帰っても良いという仕組みだ。
今教壇に向かっている生徒は『不合格』だったらしい。
だが少しずつ教室から生徒が減ってゆくなか、ファングは自分の名前すら書いていない。
春のあたたかさを含んだ風が窓の外を吹きぬけ、やさしく梢をゆらし――
ずがっ!
頭のすぐ上を吹き抜けた疾風に、ファングのバンダナに遮られた前髪が激しく煽られる。
ほおづえをついて動けないまま、だが汗だけが流れる。
「余裕ね?ファング?」
「あー・・・・」
にっこりと笑って、片手だけは前に投げ出したままで、雪恵。
肉食動物がいる檻の中に放り込まれ、震えている子犬をなんとなくイメージする。
ひととおりファングはうめいてから――ゆっくりと椅子に座ったまま振り返った。
「あ゛ー・・・・」
まるで学園建設当時からそこにあったかのように、深々と巨大な三角定規が突き刺さって
いる。
壁ごと中央からぐっさりと貫かれて――壁に画びょうで留めてあった『学園おたより』と
書かれた
わら半紙のプリントは、ファングの見ている前で力尽きたように、ぺらりと折れた。
この三角定規、マグネットがついていて、黒板に貼り付けて教師が生徒のために
図形を書いて説明するものであるのだが、雪恵はなぜかこのように使う。稀にだが。
「全部終わるまで帰らせないわよ――ま、ちゃんとその分残業手当はもらうつもりだけど。
いろんな形でね」
「ぁ゛ぅうううううううう・・・・」
「自業自得だってーの」
突然会話に割り込んできたのは、ファングの隣に陣取っているトノヤだった。
靴のかかとを踏んでつっかけるようにして履いている上に、ズボンの裾は
生地としては致命的なまでにほころびている。
金属のように逆立った髪は白銀だ。瞳は右が赤、左が青である。
全てが鮮やかすぎて、他の生徒が霞んで見えるくらいだ。
とにかく目立つ容姿なのだが、目の前のプリントは完璧に埋まっている。
だがファングに付き合おうという気でもあるのか、実に退屈そうに椅子に寄りかかって不
安定にゆらゆら揺れている。手にはおもちゃの銃。水鉄砲のような安っぽい外見のそれを、
いやに大事そうにいじっている様は見ていてなかなか面白い。
彼とはよくここで会う。言ってみれば二人の特等席なのだが、ファングとしては
二度と座りたくない席でもある。同じことを毎回思うわけだが。
そしてファングは追い詰められた顔で、そちらに向き直った。
「お前なぁっ!お前はセンセーの事知らないからそんな事言えんだよ!
もう俺の中では雪ナントカとか言ったらなんか土の中で4000年くらい眠ってた
大魔王が蘇って海が割れて――」
ごっ!
高速で飛んできた黒板消しを眉間にまともにくらったファングは、そのまま
椅子ごと後ろ向きに倒れていった。
その様子を目だけで追っていた雪恵は、一粒も黒板の粉がついていない
爪先をファングがいた机――雪恵の位置からはファングが見えないが、
そのあたりに突きつけて、言い放つ。
「次、わけわかんないことで私の眉を一ミリでも動かしたら当てるわよ」
「・・・当たってんジャン」
やはり腕を組んで、ゆらゆらと椅子に寄りかかって不安定な姿勢で、トノヤが
目を回しているファングを視線で指す。
「バカね、私が本気で当てたらこの教室なんか微塵も残らないわ」
「一体何投げんだよ!?」
――その後、皆の正解率が異常なほど上がったのはいうまでもない。