<Who is she?>  <Passing each other>  <Here comes a colorful frog!>  <Where is Wally?>  <The pattern and the action.> 
<In the Pandemonium>  <The hint with love?!>  <My home My family ...and Subject>  <Past Padesso!>  <Meat and Vegetable> 



               <Who is she?>           悠々


  “嫌だ、無理だ、面倒だ”

   先ほどからこの三語を呪文のように唱えながら、ライル・フィルグランドは学長の話を
  聞いていた。室内にいる数名の教師達は神妙な面持ちでそれを聞いているようだ。ライル
  もまた表面上には穏やかに彼の話に耳を傾け、そんな言葉を繰り返し胸の中で呟いている。  

  「……というわけで、去年のような事もありますので、今年は我々も動く必要があること
  を了承して下さい」

  (我々って、あんたは動くつもりはないだろ)

   眉の端を微かに動かして、ライルは無言で反論した。

   学長の言う“去年のような事”とは、去年の卒業試験で、お馬鹿な生徒が事故に遭い、
  瀕死の重傷を負ったことだ。運が悪いことに、そいつが学業優秀者だったものだから、学
  長がこうして青くなっている。事故を起こした時点で“学業優秀者”の箔を略奪すれば良
  いだけの話だと思うが、それとこれとは別問題らしい。“将来有望な若者を”といった前
  句付きで、出資者や親、更にライバル校から溢れてきた文句をかわそうというのが、学校
  長様のお考えというわけだ。

   つまり今年の卒業試験は、学業優秀者の助手を教師が務めよ、というのが新企画らしい。
  裏を返せば、学業優秀でない者は死のうがどうなろうが関係ないという意味だと思うが、
  誰も掘り下げる者が出なかったので、企画は決定となってしまった。

  (面倒……)

   自宅と学校を通って、たまに酒場によって、時々夜遊びをするぐらいの人生で十分満足
  しているライルにとって、遠足だの課外授業だの、無駄な労働はしたくはない。その上、
  今回は卒業試験の助手などと、更に重労働と来ている。

  「というわけで、こちらが皆さんの担当生徒です」

   配られた紙を広げ、ライルはそれをジッと眺めた。

  “ニナ・エインズ”

  ───って誰?



   学長室を出る。学業優秀者の名前を他の教師に尋ねるわけにもいかず、ライルは紙を握
  り締め、どうしたらその“エインズ”なる生徒を知ることが出来るかと算段した。

   しばらく廊下を歩いていると、背後から声をかけられる。

  「フィルグランド先生!」

   仕方がなくライルは、鬱陶しさを隠しながら振り返った。

   目線を下げた場所に、ごく普通の女子生徒が立っている。記憶にない顔だが、生徒は全
  て顔も名前も覚えていない。むろんその理由は“面倒だから”だ。

  「何か?」

   物わかりの良さそうな教師のふりをして、軽く微笑む。今は機嫌が悪いから話しかける
  な、という内面は、当然尾首にも見せなかった。

  「あの、これ……」

   そっと差し出された手の先に、ペンが一本握られている。

  (またか……)

   ペンの類など、興味は一切無かった。無かったが、女子生徒から渡される様々な贈り物
  に辟易し、ある時“貰うならペンが良いな”と呟いたら、その次の日から毎日一〇本づつ
  ストックが増えている。それどころか“フィルグランド先生はペンマニア”などという、
  有り難くもないレッテルまで貼られ、部屋は“ペンの倉庫“と化していた。

   本当は何処かで売りさばきたいのだが、誰かに見つかって評判を落としたくないので、
  我慢をしている。やる気も根気も覇気も全くない教師としては、唯一評判だけを保ち、ク
  ビだけは何とか免れたい。

  「ありがとう」
  「先生のお好みに合うかどうか分かりませんが……」

   好みなんか一切無いから大丈夫、とはさすがに言えなかった。

  「とても綺麗なペンだね。気にいったよ」

   如何にも有り難いといった様子で、胸ポケットに仕舞い込む。どうせ夜にはストックの
  山の一本となるだろうが。

   まだ何か言いたそうに、女子生徒がライルを見上げていた。頬を染め、輝かせるそんな
  瞳は見慣れた図だ。

   自慢じゃないが自分は顔だけは良いと思う。よく“人間離れした”と表現される事もあ
  るが、“人間じゃない”と言われてるようで嫌だった。だが顔が良いのは紛れもない事実。
  “顔が良くて困っている”などと謙虚なセリフは言うつもりもない。“顔が良くて得した
  こともあるが、最大限利用するつもりはない”と言ったところか。

   その理由は、むろん“面倒だから”。

   更なる会話を期待している女子生徒の目の前にして、ライルはふとあることを思いつい
  た。先ほどの“エインズ”の事を尋ねてみよう。

  「そういえば、君はニナ・エインズ君を知ってるかい?」

   他の女子を話題にされて不快に思ったのだろう。少し顔を暗くして彼女は“ええ”と小
  さく返事をした。

  「彼女は何組だったかな?」
  「エインズさんは三年三組ですけど……」
  「ああ、そうだった」

   そう言いながら微笑んでみせる。少し不自然だったろうか?

  「あ、あの……」
  「何?」
  「フィルグランド先生は、やっぱり成績が良い生徒の方が好きですか?」
  「そんなことはないよ。生徒は誰も分け隔て無く接しているつもりだ」

   分け隔て無く興味がない、という意味だが。

  「そうですか!」
  「君も大切な生徒の一人だ」

   生徒がいるからこそ、給料が貰えると解釈して欲しいけれど。

  「私、てっきりエインズさんが好きなのかと思いました」

   名前を聞いただけで何故そうなる?

  「エインズさんって飛び級しているほど頭が良いから……」
  「ああ、でも教師としては、成績の良い生徒は素晴らしいと思うよ」

   教えることが無くて楽だから。

  「そうですか……」
  「君も頑張りなさい」
  「はい」

   小さく頷いて、女子生徒は立ち去っていった。


  “ニナ・エインズ”は飛び級をしている三年三組の女子生徒。そんな生徒がいたとは初め
  て知った。いや、何処かでたぶん聞いたと思うが、記憶の破片も残っていない。

  (まあいいか、それだけ分かれば)

   ひとまず最低限の情報は収拾できた。





              <Passing each other>         透子


  『卒業試験要項』
  そう印刷されたプリントを見ながら、ニナは深くため息をついた。

  (まさか…実地試験だなんて…)

  ペーパーテストならば、まだ自信があった。
  だが実践となると、その自信はたちまち萎んで、代わりに劣等感が頭をもたげてきた。
  自慢じゃないが、体育の成績は赤点ギリギリ。徒競走はいつもビリ。
  運動系の行事では足を引っ張り、クラス内からは冷たい視線を浴びている。
  そんな自分に、『奇跡の指輪発見』などという条件が、クリアできるはずもない。

  諦めようかな。

  一瞬よぎった考えを、頭を振って追い払った。
  学歴だけが自分の取柄なのだ。
  こんなところで躓いていては、またあの人たちに笑われてしまう。
  せめて、せめて。何か一つだけでも、勝てるものが欲しい。
  そう思って、死に物狂いで勉強し、飛び級までしたのだ。

  (頑張らないと…)

  気を取り直して、ニナは『奇跡の指輪』の資料を集める為、
  既に常連となった図書室へと赴いた。



  昼休みの図書室は人影もまばらで、静かな空気に満たされていた。
  この学園の図書室は蔵書も多く、図書館などよりも種類が豊富なので
  ニナはよく愛用していた。
  幾つかの棚を回り、数冊の本を手にして閲覧コーナーへ向かう。
  いつもの指定席に座り、一冊目の本を手にとった。
  タイトルは「奇跡の指輪」、まさにまんまの題名である。
  状態の良さと識別番号から推察するに、この卒業試験用の資料として購入されたものだろう。 
  利用人数の少ない図書室に置かれていて、本当に役に立つのかは甚だ疑問だが。

  ぺらり。
  表紙をめくると、指輪の挿絵が目に飛び込んできた。
  どこにでもありそうな指輪。
  はたして2ヶ月という短期間で、これが現実の物になるのだろうか。
  そう考えると、再び盛大にため息をつきたくなったが、堂々巡りに陥りそうなのでやめて
  おいた。
  どうせまた、『頑張らないと』という結論に達するのは目に見えている。

  珍しく、前向きな事を考えてるなと思って。
  ニナは小さく自嘲した。

  次のページをめくろうとして、ふと、本の上に影が落ちていることに気付く。
  視線を上げていくと、まず脚が目に入った。
  太い。いや、自分も他人のことは言えないけれど。
  それ以前に、学園規則に則っていれば、この角度からはスカートしか見えないはずだ。
  指導部に捕まらないのが不思議なぐらいの、見事な規則違反だ。

  更に視線を上げる。
  真っ赤に塗られた爪は、この際無視することにした。

  また視線を上げる。
  趣味なのか、それとも単に失敗しただけなのか。
  美的センスを疑ってしまう髪の色。
  所々、薄かったり濃かったりして、一言で言えば斑(まだら)だ。

  気力を振り絞って、ようやく相手の顔まで到達した。
  くっきりとアイラインの引かれた、ド派手な顔がそこにあった。

  (うわぁ…)

  その言葉を最後に止まってしまった、ニナの思考を見透かしたかのように、
  彼女の妙にハスキーな声が問いかけた。

  「フィルグランド先生と組む、ニナ・エインズって…アンタよね?」


  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


  「ニナ・エインズは居るか?」

  三年三組の前で女生徒を一人つかまえて、ライルは単刀直入に尋ねた。
  尋ねられた少女は頬を赤らめながら、ニナの不在を告げた。

  「あの…エインズさん、今なら図書室の方にいると思うんですけど…」
  「図書室?」
  「は、はいっ!あの人、休み時間はいつも図書室に行くみたいなんです」

  『ありがとう』と、女生徒がいかにも喜びそうな笑顔を浮かべたライルの鼻先に、
  ズイッとペンの束が突き出された。

  「あ、あの、フィルグランド先生は、ペンがお好きだと伺ったものですから…!」

  今日はとことん厄日だ。
  そう思いながらペンを受け取り、歩き出したライルは、最後に一度だけ振り返った。
  未練があったわけではない。ただ一つだけ、どうしても聞いておかなければならなかった
  のだ。

  「ところでキミ、図書室の場所を教えてもらえないか?」 





           <Here comes a colorful frog!>       悠々


   最初の感想は“雌鳥”だった。次に“極楽鳥”と思い、最後に“斑な蛙”という事で落  
  ち着いた。

   つまり二人の女子生徒のうち、片方を見た時の印象だ。彼女がもし“エインズ”であっ
  たとしたら、これからの労働がますます嫌になる。個人的な女の好みを持ち出すべきでは
  ないかもしれないが。

   遠目から観察するに、斑蛙が三つ編みの黒髪を攻撃している。魔物襲来に戦[おのの]い
  ているらしい方は、困惑した様子で蛙の言葉に耳を傾けているようだ。

   図書室の入口でライルはしばらく様子を窺っていた。不用意に近付いて巻き込まれたく
  はない。そうしたことは何度もあるし、女同士の喧嘩ほど取り押さえるのが面倒ときてい
  る。暴力沙汰なら、どっちか一方を適当にねじ伏せればいいのだが……。

  「だから、ライル先生とコンビを組むなんて、あたしが許さないって言ってるのよ!」

   蛙の妙な叫び声が聞こえてきた。そんな権利が彼女にあったとは驚きだ。

  「あ、あの、別に私が決めたわけではないので……」
  「あんたが決めたんじゃなくても、断るぐらいは出来るだろ?!」
  「断らないと駄目なんですか?」
  「あんたみたいな女が独り占めするなんて、百年早いんだよ!」

   どうやら黒髪の少女がニナ・エインズらしい。彼女は今度の卒業試験の件で、つまらな
  い鞘当てを喰らっている最中のようだ。これは困った。

   こういう場合どうしたらいいのだろうか? 出ていって、蛙を追い払うのが一番適切な
  る処置だろうが……。

  (無視したい、無視したい、無視したい……)

   右足を引きかけたライルだが、自分は教師だということを唐突に思い出し、不本意なが
  らも仲裁に入ることにした。



  「これは何の騒ぎかな?」

   穏やかな口調で声をかける。エインズと蛙を見比べているという演技はしたが、蛙の方
  を向くと自然に視線が泳いでしまった。反面、“これは容姿を崩しているのか、それとも
  良く見せようという努力なのか?”と、どうでもいいことまで考える。

   まあ、どっちでもいいんだけど。

  「ライル先生!」

   ファーストネームを呼ぶとは、蛙の分際で馴れ馴れしい。

  「どうしたんだ?」
  「卒業試験で彼女の助手を務めるって言うのは、本当ですか?」
  「そうみたいだね」
  「どうしてですか! 先生が誰かの助手を務めるなんて、みんな凄く哀しんでいます!」

  (どうしてだかは学長に聞いてくれ。更に言わせてもらえれば、一番哀しんでいるのは俺
  自身だ)

   とは言わず、少し哀しげな表情を作って、

  「むしろ応援してくれると思っていたんだが、残念だな」(嘘だけど)
  「え?」
  「卒業試験の助手はこう見えても大変なんだ」(面倒だから)
  「そうなんですか?」
  「助手をする教師にも、答えを教えてもらってないんだよ」(ムカツクことに)
  「そうなんですか……」

   俯く斑蛙。もし色んなところがカラフルでなければ、哀しげなその表情は、少女らしく
  て可愛いだろう。

  「わ、分かりました。でもエインズさんとなんかあったら、絶対に許しません!」

   捨て台詞を吐き出して、蛙が消えていった。


   ニナと二人、図書室に残される。未だ魔物襲来の衝撃から立ち直っていない彼女は、少
  し青ざめた様子で口を噤んでいた。

  「君がニナ・エインズ君?」
  「あ、はい……」
  「それは良かった」
  「え?」
  「あ、つまり君のように優秀な子で良かったという意味だが……」

   少なくてもカラフルでないところが有り難い。

  「あの、フィルグランド先生。もしみんなが嫌だというのなら、他の先生と替わって頂け
  ますか?」
  「それは多分できないと思うな。他の先生もそれぞれ担当生徒がいるからね」
  「だったら、私、一人でも大丈夫です」

   大丈夫と言ったわりに、やたら自信が無さそうだった。

  「これは決定事項だから覆せないんだ。それより“奇跡の指輪”について調べていたんだ
  ね?」
  「ええ」

   これは本当に優秀だ。予習をする生徒など、昨今なかなかお目にかかれない。

  「何か分かったかな?」

   ライルが尋ねると、困惑気味にニナは本へと視線を落とした。





              <Where is Wally?>         透子


  幾つかの資料を説明しながら、それでもニナの意識は彼の方へと向いていた。
  ライル・フィルグランド先生。年は…いくつか忘れた。
  若くも見えるし、時折物凄く大人びても見える。…老けて見えるわけではないけれど。
  その年齢不詳の要因は、教師とは思えないほどの美貌にあるのだろうと、ニナは結論付け  
  た。

  この学園内に、美貌を誇る人間はそれなりに居るが、彼はその中でも
  特に飛びぬけているように思われた。
  もちろん、自分の美的価値基準の中での話だけれど。
  先ほどの――名前を聞きそびれた――彼女のようなファンが多いというのも、頷けるとい
  うものだ。

  (まつげとか…長いし)

  顔立ちは多分に男性的なはずなのに、まつげだけはびっしり綺麗に生えている。
  ニナは、彼の横に並んだ自分を想像して、ちょっと落ち込んだ。
  いや、かなり…。もしかしたら、もう少し落ち込んだかもしれない。
  簡潔に言ってしまえば、ものすご〜く落ち込んだ。

  (どうして、さっきの人たちとか…平気なんだろう…)

  横に並んで、比べられることを怖れないのだろう。
  分かってしまうのに、気付かされてしまうのに。

  「エインズ君?」
  「あ…、ひゃい!」

  唐突に名を呼ばれて、ニナの口からは変な音が出た。
  慌てて彼の方を見ると、声を押し殺して笑っている。

  「あ…あの、え〜と…」
  「いや…失礼。あまりにもジッと見つめられたもので、顔に何かついているのかと思って
  ね」
  「そ、そんなに見てましたか?」
  「それは、もう。じっくり、ハッキリ、ねっとりと」

  (………ねっとり?)
  少し謎の表現が混ざったが、冗談だろうと思って曖昧に笑みを返した。
  向こうも、色々なものを含ませているであろう笑みで応戦してくる。

  沈黙。

  (…気まずい)

  ここは何か、気の利いた事を言うべきなのだろうか。
  「先生が綺麗だから見とれちゃったんですぅ〜」とか。
  「先生の前世を透視してましたぁ〜」とか。
  「先生の背後にいる、半透明の女の人と会話してましたぁ〜」とか…。

  無理だ。
  絶対に無理だ。
  というか、確実に引かれる。
  もともと他人と接することが極端に苦手な性格なのに、初対面の男性相手に、
  気の利いた言葉など浮かんでこようはずもなかった。

  (…と、とにかく何か言わないと!)

  この気まずい状況を打破する為に、ニナの頭の中では
  ウォー○ーに匹敵する勢いで、『気の利いた言葉探し』が行われていた。





           <The pattern and the action.>       悠々


  「ゆ、夕食は何でしたか?!」

   ニナが突然そんなことを切り出したのは、長い沈黙のあとだった。

  (夕食と卒業試験の関係は何だろう? 夕食に何かのヒントがあるのか?!)

   謎の質問に頭を悩ませ、困惑気味にライルが見つめると、少女はお下げの先を指で弄り  
  ながら、真っ赤な顔でしどろもどろに口の中で何かを呟いている。

  「昨夜はワインと肉だったかな」
  「お、お肉とワインですか」
  「ワインは12年物。肉はポートラ産の子羊のソテー。レアを頼んだのにミディアムレア
  だったのが少々不満だったな」
  「そ、そうですか」
  「で、俺の夕食と試験との関係は?」
  「関係があるんですか?!」
  「ないの?」
  「わ、分かりません」

   会話が噛み合っていないような気がする。見た限り、ニナはどちらかというと、いや、
  どう考えても大人しい部類の生徒らしい。出来れば勝手に試験を進めてもらって、外野か
  ら適当に手伝うのが理想だったのに、これは最初から思惑が外れてしまったようだ。

  「とりあえず話を戻そう」
  「は、はい……」
  「本には何か書いてあったかな?」
  「あ、あの、ここに“奇跡の指輪とは、力のある魔術師が作った指輪のことを指す。奇跡
  の種類は様々だが、復活を意味することが多い。他にも奇跡的な魔法が込められた物を指
  すことがある”と書いてあります」

   本の頁を指差しながら、流暢に説明が出来たのは、自分の言葉ではない為だろう。要す
  るに卓上の成績は完璧な生徒なのだ。

  「復活かぁ。それは相当に力がなければ無理だろうな。ほぼ仙人の域だ。そんなヤツが作
  った物を探すとなると、何年かかるか分からない」
  「えぇ?!」

   ニナはオロオロとしながら、本とライルを見比べていた。懇願するようなその表情は、
  どうしていいか判らない、又はどうにかして下さい、もしくはその両方だろう。ライルは
  ニナの手に自分の手を添え、本を閉じさせると、安心させるように軽く微笑んだ。

  「たった2ヶ月の卒業試験に、そんな珍しい物を探して来いとは言わないよ」
  「で、でも……」
  「つまり“傾向と対策”について話し合った方が良いということらしい」
  「け、傾向と対策?!」

   軽く頷きつつ、図書室の入口に視線を走らせる。大きく開かれた廊下から中が丸見えだ。
  ライルは迷うことなくそちらへ歩いていくと、ピシャリと閉めて鍵までかけた。

   静かにニナのところへと戻ってくる。緊張したその面持ちは、これから行われる密談を
  感じ取った為だろうか?

  「あ、あの、せ、先生……」
  「人に聞かれたら、色々とマズイんでね」

   そう言いながらニナに体を近付けると、途端、体を反らされてしまった。

  「せ、先生、何を?!」
  「内緒話なんだから、大きな声を出さないで」
  「はい……」

   からかい半分だったのだが、真っ赤になりながら俯いている姿は少し可愛い。だが冗談
  はこれぐらいにしておこうか。面倒な仕事はさっさと終わらせたい。その為の相談を始め
  るのだ。

  「さて傾向と対策だが……」

   声を落とし、真顔に戻ったライルに、ニナの顔も強ばった。

  「今年の試験官はマイナー女史だ」
  「マイナー先生って言うと、魔法学担任の……?」
  「そう、あの女傑……じゃなくて厳しいマイナー女史の性格を考察し、試験の傾向と対策
  を考えようと言うことだ」
  「はぁ……」
  「あの女……じゃなくて先生の考えそうなことを二人で吟味しよう」
  「はぁ……」

   ニナはポカンと口を開けながら、曖昧な返事を繰り返していた。思ってもみなかった対
  策だったのだろう。だが“奇跡の指輪”などと妙な問題を出すのだから、それぐらいの対
  策は練っても罰は当たらないはずだ。

  「まずあの先生はひねった問題を出すので有名だな?」
  「そ、そうですね。否定形を重ねた問題や、選択した問題によって総合点に差をつけたり
  しますし……」
  「つまり、底意地が悪い……じゃなくて一癖も二癖も……、ああ、面倒だ!」
  「あの?」

   こちらの本性が出始めている。ニナのことだから誰かにベラベラ喋ることはないだろう
  が、“フィルグランド先生は猫かぶり”という噂が流れたら非常にマズイ。まず動き出す
  前に、口止めをしておいた方が良さそうだ。

   真顔のままニナを見つめる。

  「エインズ君」
  「は、はい!」
  「巷の幻想を壊すのは申し訳ないと思うが、実は俺は全くやる気がない教師だ」
  「え?」
  「つまり卒業試験などクソ食らえという意味だ。だが学長様の命令だから、仕方がなく仕
  事をこなすことにしている。だから君もそのつもりでいて欲しい。それから、日頃の言動
  より若干、質が落ちるセリフを吐くかもしれないが、決して他言しないように。分かった
  かな?」
  「は、はい……」

   納得してくれただろうか? これをネタに強請るような生徒ではないとは思うが、やや
  不安があることは確かだ。

  「まあ、いい。というわけで本題に戻ろう。マイナー女史は底意地が悪い女傑だから、む
  しろ“奇跡の指輪“なる物を持って来いなんて、まともな試験を出すはずがない。つまり
  あの女の考える“奇跡の指輪”とは何か、それを考えようというのが、今の課題だ、分か
  るかな?」
  「ええ、何となく」
  「では早速、初めてもらおうか?」
  「な、何をですか?!」
  「マイナー女史の所に行って、探りを入れてきてくれたまえ」

   目を丸くしてニナが言葉に詰まっている。その様子を見ながらも、ライルは真顔を崩さ
  ず更に続けた。

  「分かっていると思うが、ストレートには尋ねないように。今年の試験について、さり気
  なくさり気なく、な?」

   後半は涙目になりながら聞いているニナに、意地悪いことを言っているかなと思いつつ
  も、ライルは閉じた扉を指差した。





              <In the Pandemonium>         透子


  『魔法学室』

  誰もが恐れる人外魔境。
  血よりも赤い点を付けられた生徒の阿鼻叫喚が響き、
  彼らは特別補習という名の拷問にかけられる。
  その様は、まさに地獄絵図。
  学園関係者は、ありったけの畏怖を込めて、こう呼ぶ。

  伏魔殿――と。


  幸いなことに、その実態を知らずに過ごしてきたニナにとって、
  魔法学室はまったくの未開の地と同義であった。
  もちろん、魔法学担当の女傑…じゃなかった、マイナー女史とは、
  幾度か講義についての討論を交わしたこともある。
  けれど、世間の例にもれず、になもまた、マイナー女史を苦手としていた。

  彼女は素晴らしい教師だ。
  実際、彼女に担当してもらってから、魔法学の成績も伸びた。
  しかし、だからといって人間的にも素晴らしいかというと、必ずしもそうではない。
  彼女は…その…、なんと言うか…。

  ネチッこい。

  そう、ライルの言葉を借りれば、ネチッこいのだ。
  まるでそれを楽しんでいるかのように、粘着質な話し方で議論を進める。
  自らの手の内は一切見せず、相手の手を暴き出し、追い詰める。
  もともと相手の意見に同調してしまうニナは、それで何度も丸め込まれた。

  (…その私に、…探りなんか入れられませんよ!)

  不安になり振り向くと、廊下の陰でライルが睨んでいるのが見えた。
  その目は、「とっとと探りを入れてこい!」と言っている。
  再び涙目になりながらも、美しすぎる碧眼に命じられるまま、
  ニナは魔法学室の扉に手をかけた。


  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  「用件を述べなさい、ニナ・エインズ」

  扉を開け切ると同時に、鋭い声がニナを直撃した。
  柔らかな逆光の中に、少し痩せぎすな印象のシルエットが浮かび上がっている。
  マイナー・クオルテ女史、その人だった。

  「あの…、その…私…」
  「…まぁ、それなりに察しはついていますよ。卒業試験のことでしょう」
  「え!…あの、どうしてそれを?」
  「貴女が今、答えてくれました」

  しまった。
  またこの女傑…じゃなくて、女史の手に引っ掛かってしまった。
  慌てて表情を取り繕うが、既に後の祭り。
  恐る恐る彼女の表情をうかがうと、やけに薄い唇だけで笑っている。
  笑っていない瞳が、作り物めいていて怖い。

  「貴女の期待に添えなくて申し訳ないけれど、今回の試験に関しては、
   一切の質問を受け付けません。『奇跡の指輪』の発見は、確かに高度な
   課題ですが、それをクリアできてこそ、この学園を卒業するに相応しいと
   私は考えています」

  それだけを一息で言い切ると、女史はニナに背を向けた。
  硬質で抑揚の無い声は、「学園地下の秘密工場で大量生産されている」という噂を、
  思わず信じそうになってしまう。
  取りつくしまが無いとは、まさにこのことだろう。

  「あの…、せめて…何かヒントだけでも…」

  必死の思いで絞りだした声は、女史の眼光によって破壊され、届くことは無かった。
  その一瞬、レーザービームを見た。後にニナは、そう語る。

  これ以上、ここに居ても無駄だ。
  女史の無言の圧力に気圧されて、ニナは退室することにした。
  脳裏に浮かぶライル氏の、苦虫を噛み潰したかのような表情に、
  とりあえず謝っておく。
  ごめんなさい、やっぱり私には無理でした。

  来た時とは違う意味で半泣きになりながら、扉に手をかけようとした、その時。

  「お待ちなさい」

  何の感情も持たない声が背中から届き、条件反射で振り返る。
  そして、目の前に突き出されたものを見て、
  ニナは本日二度目の言葉を、心の中で呟いた。

  (……うわぁ)

  本日何度目か分からない嫌な予感が、ニナの頭をかすめていった。


  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  


  戦果なし、と報告されたライルの表情は、他の生徒が通りがかったため、
  苦虫を噛み潰す一歩手前で止まった。
  暗に「役立たず」と言われているようで、居心地が悪い。

  「あの…、私、思うんですけど…」

  それでも、何とか言い訳を試みる。

  「もしかしたら、フィルグランド先生が行ったほうが…早いかも…」
  「ほう、その根拠は?」
  「これ…、マイナー先生から預かってきました…」

  気のせいか、ニナの顔が青白い。
  震える手で差し出されたものを見て、ライルは気が遠くなった。

  「まさか」
  「私も思いました…」

  繊細な細工の箱に収められたのは、高級ブランド「Adesso」の――ペンセットだった。 




             <The hint with love?!>        悠々


   まさか直接対決になるとは思ってもみなかった。その上、ペンを返すという苦難を伴う  
  ことになろうとは。

   ニナから受け取った「Adesso」のペンセットを握り締め、ライルは伏魔殿の前で佇んで
  いた。これはいったいどういう事だろう。何かを期待してるのか、唯の洒落なのか、はた
  また果たし状なのか。それによっては返す方法も違ってくる。

   マイナー女史は、ライルの一番苦手としている分類の女だ。全てにおいて丸みのない女
  はつまらない。触った感触が柔らかいのが女だと思うのだが、彼女の場合、頭も性格もギ
  スギスとして、油ぎれを起こしたゼンマイのようだった。

   女の好みは置いておくとしても、いったいどんな対応をすれば一番被害が少ないのだろ
  うか。

   ライルは恐る恐る魔法学室の扉をノックした。しばらくして“どうぞ”という錆びた金
  属音のような声が聞こえてくる。その声に嫌々ながら導かれ、そっと扉を開いてみると、
  正面の机でこちらに背を向けて座っているマイナー女史の怒り肩が目に飛び込んできた。
  それにしても、わざわざ机を窓に向けるところが嫌らしい。“私は全てお見通しよ、来る
  なら来てみなさい”とでも言いたげな様子が、訪れる者全てを恐れさせる。

  「用件は何ですか? 試験のことなら……」

   そう言いながら椅子を回したマイナー女史は、ライルの顔を見た途端、放言を停止させ
  た。

  「どうされました、フィルグランド先生?」
  「ニナ・エインズからこれを受け取りました」

   手にした箱をそっと掲げる。相手は予期していたのか、薄い唇に似合わない微笑みを浮
  かべて見せた。

  「お気に召しません?」
  「受け取る理由が見つかりませんので……」
  「激励……とでも言っておきましょうか?」

   激励されるような覚えはない。そう思いながら、ライルは困った様子で髪を掻き上げた。

  「お気づきになりませんか?」
  「な、何をです?」

   マイナー女史が再び微笑む。普段の彼女からはおよそ想像もつかない表情で、まるで何
  処か壊れているようだ。もしかしたら、量産されているマイナー人形の不良品が出回った
  のかもしれない。そんな勘ぐりを入れたくなるほど、彼女の様子は不自然だった。

  「これに何か意味があるのですか?」
  「お気付きにならないとは、非常に残念です」
  「せ、せめて試験ヒントなのか、それとも別な意味なのか、それだけでも……」
  「両方ですね」

   わけが分からなくなってしまった。益々困り果て、ライルは右手のペンセットを凝視し
  た。すると女史は挑発的に足を組み直し、更に続けて、

  「愛も少々混じってます」

   四十を過ぎた独身女性に、“愛”などと言われたら、誰でも退いてしまうと思う。ライ
  ルは顔を強ばらせ、マイナー女史をジッと眺めた。

  「ど、どういう意味かはよく分かりませんが……」

   すると瞬間にして女史は女傑へと変身した。ライルを見返す視線が凍えるほどに冷たく
  なる。

  「ニナ・エインズに探りを入れさせた、そのお返事をしたという意味です。それ以上はご
  自分でお考えなさい。私、忙しいのでそろそろお引き取り願えますでしょうか?」

   その言葉に、ライルは渋々 ─ 嬉々としてかもしれない ─ 魔法学室を後にした。



   廊下に出た途端、ライルはしゃがみ込んでしまった。所謂“腰が抜けた”というヤツだ。
  怪訝な顔で通り過ぎる生徒達を無視し、深く思い悩む。返すはずのペンセットが手の平に
  深く食い込んで痛かった。

   しばらくして、視線の先に誰かの靴が現れた。敵襲でも恐れているように壁際に張り付
  き、こちらの様子を窺っている。ゆっくりと顔を上げると、案の定、その相手はニナ・エ
  インズだった。

   ライルは無言で手招きをした。近付いてきたニナは、匍匐前進をしそうなほど警戒をし
  た様子である。そんな彼女の手首を掴むと、ライルは急ぎ足で歩き始めた。

  「せ、せ、せ、せ、せ、せ、先生?!」
  「返り討ちにされた」
  「か、返り討ちって……?!」

   周囲にいる女生徒達が刺すような目でニナを睨んでいる。少々可哀想だが、そんなこと
  に構ってはいられない。

  「早く歩きなさい。話は後だ」

   ライルは強い口調でそう言うと、階段を登って廊下を歩いて、そのままニナを自分の部
  屋である生物学室に連れ込ん ─ もとい、連れてきた。


   幾つかある椅子の一つを指差して、ニナを座らせる。涙目の彼女は、肩で息をして気を
  落ち着かせているようだ。それとも早足だったために、息が切れたのか。

  「あの女傑、このペンセットが激励といいやがった」

   ライルはペンセットを握り締め、友人レオナードの口調で言い放った。

  「げ、激励ですか……」
  「この中にヒントが隠されているらしい。ついでに愛も隠されているそうだ」

  “愛も”という部分を強調する。するとニナは困惑気味な笑み浮かべ、俯いてしまった。

  「こうなったら“愛”は無視し、ヒントだけを考えよう」
  「ヒ、ヒントって……」
  「それを探すんだよ」


   それからしばらく、二人は机の上に置かれたペンセットを、穴が開くほど眺めていた。
  しかし少々高級だが、ごく普通のペンセット以外、何も思いつかない。ニナも同じなのか、
  視線を停止させたまま、身動き一つしていない。

   生きているのだろうか。

  「ニナ君」
  「ひゃ、ひゃい!」

   変な声を出した二ナの体が、椅子から飛び上がった。どうやら生きているらしい。

  「とりあえず思いつくことを言ってみたまえ」
  「わ、私がですか?」
  「君の試験だろう?」
  「そ、そうですね」

   再びケースに視線を戻したニナは、目を細めつつ考え込むと、やがて本当に思いついた
  ことを口にし始めた。
 
   曰く、

  「ペンケースです」
  「四角いです」
  「三本セットです」
  「箱が綺麗です」

  “だから、そうじゃないだろ!”とツッコミを入れたくなる。

  「もっと何か無いのか?」

   呆れた声でライルが言うと、ニナは顔を紅くしながらペンケースを睨み付け、

  「『Adesso』って書いてあります」
  「それだけか?」
  「そ、それとも、これだけ何か仕掛けがしてあるとか……?」

   ようやくそれらしい答えが飛び出した。

  「確かこれと同じ物がウチにあったはずだ。明日それと見比べて、違いがあるか調べてみ
  よう」
  「せ、先生はペンに詳しいのではないんですか?」
  「悪いが、ペンなんかこれっぽっちも興味がない」
  「そ、そうですか」

   この際、ニナに正体が全てバレても仕方がない。背に腹は替えられないのだ。

  「では明日までに君にも宿題を出そう。このAdessoという言葉の意味を、調べてきておき
  なさい」

   ライルが命令すると、ニナは哀しそうに溜息を吐き出した。





          <My home My family ...and Subject>     透子


  予鈴が鳴って、ニナはそこで解放された。


  「いいな、明日までだぞ」
  「は、はいっ。努力します…」
  「それから」
  「はい?」
  「くれぐれも、今日のことは他言しないように」
  「はぁ…」


  生物学室から出るときに交わした会話が、ゆったりと揺れている。
  しつこいぐらいに釘は刺されたが、友人の少ないニナには
  誰に話していいかさえも分からなかった。
  話したところで、冗談だと思われるのが関の山だろう。
  ――いや、それどころか、先ほどの蛙…もとい女生徒のような『信者』に
  目を付けられる可能性もあった。

  どうやら、話さない方が双方に利があると悟って、ニナは小さく苦笑した。


  ――――――――――――――――――――――――――――――――


  午後の授業はつつがなく終了した。
  ニナは二度ほど当てられ、如才なく解答し、隣りの席の女生徒にノートを見せた。     
  最後の授業を終えて、荷物を片付けた頃、西の空が茜に染まった。

  一日は、いつも単調だ。
  それが当たり前だと思っていたし、何かをするだけの勇気も力もなかったから。
  けれど、今日は単調ではなかった。少なくとも。

  (……楽しい?)

  そう思っている自分がいた。
  クリアできないはずの卒業試験。
  いつもなら、絶望に翻弄されているはずの自分。
  その自分が、この状況を楽しんでいる。

  (……変なの)

  夕日のまぶしさに、思わず瞳を閉じると。
  斑の髪と、痩せぎすの骨格と、奇跡の指輪の挿絵が浮かんで。
  最後に透けた碧の瞳が浮かんだまま沈まなかったので。
  それが原因なのだと、ニナは勝手に結論付けた。


  ―――――――――――――――――――――――――――――――――


  物理的にも、精神的にも重い扉を押し開けると、そこには空洞がある。
  がらんとした、誰も居ない、何もない空間。
  それが彼女の、自宅に対する感想だった。
  それ以上にも、それ以下にもなることはない。

  家族は7人。
  父と、4人の兄と1人の姉、弟が1人。
  その誰もが、この家には居ない。
  父は最近創設したばかりの学校経営が忙しく、ほとんど家に寄り付かない。
  兄姉達も、仕事だ学校だと世界中を飛び回っている。
  弟に至っては、長く入院生活を送っているために、会ったことすらなかった。

  寂しいと思ったことはない。
  けれども、今日だけは、無性に人恋しかった。

  (誰も居ないのに)

  分かり切ったことだと呟いて、ニナは無数にある本棚の中から、
  数冊の辞書を抜きとった。
  出された課題をこなしていれば、そんな気持ちは全部忘れられる。
  それも、いつものこと。

  「えっと…、確か…」

  Adesso

  黄ばんだページをめくり、一心にその単語を探す。
  指先にざらついた紙の感触が伝わるたびに、ニナは深い淵に落ちていくような
  不思議な錯覚を覚えた。



  やがて、その底に、一つの答えが浮かび上がった。

  Adesso
  英語の「now」に位置する言葉。
  訳するなら、「今」や「現在」

  それが何かの手がかりになるのかは、ニナには全く分からなかったけれど。
  少なくとも、今日だけは、ゆっくり眠れそうだった。





               <Past Padesso!>          悠々


  「今? 現在?」

   ライルがそう聞き返すと、ニナは遠慮がちに小さく頷いた。

   次の日の午後、二人は図書室の一角に腰を下ろし、他の生徒にジロジロと見られながら、  
  作戦会議をボソボソと行っている。ニナは周囲の目が気になるらしいが、ライルは一切無
  視を決め込んでいた。

  「ふぅん……」
  「あの、何か分かりますか?」
  「何かって何が?」
  「いえ、あの、“現在”という言葉がヒントになったかという意味なんですけど……」

   そうであってくれという哀願の色が、伏せ目がちな動きの中にもチラリと見えた。

  「つまり奇跡の指輪とは、“現在”という時間の流れを止めて、その時空間の中で動き回
  れる力が込められている指輪のことだな」
  「え?! そうなんですか?」

   パッと明るく輝いたニナの顔を、ライルは無表情に見つめ返した。

  「……ち、違うんですか?」
  「そんなことは分からない」
  「で、でも、今……」
  「あてずっぽ」
  「そうですか」

   ガッカリして肩を落とすニナ。かなり分かりやすい性格らしい。それとも自分との距離
  が少しだけ近付いた結果の表情なのだろうか? ライルはふとそんなことを思いながら、
  優しく微笑んだ。

  「とりあえず、こっちのセットと比べてみよう」

   ライルは家にあった同じ型のケースを取り出すと、マイナー女史のそれを横に並べ、丹
  念に比べてみた。

  「うーん、どこも違うところはない気がするな」
  「中身は?」

   ニナに言われ、ライルは両方の蓋を開け、ボールペン二本と万年筆をそれぞれ眺めたが、
  同じペンが二本づつあるという事実を認識するだけに終わってしまった。

  「どこをどう見ても、同じだ」
  「そうですね」
  「ちょっと書き心地を試してみてくれ」
  「はい」

   ニナは鞄から小さなノートを取り出すと、六本のペンを一つづつ持って、何度も円を書
  いたり、線を書いたりしていたが、とうとう小さく首を振って、全てをケースに収めてし
  まった。

  「一緒か」
  「ええ……」

   しばらく二人は、まるでそうしていれば答えが浮かんでくるかのように無言で二つの
  ケースを睨んでいた。

  「やっぱりクオルテ先生に騙されたんでしょうか?」
  「そう考えた方が良さそうだが……」

   何か引っかかる物があるとライルは思った。あのマイナー・クオルテがあからさまに嘘
  をつくとは思えない。だったらやはり何らかの示唆が、このケースにあるのではないのだ
  ろうか? そう思いながら、ライルは何気なくマイナー女史進呈の方を手に取ってみた。
  蓋を開け、もう一度ペンを確認する。どれも高級感溢れるペンだったが、特別注目すると
  ころは見当たらなかった。

   その時ふと、蓋の裏に何かが書いてあることに気が付いた。ライルは急いでもう一つの
  ケースを開けて確認してみたが、そちらには何も書かれてはいなかった。

  「どうしたんですか?」
  「ほら、ここ。蓋の裏に小さく文字が書いてあるだろ?」

   金属のケースの上にボールペンで書かれてあるものだから、指で擦れば消えてしまいそ
  うなほど薄らとした文字だ。

  「あ、ホントだ」
  「ええと、表と同じ『Adesso』かな。いや違う。『Padesso』だ。意味は……」
  「たぶん過去です。でもどういう事でしょう?」
  「さあな」

   迷宮が二人の前にぱっくり口を開いて待っている。その背後からマイナー女史が棒で突
  っつき、中へ落とし込もうとしているようだ。ライルはそんな馬鹿な想像をしながら、あ
  らゆる可能性を考えてみたが、持ち駒の少なさに、想像力も直ぐに底を付いてしまった。

  「ダメだ、さっぱり判らない」
  「私達、答えを見つけられるのかしら……」

   声は不安げだったが、表情は何故か落ち着いた様子でニナがポツリと呟く。

  「まあ、何とかなるさ」

   態と明るい声を作ってライルはそう言うと、ゆっくり椅子から立ち上がった。

  「とにかく少しでも動いた方が良さそうだ」
  「動くって……」
  「街に出てみよう。片っ端から尋ね歩く。面倒だが、作戦は匍匐前進に切り替えだ」

   ライルの言葉に素直に従うつもりなのか、それとも成り行きに任せているのか、ニナは
  何も言わずにゆっくりと立ち上がったのだった。





              <Meat and Vegetable>         透子


  何かが狂ってきている。
  それはあまりにも緩慢としすぎていて、見定めることはできないけれど。
  それでも確実に、歪みが生じている。

  ――日の光なんて似合わないわ。

  分かってる。
  それでも此処は、手放すには心地良すぎる。

  ――まだ、自分の程度が分かっていないの?

  そんなもの知らない。
  心が揺れるのは、どうしようもないじゃない。

  ――傷付くのは、いつも貴女よ。

  「傷付かないわよ…」

  誰にともなく呟いて、私はゆっくりと立ち上がった。
  まるで怖れているかのように、性急にカーテンを閉め、陽光を遮断する。
  ひんやりとした室内は、その腕の中へ私を包み込んでくれる。

  傷付かないわ。

  今度は唇だけで呟いて、銀の髪に想いを馳せた。
  そう、傷付くことなどないのだ。
  私には、未来などないのだから…。


  ――――――――――――――――――――――――――――――――

  前を行く、背の高い影。
  光に反射して、金にも銀にも輝く髪。
  誰もが振り返る、その容貌。
  けれども彼女の脚は短すぎて、彼にはなかなか追いつけなかった。
  たまりかねて、小さくその名を呼ぶ。

  「あの…、フィルグランド先生…!」

  しまった、小さすぎた。
  目立たないようにと押し殺した声は、まるで囁きのようだった。
  これでは2、3m先を歩くライルに聞こえる筈もない。
  だが、そんなニナの不安を打ち消すかのように、ライルは数歩の後に、ぴたりと立ち止ま  
  った。
  そのままくるりと振り返り、緑玉色の瞳をニナに向ける。
  案外、地獄耳なのかもしれない、とニナは思った。

  「何をしてるんだ、日が暮れるぞ」
  「あの…、その…、もう少し…ゆっくり…」
  「体力がないな」
  「あったら…、先生にこんなご迷惑をかけなくて済んだんですけど…」
  「もっと肉を食え」
  「あの…、それは関係ないと思います…」

  とりとめもない、ともすれば無感動にも聞こえる会話。
  けれども、ゆっくりと周りの風景が動いていることに気付いて。
  ニナは突然、笑い出したくなった。

  「緩んでる」
  「え?」
  「顔」
  「顔にも力が足りないんです、きっと…」
  「もっと野菜を食え」
  「あの…、それは関係ないと思います…」

  閑静な住宅街を抜けて、賑わう商店街を通り越して。
  向かうは郊外。
  高級ブランド「Adesso」の専門店。